いえばよかった日記

書評と創作のブログです。

最小の暴力1——ジャック・デリダ「暴力と形而上学」について

 

 『評伝レヴィナス』(サルモン・マルカ 斎藤慶典・渡名喜庸哲・小手川正二郎訳)によると、後にソ連へ吸収されることになるリトアニアに生まれた哲学者エマニエル・レヴィナスは、ロシア革命による政治的動乱を機に一九三〇年にフランスに帰化する。その際、フランス国籍取得の条件として兵役を課され、実際に第二次世界大戦においてロシア語の通訳者として軍務につくことになる。一九四〇年六月五日、ドイツ軍との戦闘に敗北したレヴィナスの所属する連隊は捕虜となり、ドイツ国内へ移送される。ユダヤ人でもあったレヴィナスガス室が間近に迫るのを覚悟したが、フランス軍の兵士として登録されていたためジュネーヴ条約によってかろうじてホロコーストを逃れる。しかしこの後ナチス・ドイツが降伏する一九四五年までレヴィナスは捕虜生活を強いられることになる。
 この体験を経た後、戦後になって発表した著書のなかで彼は次のように書いている。「存在の積極性そのもののうちに何かしら根本的な禍悪があるのではないだろうか。存在を前にしての不安——存在の醸す恐怖〔おぞましさ〕——は、死を前にしての不安と同じく根源的なのではないだろうか」(西谷修訳『実存から実存者へ』)。妻や息子こそ難を逃れたものの親族みなが死に絶えてしまったという途方もない現実を前にした哲学者の呻きが、このパッセージからは痛ましく聞こえてくる。なぜ自分ではなくあの人が死んだのか、なぜ自分が生き残ったのか。レヴィナスはそう自らに問いかけて苦しんだだろう。その問いは「自分はなぜ存在するのか」「なぜ生まれてきたのか」という答えようもない形に姿を変えてこの温和な哲学者を襲ったはずだ。そこにはホロコーストから生き残ってしまったレヴィナスのペシミズムがある。レヴィナスの著作はこのペシミズムとの戦いと克服の痕跡であり、レヴィナスを読むとは「存在の積極性そのもの」、つまり生まれてきたことそのものに付随する「根本的な禍悪」を直視し、その不安に呻ぎながら、それでも己れの存在を肯定するための倫理を求めることである。その倫理の構築の第一歩として、レヴィナスはペシミズに促されながらもそこから半身を捻るようにして次のように書く。

気だるさのなかに、実存者が拒絶のためらいによってみずからの実存をつかみとる運動、したがってそこで実存との特殊な関係——関係としての誕生——が表明されることになる運動を弁別するとしても、この関係を判断とみなしてはならない。気だるさは、存在することの禍悪に対する判断として、つまり情緒的な陰影や気だるさいう「内容」に色づけされた判断として立ち現れるのではない。いっさいの判断以前にありとあらゆるものに倦み果てること、それは王位を捨てるようにして実存することの拒絶を遂行する。気だるさはこの拒絶によってしか存在しない。いわば気だるさとは、経験の次元で視覚だけが光の把握であり、聴覚だけが音の覚知であるのと同じように、実存することの拒絶という現象が遂行される固有の様式なのである。(四六頁)

 哲学者であったレヴィナスにとって、戦後の火急の課題はナチズムに加担した自身の師、ハイデガーの思想を乗り越え、さらに伝統的西洋哲学を超えてあたらしい哲学を構築することにあった。たとえ「私たちの考察が、その発端において少なからず——存在論の概念や人間が存在ととり結ぶ関係の概念に関して——マルチン・ハイデガーの哲学に触発されたものだという」事実は否定し切れないにしても、「ハイデガー哲学の風土と訣別するという深い欲求に促されると同時に、しかしながらまた、この風土からハイデガー以前ともいうべき哲学の方には抜け出ることはできまいという確信」が必要だったのである(前同 二六頁)。この確信に導かれてレヴィナスは実存という概念に「気だるさ」をぶつけ、「実存することの拒絶」という事態を通して実存を考察する。気だるさを別の箇所で「疲れるとは、存在するのに疲れることだ」と言い直したレヴィナスは(六六頁)、気だるさ=疲れによって実存者が実存することに遅延することがあると考える。実存することに遅れた実存者は幽体離脱した魂のようになって自分の背中を追いかける。この「みずからの実存をつかみとる運動」によって一人の人間のなかに「実存すること」(背中)と実存者(魂)の関係を見出すことができる。人間とはそれ自身で一個の関係なのである。それは自己のなかにすでに他者が存在していることを意味し、他者との関係が人間の実存にとって根源的なものであることを証明する。
 これを一般化したレヴィナスは「人びとはただたんに他者の前で一個人なのではなく、何ものかをめぐって他者たちとともに個々人なのである。隣人とは共犯者なのだ」と書きつけるのだが、この箇所を掴まえて熊野純彦は次のように書いている。

倫理とは、レヴィナスのみるところ、世界の外部から到来する他者との関係そのものなのだ。——他者を私が構成するのではない。逆である。到来する他者、私の世界の外部から到来する他者のみが、私の単独性を指定し、私を「この」私として、唯一の私として構成する。そうであるならば、そのような他者との関係にあってだけ、つまり<倫理>的な関係においてのみ、私は<私>でありうる、と考えることが可能であることになる。(『レヴィナス入門』)

 私とはそれ自体で一個の関係であるが、そのモデルは「世界の外部から到来する他者」である。つまり外部に存在する他者との関係から学ぶことを通して「実存すること」(背中)と実存者(魂)の関係を把握し、自己という一個の関係性を構築するのである。このプロセスなしに自己は成立しない。自己を成立させるような他者との関係は人間の実存にとって根源的なものであり、他者なしには人が実存者として成立することはないのである。よって他者への暴力とは生起してはならないような悪行となり、レヴィナスの哲学においてそれは固く禁じられる。実存者である私にとって他者とは絶対的な存在であり、人に倫理を要求して暴力など生じえないようにするのが他者なのである。
 一見、見事な考察だ。ところがこの暴力と他者との関係性に対して疑問を呈した哲学者がいた。ジャック・デリダである。
 「暴力と形而上学」(川久保輝興訳 『エクリチュールと差異』収録)において正しくもデリダレヴィナスの意図をギリシャ由来の西洋哲学という伝統的概念性の破壊だと汲み取るのだが、そうであるならば、レヴィナスは「伝統的概念性を破壊するためにその伝統的概念性のなかに腰をすえる必然性」に陥ってしまっており、「終極的にこの必然性を必須のもの」としてしまっている(二一五頁)。つまり、西洋哲学の破壊を企図したはずのレヴィナスが西洋哲学の言語を使って自身の哲学を運用してしまっており、結局は西洋哲学の強化に与する結果になっていることを批判しているのである。一例を挙げれば、レヴィナスは『全体性と無限』の副題として「外在性に関する試論」という言葉を使っているが、ここで使われている「外在性」とは「光照らされた空間の一元性に根拠を求め、そこから根源的他者性を中性化するものであった」とデリダを論じる(二一五頁)。伝統的「外在性」の概念は空間の比喩を前提にしたものであり、この概念と空間は切っても切り離せないものなのであるが、空間とはつねに「絶対的他者性」(人に倫理を要求して暴力など生じえないような他者)を否定する自同者の場であった。そのためレヴィナスは伝統的概念による「外在性」を拒否し、真の外在性——人に倫理を要求して暴力など生じえないような「他者の外在性」——があることを証明しようとする。しかしそれが「真」であれなんであれ、外在性という言葉をどう操作しても空間と分離することは不可能であり、それは根源的他者性を中性化する光を発してレヴィナスに暗い影を投げかけるのである。別の言語体系を用意するのではなく「外在性」という言葉を使ってしまった時点で、ハイデガーが属し、ナチズムに加担した伝統的西洋哲学は破壊しえないというのがデリダの批判だった。
 つづけてデリダは哲学の言語はつねに空間を必要とし、空間と不可分の関係にあると論じていく。さらにレヴィナスが「言語以前に思考はない」と断言していることを引き(二二一頁)、思考と空間ともまた不可分であることを証していく。レヴィナスは『全体性と無限』の中心に「素顔」という概念を措定しているが、「素顔」とは何よりもまず身体であり、身体とは言い換えれば空間的な外在性に他ならない。それはレヴィナスの求める「絶対的他者性」を否定するものなのである。しかもここで他者が「絶対的」と言うときレヴィナスが意味している内容には他者が無限であることが含まれているのだが、「素顔」が身体であるならそれはいずれ死すべきものであり、有限の存在である。レヴィナスは有限である「素顔」を持った「他者」を無限の存在として定義しようとするが、それは矛盾に満ちた試みと言わざるをえない。このようにそれが哲学の言語である限りどのような論を展開したとしても「素顔」を否定することになるのである。「素顔」を確立しようとするレヴィナスに残された道は何らかの論を立てることそのもの、哲学そのものの否定であるが、「言語以前に思考はない」以上、この道も自らの手で封じてしまっている。レヴィナスのいう「他者」は「他者」という語を使って論じてはならないものとなり、思考不可能な概念へと転落してしまうのである。人に倫理を要求するような他者の否定が暴力であるとするならば、哲学的論は暴力であるが、レヴィナスが試みているように「素顔」を持った「絶対的他者」を確立することで暴力を止めようとする営みもまた哲学である。そのため「論と暴力の切り離しは、つねに到達できない地平としてある」(二二五頁)。
 デリダのここまでの省察が正しいとするなら、どのような事態が生じるのか。人間(哲学者)が口を開き論が開始された時点で暴力もまた開始されるが、「他者」を論じ切ることでしか暴力の消滅もない。そして人間の言葉が暴力の開始であるなら、人間が黙りつづけることで暴力は回避されるが、人間が言葉を使う生き物であり、無限に黙りつづけることができない以上、いつかは暴力を開始せざるをえないのである。よって言語は自らによって開始した暴力に対して戦いを挑み、正当性(暴力の消滅)にむかって戦うほかない。それは「暴力に対抗する暴力である」(二二五頁)。よって言語に付随した空間の光が暴力の境位なら、「最悪の暴力、論に先行し論を抑圧する無言と夜の暴力をさけるために、ある別の光をもってこの光と戦わねばならない」のである(二二六頁)。だからこそレヴィナスに彼が批判したヘーゲルハイデガーとの近似を見たデリダは、自分のこの読解がレヴィナスにとって暴力になることを自覚した上でなお「暴力と形而上学」を著した。デリダはこの小論を通してレヴィナスの死角を突き、ユダヤ人である哲学者に己れの似姿としてナチスに加担したハイデガーを突きつけたのである。デリダのこの身振りは、それ自体がレヴィナスに対する暴力である。そのことをデリダは自覚していた。デリダ自身ユダヤ系の家系に生まれており、同胞である哲学者に対して自分の仕事が少なからぬ衝撃を与えることは予期していたはずである。その上で彼は暴力を振るった。沈黙することではなく対話することを選び、レヴィナスの脛を蹴り上げたのである。それはレヴィナスに対して暴力となる自己を受け入れたことで初めて可能になる歴史のなかに現前した国家的暴力への対抗手段であり、その実践だった。

 逆説的にいえば、暴力は言葉の可能性以前には存在していなかったものなのだ。哲学者(人間)は、自分がつねに光のなかにひきずりこまれており、論を否認する以外、つまり最悪の暴力を振う危険を冒す以外にそこから逃れ出ることは不可能であると知りつつも、光との戦いのなかで語り、記述しなければならないのである。(川久保輝興訳 『エクリチュールと差異』)

 デリダレヴィナスに対して、自分の仕事が「最悪の暴力」に堕す可能性におののきながらも、最小の暴力を振るい、暴力である自己を認識することをもってして「光との戦い」を実践し、「哲学者(人間)」として生まれようとしたのではないだろうか。レヴィナスデリダの関係を取りあげる際に後者から前者への影響が云々されるのは常套句となっているが、両者の関係は実際には一方通行の単純なものではなく、レヴィナスを精読し批判することを介してデリダは彼の思想である脱構築を築いたのだと思われる。「暴力と形而上学」はデリダによる脱構築の最初の実践だったのではないだろうか。また、ここでデリダレヴィナスに対して行った批評を「暴力である自己に暴力を振るう」というふうにまとめるならば、この考えは後の著書である『アーカイブの病』(一三一頁)などでくり返されており、デリダ思想の核を成すものであることがうかがえる。

 


 人は言葉なしには他者とかかわることができない。その人に何かをやってほしいと伝えるのにもやってほしくないと願うのにも言葉が必要となる。言葉は他者とかかわる際に必須のツールなのである。しかし実態を持たない言葉は自分では見ることができないものでもあり、自分自身の言語体系が不可視のために、しばしば相手に自分では思ってもみなかったような受け取られ方をすることがある。本来の意図と相手の受け取った内容のズレを修正するためには対話するしかないのだが、対話に使われる言葉もまた不可視である。その場で使った言葉を相手にどう受け取られたかこちらは予測することができない。私にとっての私の言葉は他者にとって翻訳不可能であり、他者が受け取った私の言葉と私にとっての私の言葉の間には必然的にズレが生じるのだ。哲学に限らないが、これは著者と読者とのあいだに生じる関係にも該当する。レヴィナスを読んだデリダは前述の批判によってユダヤ人である年長の哲学者に暴力を振るった。しかしこの暴力はハイデガーが所属しホロコーストへと連続することになった西洋哲学を残り超えるというレヴィナスの企図を励ますためのものであり、その目的を達するためにはレヴィナスのやり方に不備があることを指摘したものだった。それは善意の指摘であり、応援の批判である。レヴィナスの企図そのものを破壊してしまうかもしれない可能性におののきながら決行されたからこそデリダの言葉はレヴィナスに届き、晩年の主著『存在の彼方へ』に結実した。この著作についてここでは立ち入らないが、その代わり以上を踏まえてデリダの言葉を二〇二〇年八月三日に周庭氏が逮捕されたという一報につなげて考えることにする。
 香港政府が中国からの圧力を受けて成立させた香港国家安全維持法に違反したという理由で周庭氏を逮捕したが、「民主の女神」などと呼ばれ香港の民主化運動に携わってきた日本語に堪能な女性を黙らせたかったという政府の意図は誰の目にも明らかだった。このような香港政府の弾圧に対して民主化運動に携わる彼らが講じうる対策はデモのみだが、デモと暴動は紙一重であり、非暴力を主張した声は気を抜くといつ暴力と化すかわからない。しかし声をあげることすらやめてしまったとき、民主主義という光は永遠に失われてしまうのである。暴動という「最悪の暴力」に通じうる可能性におののき、だからこそ注意深くなりながら、必死で声をあげて光を守ろうとすること、デリダの「記述しなければならない」という命令にはこのような過酷さがある。香港ではこの命令に忠実であった人たちが今、弾圧されている。この暴力に対抗できるのは国際問題という「最悪の暴力」に通じうる可能性におののきながら、論、つまり言葉という最小の暴力に訴えて香港政府とその裏にいる中国に対して抗議することなのだが、日本政府は二〇二〇年八月現在沈黙を守っている。そのため日本にはデリダのいう「哲学者(人間)」がまだいないのである。

 

僕のいない場所

 

 四車線の広い国道の傍らで、その古本屋は取り残されたように建っていた。カゴに盛った百円均一の本を店先に置き、その上に店名のプリントされた旗を掲げており、その旗が風に揺られてパタパタ音を立てるのをときおり通行人が迷惑そうに一瞥するのを除けば、誰も気にもとめないような繁盛していない店である。そもそも国道沿いの舗道は人通りも少なく、周囲の建物と言えばどこかの企業がオフィスに使う商社ビルばかりで、客を呼び込もうとする店は他に一軒もなかった。コンビニすら出店を避けるような通りなのである。今が昼時だということを別にしても、古本屋の外観が淋しげなのは周辺のそんな事情があるからなのだった。

 今日日めずらしい手押しのドアを開けてその古本屋に入ろうとすると、ガラス製のドアは結構な重量を持っていて、いつも片手ではびくともしないから両手が必要になる。二の腕の筋が強ばるのを感じながら中に入ると、古い紙の甘い匂いが鼻をくすぐり、なま暖かい空気に包まれた。背中では自らの重みでドアが勝手に閉まり、外界の音が途絶える。いつものことながら、その一瞬になると動物の腸に潜り込んでしまったような居心地の悪い気分に襲われる。
 店番をしているのは狸の置物のような姿をした老婆だった。小太りで顔中が皺だらけで、うたた寝をしているのか死んでいるのか釈然としない。もしかしたら本人にもどちらなのかはっきりわかっていないのかもしれない。そのくせ釣り銭の計算だとか商品の会計だとかはしっかりしていて、こちらが一円でも間違えようものなら鼻を鳴らして「違うよ」と鋭く注意してくるのである。店と同じくらい古びた老婆は別にボケけているわけではなく、単に店の一部と化しているようだった。床に敷かれた蛇の腹みたいに弾力のあるカーペットの上を歩いてその老婆の元へ行くと、今は来客に気づかず眠りこけていた。
 老婆を無視して——あるいは無視されて——店の奥へと進むと、壁際もさることながら狭い店内には四つの本棚が肩を寄せ合っているせいで、客はその間を縮こまりながら歩かなければならない。目当ての本は入り口から見て一番奥の本棚にあった。洋書である。イギリスの児童文学がまとまったコーナーで、そこだけ横文字の本が並んでいるのがなんとなく新鮮だった。
 一冊を手に取り、パラパラとページをめくってみる。ミヒャエル・エンデ作『モモ』の英訳版。状態を確認して顔を上げると、先ほどまで完全に寝入っていたはずの老婆が鋭い視線をこちらに投げつけていた。立ち読みだけで帰る冷やかしは見逃さないぞ、となみなみならぬ決意のようなものを滲ませて、老婆は無言のまま迫ってくる。苦笑しつつ、本を小脇に挟んでレジに向かった。
 購入した本を袋に入れてもらい、それを肘に提げながら表に出る。店内の淀んだ空気から解放され、どこかガス臭いとはいえ冷たい風を全身に受けた。店頭に置かれた百円均一のカゴの横でストレッチ代わりに背中を反らせると、上を向いた視界の真ん中に店の旗が来た。落下しかけた鳥が必死に羽を振り回しているような乱雑さで旗はパタパタと揺れている。うるさくなって前を向くと、視界の隅、四車線道路を挟んだ反対側の舗道で、こちら側と同じように閑散とした道を人が歩いていた。二人連れである。
 一人は中学生くらいの女の子だった。制服を来ているのだがちょっと毒々しいくらいに髪を茶に染めていて、それが痛々しく幼さを感じさせた。横を歩くのはスーツ姿の大人で、短髪で大らかな顔をした成人男性だった。昼下がりという時間を考えると教師が生徒を補導している図にも見えたが、その教師は明らかにスーツに合っていない真っ赤なネクタイを指し示しながら少女に笑いかけていて、彼の様子に「補導」という言葉から連想するような刺々しさはない。一方で少女はうつむいたまま黙りを決め込んでいて、迷惑そうな様子すら見て取れた。
 昼時の成人男性と女子生徒。スキャンダルの匂いのする二人連れだが、僕は別に興味があるわけでも緊迫感を抱いたわけでもなかった。特におもしろいとも感じない。早く座れる場所に移動して買ったばかりの本を読みたかったのだが、二人を無視して通り過ぎようとした刹那に、スーツ姿の方にどことなく見覚えがあることに気づいた。それで二人に向かってじっと目を凝らしてみると、距離のせいで顔をはっきりと確認することはできなかったものの、頭の奥で過去が像を結びそうな気配があった。うずき出した記憶がなにかの形を取ろうとした瞬間、左から騒音と排気ガスを撒き散らした大型トラックが迫ってきて、眼前を塞いでしまった。トラックが通り過ぎて再び四車線道路の向こうにある歩道が見えた時には、二人連れの姿はどこかに消えていた。
 そんなわけでそのときは二人のことを気に留めることもなく、僕は家にまっすぐ帰って念願の読書に耽った。スーツ姿の大人が中学時代の担任教師だと思い当たったのは、買ってきた洋書を部屋のベッドの上でパラパラとめくったときのことである。そして翌日、報道されたニュースをきっかけに、おそらくは当時のクラスメイト全員がその担任教師のことを思い出すことになる。


 眠気の残る目をこすりながらリビングに入ると、テーブルの上に折り畳んだ朝刊があった。母親がポストから取ってきたのをそのまま放り出したのだろう。当の本人は今、台所で弁当を作っていた。僕はぼんやりしたままテーブルに座り、何気なく新聞の一面に目をやった。「中学校教師、生徒を誘拐」と大きく書かれているのが目に入ったが、このときはまだよくあるありふれた事件の一つで、自分とは何の関係もないだろうと踏んでいた。見えていたのは記事のタイトルだけで、内容は折り畳んだ裏側に隠れていた。ふだんは新聞など読まないのだが、見えない内容がなんとなく気になって、僕はふとそれを手に取ってみた。
「先に顔洗ってきなさいよ、あんたひどい顔してるわよ」
 記事を読もうとしたタイミングで、ネギを刻む母親が振り向きもせずにそう言ってきた。「ああ」と「うう」の中間にあるような、我ながら意味のわからない返事をして手元に集中する。
「ちょっと、母さん!」
 思わずそう声を上げると、刻み終わったネギを小皿に移していた母親が迷惑そうに「なに?」と言った。
「今忙しいんだから邪魔しないでよ。だいたいあんたたちの弁当なんだからね」と不平を漏らしながら振り返った母親の鼻先に、記事を突きつける。
「誘拐事件? って、これあんたの出身校じゃない」
「犯人の名前、見て」
「え?」
 記事を読んだ母親も驚いたようだった。
「これ、田崎先生のこと?」
「うん。生徒の一人を連れて消えたんだって」
 田崎守は、中学時代の三年間を通して担任だった教師だ。当時は(おそらく今も)英語の教科を受け持っていた。その田崎守が、先日、学校から自分の受け持つクラスの生徒を一人連れ出して消えたのだという。
 二人が消えたことに学校の人間が気づいたのは昼休みが終わり午後の授業が始まってからのことだった。生徒の方はふだんから授業をさぼりがちだったらしく、不在をことさら不審がる者はいなかった。しかし田崎はまじめだった。いや、たとえ彼がまじめではなかったとしても、授業の時間になって教師が現れなければ同僚が探し始めるのは当然である。
 手紙が見つかったのはそれからすぐのことだった。職員室の田崎のデスクに、生徒の一人を連れて外出すること、おそらくはもう学校に戻らないこと、迷惑をかけることに対する謝罪が書かれていた。教師たちが混乱する最中、偶然手紙の内容を知った生徒が通報し、事件が発覚したのだそうだ。
 卒業した学校がどれだけ混乱しようとそんなことはどうでもよかったが、あの田崎守がなぜ生徒を連れて失踪したりしたのか、そのことばかりが気になった。しかし事件のことばかり考えているわけにもいかない。どこでなにが起きようと、日常は日常として絶え間なく続くのだから。手早く制服に着替え、母親から弁当を受け取り、現在通う高校へ向かって家を出なければならなかった。
 それでも道中は事件のことが頭を離れなかった。アスファルトとぶつかる度にコツコツ音を立てるローファーのつま先を眺めながら、思考は自然、田崎のクラスにいた頃へと飛んでいく。おかげで何度も電柱に当たりそうになった。
 中学時代、クラスでは誰ともしゃべらずに孤立していた。放課後になって生徒全員が教室から出て行った後も、一人残って本を読んでいるのが常だった。窓際の席で、徐々に夜の気配を強めていく夕暮れをしり目に読書をすることが、当時の自分にはなんとはなしに愉快だったのである。
 ときおり、手元のページに人の影がさした。顔を上げるとそこにはいつも田崎がいた。
「ちょっと来ないか?」
 と言葉の上では誘いの形をとっているが、すぐに腕を取られて教室の外へ連れ出されてしまう。戸惑っている間に学校の駐車場まで来て、鍵を渡される。
「あの……」
「車の中で待っていてくれ。ちょっと忘れ物をしたから」
 そう言って、彼は本当に校舎に戻ってしまった。仕方なく鍵を開けて車の後部座席に入り、これで自分が車にいたずらでもする気になったら田崎はどうするつもりなのだろう、と首を捻ったものだった。
 しばらくして田崎は財布を片手に戻ってきた。
「どうして後ろにいるんだ、前に来いよ」
 と、車内を見て言う。仕方なく助手席に移った。
「あの、どこに行くんですか?」
「衣装の買い出しだよ。ほら、もう出すからシートベルトを閉めろ」
「どうして先生が衣装の買い出しに?」
「あいつら、顧問の俺をパシりに使うんだ。まったくひどい部だろ」
 そう言ってから田崎は車を発進させた。
 田崎は演劇部の顧問だった。十人程度の小さな部だったが、ほとんどが女子のせいもあって化部員たちの結束は堅く、傍目には華やいだ場所に見えた。当然のように僕には縁のない場所だ。顧問である田崎が衣装を買いに行くのは勝手だが、それに同行させられる理由はなかった。
「どうして僕を連れて行くんですか?」
「暇そうだったから」
「……僕、本を読んでいたんですけど」
「なにを読んでたんだ」
「時代小説です。『蝉しぐれ』」
「小説が好きなのか? それとも歴史に興味がある?」
「いえ、どっちでも」
「じゃあどうして本なんて読んでたんだ」
「時間をつぶすのにちょうどいいんです」
「やっぱり暇なんじゃないか」
 そう言って田崎は笑った。
 半ばふてくされながら黙ると、田崎は鼻歌を歌いながら運転に集中し始めた。こちらが口を開こうと開くまいと、彼は彼で陽気にやっていくつもりらしい。そんな様子にますます腹が立ち、先ほど一人にされたとき座席のクッションに穴でも開けてやればよかったと思った。
「時間をつぶすなら、人と話せばいいんじゃないか」
 車窓に肘をかけて景色を眺めていると、唐突に田崎がそう言った。
「え?」
「友達とのたわいないおしゃべり、つぶす間もなく時間は過ぎていく。青春ってそういうものだろ」
「僕に青春なんてありませんから」
「演劇部に顔を出した後におまえを見るとさ、どうしてそう一人でいたがるのか、不思議に思えてくるよ。クラスメイトがそんなに嫌いなのか?」
「……話すのが嫌いなんです。どうしてみんな、人を前にしてあんなにすらすら言葉が出てくるのか、その方が不思議ですよ。どこかに台本でもあるのかと思うくらいです」
「今は台本がなくてもしゃべれているじゃないか」
 それはそうですけど、と言いよどんでいると、赤信号で車が止まった。ハンドルから手を離した田崎がこちらを振り向く。
「俺の知り合いにさ、ふだんはおまえみたいに恐ろしく無口なやつがいるんだ。けどそいつは、外人相手に英語でなら実に饒舌になる。母国語じゃないというだけで、不思議と素直になれるんだそうだ。元が不得手な外国だから、変に自分をとりつくったり誤解されやしないかと気にする必要がなくなる。間違えて当たり前だからだ。別に英語の教師だから勧めるわけじゃないけどな、外国語で話すというのはいい刺激になるぞ」
 気のない相づちをうっていると、信号が切り替わった。発進した車は四車線の広い道に入る。
 しばらく進んだ田崎は、いきなり路肩に車を止めた。目的の店についたのかと外を見ると、百円均一のカゴに旗を立てた古本屋があるばかりである。
「衣装はまた今度だ。ついて来いよ」
 首を傾げながら田崎の後をついていくと、年季の入った古本屋の中にいた僕の両手には、気づけばいっぱいの洋書が持たされているのだった。


 回想に耽りながら歩いてきたせいか、高校に着く頃には遅刻ぎりぎりの時間になっていた。校門を潜った辺りから駆け足になり、教室に滑り込む。
「セーフ」
 中に入ると、ドアの傍にいた明美が野球の審判を真似てそう言った。彼女の声を聞いて、二、三人の友人がやってくる。ぎりぎりだったな、と笑いかけてくる彼らに挨拶を返しながら、自分の席に座った。
 田崎との交流があったからというわけでもないだろうが、高校生になってからは少しずつ人と接するようになった。英語の研究会に入ったことが大きかったのかもしれない。田崎が言うように、不思議と英語でのコミュニケーションは上手く取れたし、日本語に戻っても一度話せた相手には自然に振る舞えた。
 朝のホームルームが終わると研究会で使っているテキストを持って明美がやってきた。「ここ、わかる?」と言って英文を示す。その場で和訳を試みると、彼女が手元を覗き込んできた。長い髪が垂れ下がり、毛先がシャーペンを持つ手の甲をくすぐってくる。
「できたよ」
 テキストを渡すと、明美はなるほどなあ、などとつぶやきながら頻りにうなずいていた。本当にわかっているのか怪しいのだけれど、そんなしぐさが頬笑ましくもあった。昨日、田崎が連れていた生徒とは真逆だと思う。
「そうそう、朝なんだけど、他のクラスの子があなたのことを探してたよ。中学の同級生だって言ってたけど、まだ着いてないって伝えたら後でまた来るって言ってたけど」
 そう言って彼女は教室のドアへ振り向いたが、人が入ってくる気配はなかった。
「来ないならこっちから出向いてみるよ」
 明美にそう断って教室を出た。
 一限目の授業が始まるまで、もう数分しかない。騒がしかった廊下もさすがに人気がなくなり、静かになっていた。
 廊下には東向きの窓が連なり、その数だけ斜めなった光の柱が建っていた。柱の中では陽を反射してきらきら輝く埃がはっきりと目に見える。逆に光の当たらない空間は墨汁を流し込んだように薄暗くなっていて、廊下全体は廃れたギリシャ神殿のような印象を放っていた。その中を少し進んで隣のクラスを覗くと、中学のクラスメイトはすぐに見つかった。彼はなぜか真っ赤なハンカチを手に持って僕のもとに駆け寄ってきた。
「おまえにも知らせておかなくちゃと思ってさ。田崎のことは聞いたか?」
 曖昧にうなずくと、彼は一人で話を進めた。
「事件についての情報交換も兼ねて、同窓会をやろうという話になってるんだ。おまえも来いよ」
「交換するほどの情報なんて持ってないけど」
 と、昨日二人を見かけたことを思い出しながら答える。
「そんなのいいんだよ。ちょっとしたイベントだろ。楽しめばいいんだ」
 それから「じゃ」と港の見送りのようにハンカチを振って、彼は自分の教室に戻っていった。同時に一限目の開始を告げるチャイムが鳴った。

 同窓会の連絡は改めてメールで送られてきた。当日になっても行くかどうか迷い続けたが、結局、なにか新しい情報が得られるかもしれないという希望を捨てきれず、出向くことにした。
 場所は市内の焼肉店だった。炭火焼きを売りにした店で、練炭を象り赤い照明を点けた看板が、夜空に松明のようにくっきりと浮かび上がっていた。臭いがついてもいいように着古した上着で来たことに安堵しつつ中に入ると、伝えられた集合時間に一時間は遅れていたので、同窓会はすでに始まっていたようだった。
 店員に通された座敷部屋は、煙と人の熱気ではちきれそうになっていた。かつてのクラスメイトニ十何人かが一カ所に集まっているのである。騒々しさは部屋に入る前から眉をしかめたくなるほどで、顔を出したとたんワッと歓声が上がった。「これで全員そろった」「ひさしぶり」と、親しくもなかった相手から次々に声をかけられる。
 空いた席を見つけてやっと落ち着くことができるようになると、早速田崎のことが話題になっているようだった。
「それにしてもあの田崎がねえ。いなくなった女の子なんだけど、家の近所に住んでてさ、前々から窓ガラスを割ったりして問題ばかり起こしてたらしいよ。片親だし、家庭環境がよくないんだ」
 細い銀縁フレームの眼鏡をかけた男が、したり顔でしゃべり終わると同時にキャベツで巻いたもも肉を口に放り込む。唇の端にタレがついていて、それが便器にこびりついた大便のように見えた。
「傷ついた中学生と教師のラブ・ロマンスだったりして」
 と隣の女子が歓声を上げながら頬を手で覆う。指先が肉の脂でテカテカと光っていた。
「なにがラブ・ロマスだよ。今頃どっかに隠れてやりまくってるだけだろ。ただの変態じゃなねえか」
「あんた、振られたばっかだからってなに悪態ついてるのよ」
 隣に座っていた男が乱暴にコップを置くと、中に入っていた水が飛んできて上着の裾を濡らされた。
 おしぼりでそれを拭こうとしたとき、初めて机の上が食べ散らかしで散乱していることに気づいた。まだ生のままの肉や野菜が至るところにこぼれている。よく見るとそれらは机の下の畳にも落ちていて、汚れた残飯に蠅が集っている。何人かはその残飯ごと蠅を尻ですりつぶし、そうとも気づかずに平気な顔で笑っていた。
 部屋の空気は虫の粘液のようにどろどろしている。立ちこもる煙にも人の熱気にも、いつの間にか吐き気を感じていた。
「あれ、さっきからなにも食ってないじゃん」
 隣にいた男が僕に対して不審そうに言った。食えよ、と菜箸で掴んだ肉を押しつけようとしてくる。
「いや、僕はいい。それより、ちょっと手洗いに行ってくるよ」
 そう断ってから座敷を出て、ついさっき通った入り口の扉へ向かって歩き出した。上着より先に身体の方が肉の臭いに耐えられなくなっている。吐きそうだった。
「トイレなら奥にあるぞ。そっちは逆だ。おい、どこに行くんだよ」
 後ろから呼ばれるのを無視して、僕はいつの間にか走り出していた。
 ネオンの光る夜の街を、当てどもなく歩く。通りの人々はみな一様にうつむいていた。影法師のようなその姿は、舗道の脇を通る車に強く照らされ、ヘッドライトが遠ざかるのと同時に今にも消えてしまいそうだった。自分の姿も、同じように頼りないのだろう。同窓会になど来るべきではなかったのだ、と今さらながらに思った。
 疲れを感じるまで歩き続けると、高架下のガードレールに腰かけた。高速に続く車道沿いの道を進んできたようで、気づくと人気のある場所からずいぶん離れていた。ネオンの光も人の賑わいも、ここまでは届かない。高架下の電灯は黄銅色でどこか不吉な感じのするし、舗道を少しでも外れれば深い雑木林が待っている。人がえり好んで落ち着こうとするような場所ではなかったから、仮に同窓生が追いかけてくるようなことがあってもここまでは来ないだろうと安心した。
 上着のポケットに手を入れて、ほっとため息をつく。そうすると電灯の灯りがもろに顔に当たり、少しまぶしくなった。とっさに閉じたまぶたの裏で色が滲んで、懐かしい夕陽のようになる。それはかつて放課後の教室で見た、あの夕暮れに似ていた。
 田崎に古本屋へ連れて行かれた数日後、僕は相変わらず一人で本を読んでいた。以前と変わったことと言えば、手にしている本が日本語から英語になったことと、心の隅でいつ田崎が来るだろうかと待つようになっていたことだった。
「早速読んでるな」
 この前のように、ページの上に影がさし、顔を上げると案の定田崎が立っていた。彼は橙の光に溶け込むような微笑を浮かべている。
「なんて書いてあるのか、さっぱりなんですけどね」
「それでもなんとか読めてるんだろ。最初はそんなものさ」
 栞を挟み、本を閉じてからまっすぐに田崎と向き合う。
「あの、この前ですけど、どうして僕を連れて行ったんですか?」
「単なる気まぐれだよ」
 気楽にそう言いながら、田崎は黒板に向かい落書きを始めた。人の顔のようなものを雑に描いていく。その背中へ言葉を投げかけた。
「嘘です。僕が友達も作らず一人でいるから、助けようとしたんでしょう?」
「別に一人でいるのが好きならそれでいいし、無理に友達を作る必要もない」
「じゃあ、どうして?」
「ただ、おまえが今みたいに教室に残って一人で読書をしている姿が、なんとなく助けを求めているみたいに見えたんだよ。そうしたら、声をかけないわけにもいかないだろ」
 田崎が肩を竦めながら教壇を降りると、黒板には「Help」と叫ぶ幼稚な男の子の絵が描かれていた。
「それは、教師としてですか」
「いや」
 彼は黒板の男の子に向かって、続けた。
「俺は俺として、困っている生徒がいたら助けるんだ。お、今のセリフちょっと格好良くなかったか」


 僕のいないどこかで、彼は今も困っている生徒を助けているのだろう。そう思う僕の目の前を、一台の車が通り過ぎていった。

 

 

性的ゾンビ 遠野遥『破局』について


 自分の側に社会秩序や規範があり、正しく悪を裁こうとしているまさにそのとき、人は最も暴力的に振る舞うものである。それが顕著になるのはたとえば居合わせた群衆によって痴漢が取り押さえられるような場面で、加害者が逃げる素振りを見せようものなら群衆は手段を選ばない。群像2020年6月号に掲載された著者のエッセイ『記憶』ではその場面が次のように描かれている。

この男は、おそらく30代の後半で、体が大きく、白いシャツを着ていた。折り目のついたグレーのスラックスを穿き、会社員のようだった。彼は、両脇の男たちを振り払って走り出したが、すぐに別の男たちが押し潰すように彼を捕まえた。彼は倒され、地面に顔を押し付けられていた。顔からは血が流れていた。着ていた白いシャツが大きく破れ、よく日に焼けた腕や肩があらわになっていた。

 作者は取り押さえられる痴漢の加害者を集団リンチの被害者のように描いている。この光景のなかでは加害者と被害者が奇妙に交錯しているのである。加害者が被害者であり、被害者が加害者であるような交錯した空間が浮き彫りにするのは、社会秩序という見えない暴力が顕在化した瞬間である。社会秩序を盾に痴漢を襲う「男たち」のなかに陽介がおり、私たちがいるのだが、加害者と被害者がいつの間にか交錯するのがこの空間である。安全な場所にいるはずの私たちが正しいことをしてきたはずなのにいつの間にか罰せられる瞬間が生じる、そういう空間に進んで身を投じ、顔から血を流して腕や肩をあらわにさせられる覚悟を持ったとき、『破局』には見えてくるものがある。意を決してその光景に目を凝らしてみよう。


   ※


 公務員試験を目指して生活している大学生の陽介が破局に向かう表の物語の裏で、今作には多数の性犯罪が蠢いている。一例を挙げると比較的冒頭の場面で何気なく陽介がテレビをつけると、強制わいせつの疑いで巡査部長の男が逮捕されたというニュースが流れ出す。男は「走行中の東海道線の車内で、女性の下着の中に手を入れるなどしたという」のだが、このニュースを受けて陽介は「犯罪者が捕まるのはいいことだ。報いは受けさせないといけない」と考える。作中にはこのような「〜でなければいけない」というような規範意識を思わせる言い回しが多出する。『記憶』において外在化されていた社会秩序が今作では陽介という人格に影のようにしてこびりついているのである。この規範意識は「元交際相手の暮らすアパートに侵入して下着を盗んだとして、巡査部長の男が逮捕された」というニュースにふれ、唐突に他人のために祈りたくなる衝動を陽介に与える。公務員を目指している彼にとって、おなじ公務員である警官は尊敬の対象である。仮定ではあるが、規範を守る職業である警察に彼が特別な思いを持っているのは想像に難くない。ところがスバメだと思っていた鳥がスズメであることがあるように、彼が祈りの対象とした巡査部長の男は犯罪者でもあった。規範の番人である巡査部長の男が同時に犯罪者でもあるという矛盾は、おそらく陽介のなかにも暗い影のようにして渦巻いている。みずからの内で妖しく蠢くものに気づかないまま、彼は「仰向けになり、胸の上で両手の指をしっかりと組み合わせ」る。後述するが、彼が何気なくとったこの祈りの姿勢には注意しておく必要がある。彼は「交通事故で死ぬ人間がいなくなればいい」「働きすぎで精神や体を壊す人間がいなくなればいい」「誰も認知症で子供の顔や名前を忘れたりしなくなればいい」など無数の祈りを捧げるのだが、祈った後で自分が神など信じておらず、そんな人間の願いなど誰も聞いてくれないだろうということに気づく。陽介のこの身振りは唐突ではあるがあくまで規範意識に基づいた善良なものに見える。しかし表に織り込まれた裏があることを忘れてはならない。暴行の現行犯で逮捕されるという陽介の運命を考慮に入れて考えると、彼が祈った巡査部長の男は彼の分身にほかならないのである。
 作中で次に「祈り」という言葉が現れるのは、政治家を志し恋人の陽介との約束を反故にしてでも議員の知り合いをつくろうとする麻衣子が、陽介と別れ、「元交際相手」となった状態で彼と会う場面である。この「祈り」はどこか不吉だ。そうして実際、「祈り」の身振りは陽介の「元交際相手」である麻衣子の回想において、小学生だった彼女が一人で留守番をしている家に侵入し、彼女のベッドに仰向けに寝て「胸の上で両手の指をしっかりと組み合わせていた」男の姿として反復されるのである。この男は「冬なのに半袖半ズボンで、ハイソックスを履いて、まるでこれから何かの試合に出るような格好だった」という。青春をラグビーに捧げいまは出身校のコーチになっている陽介の暗い影が「胸の上で両手の指をしっかりと組み合わせていた男」なのである。作中で明言はされていないが、この男が巡査部長だったとしても私は驚かない。祈りのポーズを取るこの男が何に対して祈っているのかは謎だが、もしかしたら性犯罪の被害者や男が襲おうとしている麻衣子、麻衣子の次に陽介の恋人になる灯に対してなのかもしれない。加害者が被害者のために祈るというような矛盾がこの作品では平気な顔をして徘徊しているのである。この後、麻衣子は男に執拗に追われ、恐怖を抱きながらひたすら逃げることになる。かろうじて麻衣子は助かるが、捕まっていれば性犯罪の被害者になっていたであろうことは容易に想像できる。
 陽介の暗い影である分身が性犯罪者である巡査部長の男であるというのは何を意味をしているのだろうか。それを考えるためのヒントになるのは、陽介がまだ幼い頃にいなくなったという父親の教えである。父親は幼い彼に「女性には優しくしろ」と口癖のように言い、彼はそのことだけを強く記憶している。彼の規範意識の根源はこういうところに見出されるのだろう。また、「女性には優しくしろ」という教えは一見したところ真っ当なもののように見える。しかし陽介は父親のこの言葉を相手が望まないセックスをしてはならないというふうに置き換えて受け取る。この受け取り方は、穿った見方をすれば性行為の対象にならないような相手、たとえば前作『改良』のつくねのような容姿に魅力のない女性は対象に入らず、突き詰めて言えば女性としてすら扱わない可能性がある。作中の登場人物で考えれば、佐々木という高校時代ラグビー部の顧問だった中年男性の妻が登場するが、彼女は陽介にとって性の対象ではないため、作中に名前が書かれることもなければ主要な役目を負うこともなく、ただ夫とその教え子のために肉を焼くためだけの存在として描かれている。また、別れた直後に麻衣子と再会して会話を交わす場面で、話をする麻衣子を見て彼は「穴、と私は思った」と述懐する。「口や鼻というのはつまり人間の顔に空いた穴だと気づいたのだ。今は眼球がおさまっているけれど、眼窩というくらいだから目も結局のところ穴だ」。交際をやめて性交の可能性がないと判断した相手は、彼にとって人格を持った人間ではなく穴の空いた生き物にすぎないのである。極端なことをいえば陽介の世界では痴漢の被害者になり得るような女性しか生きる資格が与えられていないのだ。
 陽介がラグビーのコーチをしている際に選手たちに向かってゾンビになれと発破をかける場面がある。この場面で陽介について来られない選手たちはあくまで怠惰な高校生でしかなく、ゾンビとして生きているのはむしろ陽介の方である。ゾンビとは人間としての死を迎えた後、食欲というただ一つの欲望のみを極端なかたちで肥大化され、食うために人を襲う存在であるが、陽介がゾンビであるとするなら、彼の肥大化された欲望とは性欲にほかならない。作中、陽介はチワワやカラスといった動物から道ですれ違った小さい女の子に至るまで、様々な他人に顔をじっと見られる。これは見知らぬ他人の視線が異常なのではなく、陽介が他人の視線に対して過度に敏感なことを意味している。彼は自分が他人にどう見られているのか、他人にとって自分に性的魅力があるかに敏感なのである。性的ゾンビである陽介には人間を計る基準がそれしかないからである。女性を性の対象か否かとしてしか見ていないのと同様、他者もまた自分を性の対象か否かとしてしか見ていないと思い込んでいる。だから彼は必要もないのに体を鍛え上げ、トレーニングを欠かさない。
 作中に登場する主な女性、灯と麻衣子は陽介のこういう側面に気がついていた。麻衣子は自分を人としてではなく性的対象としてしか見ておらず、性行為から遠ざかったことを理由に別れた彼に性によって復讐を企てる。この復讐が最終的に陽介を破局に向かわせるのだが、一方で灯の方でもある時点から陽介のことを自分の性欲を満たすための道具としてしか捉えておらず、自分が所有している鍛え上げられた体を麻衣子という他人に良いようにされたことが許せないから結末であのような行動に出る。
 灯と陽介はまだ順調に交際している折、休みを取って北海道へ旅行に行く。ところが到着早々に雨が降ってしまったため、ホテルの部屋で一日を過ごすことになる。このとき灯が提案するのが映画を見ることなのだが、その映画というのがほかならぬゾンビ映画なのである。

私は、ゾンビの映画であるにもかかわらず、ゾンビが出ないうちに灯を押し倒した。これは相手の同意がない場合、罪にあたる行為だが、灯は私の下で幸福そうに笑っていた。それを見た私も幸福だったか? 同じ行為であるのに、同意の有無によって結果が大きく異なるのは、不思議な気もした。

 映画のなかでゾンビの登場を待たなくとも、それは画面のこちら側にすでにいる。幸福な性行為は相手の同意がない場合にゾンビの襲撃へと変貌してしまうが、性的ゾンビである陽介が人間のように振る舞えているのは他者の同意があるからという一点にかかっている。逆に言えば他者からの同意を失ったとき、彼はもはや人としては振る舞えなくなってしまい、逮捕される巡査部長とおなじ暗い影の存在へと引きずり込まれていく。そのため彼は恋人を大切に扱い一見したところでは紳士的だが、結局のところ相手を性的対象としてしか捉えていない事実に変わりはない。その実証として、たとえば麻衣子が必死になって政治家になろうとしている理由を答えられない。そもそも自分のことに関してすらも、膝からなぜ公務員を目指しているのかと聞かれて答えることができず、問いを無視している。なにかを目指す動機という人格に関わる視点が欠けているのだ。それもそのはずで、陽介の世界には人格が存在せず、あるのはただ性的対象になり得るか否かという基準のみである。麻衣子の復讐や灯の行動がなかったとしても、そういう彼の在り方がすでに破局を用意していたのである。


   ※


 お笑いサークルに所属しているものの変わり者として周りからのけものにされている陽介の友人に、膝という登場人物がいる。彼はある場面でラグビー選手だった陽介に向かって風俗について次のように語る。体を張って人の役に立っているという点では風俗も警察やラグビー選手と一緒だから自分は彼女たちを格好いいと思う、と。膝の言葉を露悪的ではあるが一理あると一瞬でも考えてしまったとき、人がラグビー選手になることと風俗に勤めることとの間にある決して埋められない溝は見落とされてしまう。
 前作『改良』では男性でありながら女装をして美しさを求める人物が主人公だったが、彼は女性になりたいのではなくただ美しくなりたいだけだった。そのことを理解しないで自分に都合のいい解釈をするバヤシコは「隠さなくても大丈夫だよ。オレ、変な目で見たりしないし。たぶんメチャメチャ理解とかあると思うし」という薄暮な言葉を告げた後に主人公をレイプする。膝の「格好いい」にはバヤシコの「理解」に相当する薄暮さがある。なぜなら膝には風俗に従事する女性たちが日常的な場でもたとえば痴漢といったかたちで性的な暴力の可能性に晒されている点を完全に失念しているからである。ラグビー選手や警官が晒される暴力は自分で望んだ有事の場においてはじめて生じるものであり、彼らの日常生活を脅かすことはない。対して風俗に勤める女性は電車でたまたま隣り合わせた男になにかされるかもしれないという恐怖に日常的に晒されている。しかも男性である私にはそれがどのような日常なのか理解することができない。痴漢という現実を頭で知ってはいても胸で腑に落ちるということがないのである。男性と女性との間にあるこの非対称性は決定的だ。この非対称性を念頭に置かないでラグビー選手や警官と風俗を並列する視点は明晰なようでいてその実なにも見えていない。
 過酷であることを承知で私はこう断言したい。男女の間にある非対称性に対して無自覚なまま膝のような視点を持った者は、たとえその一瞬であれ、性的ゾンビなのである。公共の空間でたとえば痴漢として、見えるかたちで現れた性的ゾンビに対して私たちは手段を選ぶことなく取り押さえようとする。この一見過剰ともいえる反応は、自分たちもまた一瞬であれ痴漢の側とおなじ性的ゾンビだったことがあるからこそ誘発されるものなのである。『記憶』のなかで犯人を取り押さえるのが男性だけだという点は見逃してはならない事実だ。彼らは自分たちでは正しいことをしていると思っている。しかし陽介もまた破局を迎える最後の瞬間まで自分は正しいことをしていると疑わなかった。作者は陽介のような性的ゾンビを描くことで男性的暴力を批評的に突いている。私自身も男性として作者の槍に刺し貫かれながら、正しいことをしてきたはずなのにいつの間にか罰せられる空間に進んで身を投じていく覚悟を持ちたいと願う。
 この覚悟を意識して作品の結末を繙くと、二人の警官(おそらく一人は巡査部長)に陽介が暴行の現行犯として逮捕されるという展開にはいささか唐突な印象が拭えない。性的ゾンビとして生きてきた彼が性の消費の対象としか見做していなかった女性に復讐されるという展開には必然性があるが、それはこのような唐突なものではなく、たとえば灯を性的に満足させられなくなった彼が自分の存在意義を失った状態で内省を突き詰めて迎えるような破局、非対称的にしか関係を結べていなかった「女性」という他者の人格に出会うことでもたらされるような破局であるべきではなかっただろか。あるいは陽介が唐突な暴力(たとえば謂われのない因縁からリンチされるなど)に晒された末に灯や麻衣子が日常的に経験している暴力に気づき、性的ゾンビであるみずからを自覚せざるを得なくなるような状態に陥り、性的ゾンビから蘇生することによって派生することで生じるような破局ではなかっただろうか。今作が巧みな構成に裏打ちされた秀作であることは疑いをえないが、私にどこか物足りない感じを受けさせるのは、決定的な他者との出会いに未だ到達できていないからである。作者には実力がある。構成が巧みな秀作に留まらず、世界に通用するような文学を著していただけるよう心から応援している。

 

他者をめぐって 柄谷行人『意識と自然――漱石試論』について

 

 柄谷は『それから』において代助が友人のために譲った女性を奪いかえすときに口にした「世間の掟」と「自然」という言葉に着目し、次のように述べる。

 

  ここに漱石が『虞美人草』以来長編小説の骨格にすえた「哲学」が端的に示されている。人間の「自然」は社会の掟(規範)と背立すること、人間はこの「自然」を抑圧し無視して生きているがそれによって自らを荒廃させてしまうほかないこと、代助が言っているのはこういうことだ。


 ここで漱石・柄谷は「自然」という言葉をきわめて多義的に用いており、この「自然」には存在や実存や精神や本能や自由といったさまざまな言葉が代入可能である。仮にここに倫理という言葉を代入して読むなら、社会の掟と倫理とは背立するものであり、人間は倫理を抑圧し無視して生きているゆえにみずからを荒廃させてしまうほかない、と読みかえることができる。これは具体的にはどういうことだろうか。『それから』の代助が述べる「自然」は一種の規範性のあるもののように見えるが、柄谷によると、漱石はこの弁説の背後に邪悪な<自然>をものぞき見ているのだという。用語が重複しているためややこしくなるが、ここでいわれている「自然」と<自然>は別のものだ。前者の「自然」が倫理的なものであるのに対し、後者の<自然>はむしろ社会の掟(規範)に属し倫理的にみれば邪悪なものだといえる。漱石は明治三十八年から三十九年にかけて書かれた断片のなかで「二個の者が same space ヲ occupy スル訳には行かぬ。甲が乙を追い払うか、乙が甲をはき除けるか二法あるのみぢや。甲でも乙でも構わぬ強い方が勝つのぢや」と書きつけている。この断片を拾って柄谷はこう考える。

 

彼(漱石)は人間と人間の関係を、どんな抽象(観念)的な媒介によってもみていないので、肉体的な空間(space)においてむき出しにされた裸形の関係としてみているのである。 『夢十夜』の第三夜に、盲目の子供を背負って歩いていると、百年前に お前はおれを殺したなといわれ、そういうことがあったなと思い出した途端、背中の子供が重くなるという話がある。もしこれが「原罪」的なものを暗示しているのだとすれば、漱石が「原罪」を、背中の子供をかつて殺し今度はその子供が石地蔵のように重くなって彼を圧迫するというような、きわめて肉感的なイメージによってとらえているのである。

 

漱石は人間と人間の関係を意識と意識の関係としてみるよりも、まず互いが同じ空間を占めようとして占めることができないというふうな、なまなましい肉感として、いいかえれば存在論的な側面において感受していたのだ。(中略)漱石の生をたえず危機に追いこんでいたのは、彼自身の存在の縮小感である。おそらくこれは自意識の問題ではなく、また彼の意識はこういう存在の縮小感のもとでどうすることもできなかったのである。 


 ここで言われている「裸形の関係」とはわかりやすくいえば相撲のようなもので、二人の力士がぶつかりあって弱い方が追い払われるといった力関係のことを指している。漱石胃潰瘍の末に命を落とすまでの四十九年間を生き抜いた以上、彼には他者を追い払いはき除いてきたという実感があったはずだ。だからこの文脈で「原罪」という言葉が現れるのである。また、柄谷がいう「存在論」とは<自然>において人は自分が追い出されるか他者を追い出すか二つに一つでしかないという在り方のことであり、こういう在り方をしている以上、負けるかもしれないという「存在の縮小感」からは逃げられない。おおよそ漱石の存在感覚とはこのようなものだったのである。

 漱石はよく二十世紀の知識人を描いたと言われる。なるほどそうなのかもしれない。しかしそれは表面的な次元の話でしかない。漱石はただ「自然」と<自然>の間に広がるグロテスクなクレヴァスを覗き、人は「自然」を抑えて<自然>に従って生きるほかないが、それゆえにみずからを荒廃させてしまうほかないという、存在が抱える根本的な矛盾を表現しようとして苦しんだのである。その結果、彼の作品――特に長編小説においては主題が二重に分裂し、はなはだしい場合にはそれらが別個に無関係に展開するという事態を招いたのである。柄谷はこの事態を分析して「たとえば『門』の宗助の参禅は彼の罪感情とは無縁であり、『行人』は「Hからの手紙」の部分と明らかに断絶している。また『こころ』の先生の自殺も罪の意識と結びつけるには不十分な唐突ななにかがある」と書きつけている。この「罪の意識と結びつけるには不十分な唐突ななにか」は容易には表現することができない。漱石もついにこれを表現することができなかった。それは客観化することも相対化することもできずに存在を毒するグロテスクなものなのである。漱石を読むとは、彼が犯された毒にみずからを浸して一緒に苦しむ経験なのだ。つまり、意識では倫理的義(『野分』)を求め道徳的に振る舞いたいと願うにもかかわらず「存在の縮小感」に脅迫されながら他者を追い払うようにしてしか在ることができないという、自分ではどうにもできない意識と存在との乖離を覗きこむ経験なのである。この乖離を解消するためには命がけの飛躍が必要だが、それがどのように実現されうるのか漱石・柄谷は答えていない。この論考が答えに辿りつけるか、それはわからない。漱石や柄谷が描いたのとは別の軌道を描いた末に的を外して虚空に消えていくほかないのかもしれない。最終的に漱石や柄谷を襲った乖離に犯されて苦悶の末に筆を置くことになるのかもしれない。それは恐ろしい可能性にちがいないが、しかし、書のなかに自分自身の分裂を見出して読むことに畏怖する、そういう姿勢でなされたものが初めて批評になるのではないだろうか。

 


   ※

 


 初期の柄谷は漱石を論じる文脈で次のような図式をくり返し描いて考察している。それは対象化できる私(外から見た私)と対象化できぬ「私」(内から見た「私」)の乖離という図式である。対象化できる私とは端的には容姿や経歴や能力といった他人の目に映り外から評価することのできる私のことを指す。反対に対象化できぬ「私」とは他人の目には映ることのない内面の「私」を指す。たとえば漱石の重要な仕事として柄谷が取り上げた『坑夫』の「自分」は「ものを知覚しているが、どうもそれが現実のように感じられず、自分も明らかに自分なのだが、自分自身のように感じられない」のだという。柄谷によれば「私が『いまここに』あることと、次に私が『いまここに』あるということの間にいかなる同一性も連続性も感じられぬ心的な状態を語っている」のが『坑夫』なのだという。ここで漱石が問題にしているのは、外面的には昨日とおなじ一人の人間に見える「私」が、その内面では昨日と今日とで自分がおなじ自分だとは思えないと感じているというものである。別人がおなじ皮だけ纏っているような奇妙な感覚が漱石にはあったのだ。このような現実感を稀薄にしか感受できない感性は漱石に固有の問題ではなく、『内面への道と外界への道』のなかで柄谷自身の感覚でもあると吐露されている(「率直にいえば、私自身にも現実感はほとんど稀薄である」)。他者が私を評価するように、「私」はある対象に対して知覚を通して評価を下す。というより、対象的知覚を統覚するもののことをここで「私」と呼んでいるのだが、柄谷・漱石が置かれた状態は「私」の同一性、連続性が絶たれており、その結果、外界に対して批評したり反省したりすることはできるのに、それらの現実を現実のように感じられず、自分自身のことすら自分のようには感じられず、テレビのなかの登場人物を眺めるようにしか見ることができなくなっているというものなのである。この状態は対象的知覚そのものを変容させ、妄想を生じさせる。「漱石の迫害妄想は、対象化しえぬ「私」の次元における縮小感が外界の他者を迫害者のように変容させた」ために引き起こされていると柄谷はいう。どんなに他者を求めても、他者の代わりに迫害者という実態のない妄想しか現れないという「存在論的」問題の渦中で苦しんだのが漱石なのである。柄谷はこの事態を「他者に対して根源的な関係性が絶たれている」と表現する。

 「私」の非連続感のために他者は迫害者のようにしか感じられず、根源的な関係性は絶たれている。彼(漱石)は命がけの飛躍を試みることで「私」の連続感を取り戻し他者と出会うことを渇望しているが、彼が求めれば求めるほど他者は遠ざかってしまう。他者に出会えるかどうかは本人の努力ではどうしようもない次元の話で、それは外からやってくる「促し」(「心理を超えたものの影」)が彼に到来するか否かにかかっている。

 幸運にも『坑夫』の「自分」は地底において「安さん」という他者と出会うことに成功するのだが、彼は「二十三の時に、ある女と親しくなって――詳しい話はしないが、それが基で容易ならん罪を犯した。罪を犯して気が附いて見ると、もう社会に容れられない身体になってゐた」という男であり、つまり「安さん」とは『それから』の代助や『門』の宗助、『こゝろ』の先生とおなじような人物なのである。漱石的登場人物として考えれば「自分」と「安さん」は分身の関係にある。異質な他者ではなく自分の半身なのだ。そのような者との出会いは果たして本当に他者との出会いと言えるだろうか。柄谷はキルケゴールを引用して「自分自身によって、それもひとえに自分自身だけによって、絶望を取りのぞこうとするならば、彼はやはり絶望のうちにある」と書いている。「自分」が出会ったのは「安さん」という他者というよりは自分の半身であり、『坑夫』においてはまだ異質な他者は現れていないと言わざるをえない。異質な他者とはたとえば『こゝろ』における先生にとっての奥さんのような存在のことを言うのではないだろうか。

 


   ※

 


 柄谷によれば『こゝろ』の隠された主題とは自殺なのだという。作中において先生の自殺は友人を裏切ったという罪感情や明治が終わったという終末感と結びつけて描かれているが、それらは作品を覆う暗さや先生の自殺決行に匹敵しないと柄谷は言う。では先生はなぜ自殺したのだろうか。

 

先生はKの自殺が恋愛問題によるかどうかをのちになって疑っている。同じように、先生の自殺も、友人Kを死なしめた罪悪感からではないといえるのである。したがって『こゝろ』は人間のエゴイズムとエゴイズムの確執などというテーマとは実は無縁である。漱石が凝視していたのは、依然として「正体の知れないもの」なのであって、さもなければ先生が奥さんに対して冷淡であったこと、奥さんをおいて自殺したことは、またしてもエゴイズムであると非難されねばならないはずだ。


 「正体の知れないもの」とは「私」の非連続感のために他者は迫害者のようにしか感じられず、根源的な関係性を絶たれ淋しさに襲われているという状態を指す。先生もKもこの淋しさのために命を落としたというのが柄谷の読みである。「正体の知れないもの」の解決として先生が選んだ手段は自殺だった。もし先生が自殺のほかに「正体の知れないもの」を解決できたとしたら、それは奥さんとの関係をおいてほかにない。迫害者のように感じられる異質な他者を凝視することではじめて見えてくる己れの姿がある。解決はそこにしかないのだ。先生は「正体の知れないもの」の苦しさを奥さんに告白することができた。もちろん、その告白とは「身を裂くような、そして、それを書きつけたなら紙が燃え上がるような行為」だったにはちがいない。先生は誠実にも「理解させる手段があるのに、理解させる勇気が出せないのだと思うと、悲しかったのです」と表明している。先生が告白しようとしたことに嘘はないだろう。実際にその直前まで行ったことを私は疑わない。しかし、告白とは本人の意思でなしうるようなものではなく、外からやってくる「促し」に支えられて初めて実現するものなのだ。先生の場合、外からやってくる「促し」がありうるとすればそれは奥さんとの関係をおいてほかになかったはずだが、先生にはついに最期までその機会が訪れることはなかった。先生は奥さんという異質な他者と出会い損ねてしまったのである。人間は自殺する勇気は持ちえても告白する勇気は持ちえないのだ。みずからを変容させ身体が燃え上がるような異和に襲われることを予感し、畏怖したのである。先生はその畏怖の前に手をついて自殺した。先生にとって告白は自殺よりもなお怖ろしいものだったのである。

 『こゝろ』においてついに断念されざるをえなかった他者の問題は、後につづく『道草』でより発展したかたちで追いかけられている。それが如実に現れているのが『道草』の次のくだりで、健三が散歩をしていると「帽子を被らない男」に出会い、それによってある不安な感情を抱くという場面である。この男は健三の養父で、後に彼に金をせびりにくる島田であるのだが、柄谷は健三が出会ったのが島田ではなくあくまで「帽子を被らない男」だった点に注意を促す。養父の問題は金で片づく事務的な問題に過ぎないが、「帽子を被らない男」がもたらす不安はそのような方法では片づかない性質のものだった。この不安のなかに柄谷は「裸形の人間としての不安」を見出す。この不安とは具体的には「おまえは何者か、どこから来てどこへ行くのか」という実存を問う不安な問いである。このような問いを発する「帽子を被らない男」とは漱石にとって異質な他者だった。この異質な他者とは、島田が「帽子を被った男」ではないのと同様に島田のことではない。漱石は『道草』においては固有名を持った他者を描くことができなかったのである。それでも『こゝろ』において先生が怖れついには直視できなかった他者の片鱗がここには現れている。片鱗とはいえ他者の影を捉えたことにより、『道草』ではそれまでの漱石の長編小説に生じていた作品が二重に分裂してしまう事態を回避することに成功している。これは小さなようで大きな一歩である。

 この一歩は何によって可能になったのか。それは「自然」の非情な眼だ。

 

彼は彼自身を、「何の為に生きてゐるのか」わからぬような他者たちと対等な存在として考えるほかないのだ。そして、「自然」のこういう非情な平等性を見出したとき、彼ははじめて周囲の他者を平等な存在としてみとめたのである。それは「人間の平等」というような空想的な観念から来たものではない。『道草』を可能にしたのは、いいかえれば知識人漱石の徹底的な相対化を可能にしたのは、こういう「自然」の非情な眼を所有しえたことによってである。


 「自然」の非情な眼を所有するに至ってはじめて漱石の視野に「何の為に生きてゐるのか」わからぬような他者が現れた。これによって異質な他者と出会う可能性がひらかれたのである。しかし、『道草』では他者との出会いは対象の存在しない独特な恐怖心へと変換されてしまう。これによって『道草』では他者との決定的な出会いは訪れずに終わってしまうのだが、未完の遺作『明暗』においてこの探究は結実する。

 


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 『道草』においては「帽子を被らない男」という固有名を持たない存在だった異質な他者は、『明暗』においてはお延や小林といった具体的な存在として現れ、ダイアレクティカルな会話をくり広げる。これは漱石のそれまでの作品にはなかった特徴である。『道草』以前の漱石作品の登場人物は、代助にせよ宗人にせよ先生にせよ、みな大なり小なり漱石の分身であるような知識人と、それ以外の大衆的人物とに二分されていたが、健三は周囲に配置された「頑固な他者」によって相対化されており、『明暗』にいたってすでに大衆と知識人という断層はとりはらわれてしまっている。柄谷によれば「『明暗』は『道草』を通過してのみ可能な世界である」。津田を含め、彼の妻(お延)や妹(お秀)、吉川夫人、小林といった人物はとくにインテリというわけでもないのに、きわめて論理的に語る。このような人物が明治・大正の時代に実在したとは思えず、『明暗』はその世界が当時の生活意識の状態から見れば明らかに抽象物だが、作り物という感触が払拭されている。それは漱石が世にいわれる「近代人」を描いた作家だからではなく、普遍的な実質を描こうとしたからだ。いいかえればただ人間を描こうとして苦しんだのである。人間とは何か。それは「真実」を語る者たちのことだ。柄谷は言う。

 

 小林のことばがつねに自虐的なアイロニーにみちているのは、「真実」をお秀のような理論家のように語ることができないからである。恥ずかしい進退窮まった地点からしか「真実」を語ることはできはしない、そうでない真実などは贅沢な連中の頭のなかにつまっている知識にすぎないのだ。お延をもっとも理解していたのはおそらく小林であって、彼女もまた自尊心をかなぐりすてて「頭を下げて憐れみを乞うような見苦しい真似」をあえてやるにいたったのである。


 『こゝろ』の先生は自殺はできても告白することはできなかった。しかし「恥ずかしい進退窮まった地点」にいて先生のような余裕とは無縁の小林は情けなく涙を流しながらも訥々と真実を語っている。先生の真面目さより小林の滑稽さの方が何歩も先を行っていたのだ。お延も小林のように「頭を下げて憐れみを乞うような見苦しい真似」におよぶことで真実を語っている。津田や先生のような知識人がどれだけに立派に見えようと、小林やお延のような見苦しい者の見苦しさの方がずっと真実に肉薄し、真実を語りうるのである。

 漱石が異質な他者との出会いを視野に捉えるようになったのは、『道草』において「自然」の非情な眼を所有し、自分自身を相対的に見ることに成功したからである。では、柄谷・漱石は「自然」の非情な眼を持つように呼びかけているのだろうか。『畏怖する人間』を通して読んでもその答えには辿りつけない。また、どのような経験を通して漱石がそのような眼を持つにいたったのかも謎のままである。あるいは答えは暗闇のなかにあるのかもしれないが、その暗闇を照らすサーチ・ライトのようなものは現代の私たちには失われてしまっている。しかし晩年の漱石を参考にして次のようには言いうるかもしれない。自分自身の内面と外面との間に開いた乖離に向けていた眼を「何の為に生きてゐるのか」わからぬような他者に転じて彼らとおなじ顔をした己れを見出したとき、他者と己れとの関係の間に「促し」(「心理を超えたものの影」)が斜めに兆すことがあるかもしれない。他者をめぐるそのような可能性に賭けるとき、人は自殺するよりもなお怖ろしい告白を実践し真実を語りうるのである、と。

 

ユーモラスな死の演習 多和田葉子『犬婿入り』について

 いずれ迎える死を内に抱えた人間はみな等しく死刑囚のようなものである。最期の瞬間をひとたび想像すれば、誰もが叫び出さずにはいられないような底の抜けた恐怖に襲われる。人が平気な顔をして通りを歩くことができるのは待ち構えている運命を見ないようにしているあいだのことであり、なにかの拍子に視線を上げてしまえば、もう精神を保つことはできない。では、避けられない死を前にしながら健康でいるためにはどのように振る舞えばよいのか。一つは、フロイトが大洋感情と呼んだ宗教によって現実に対する態度であり、神という超越者を信じることによって現実の悲壮さを克服する方法である。では、神を信じることがついに叶わなかった者にはどのような方法があり得るのか。この点についてフロイトは、『ユーモア』という論文のなかで、月曜日に絞首台に引かれていく罪人が、「ふん、今週も幸先がいいぞ」と言ったという話を例に引いて論じている。
 この罪人はこの科白を言うことによって、自分が置かれている外的現実から逃れており、悲壮な現実と別の現実をつくり出している。このようなユーモアは、心理的アクセントを自我から引き上げ、それを超自我の方に移転する。超自我にとって、大人から見た子供の悩みがそうであるように、自我の怯えや悩みなど取るに足らないような小さなものに映る。そもそも超自我とは、自我の両親への同一化によって形成されたものであり、自我にとっては強大な力を持った親として君臨する。この超自我は、自己の形成過程で独自の位置を占め、破壊的で残忍で口やかましい、内的な法として働くようになる。しかし、自我と超自我の配分を超自我の方に移すという方法=ユーモア的態度によって、自我にあった視点を超自我の方に移動させることで、子供の目からではなく、怯えた子供を見る大人の目から現実に対峙することが可能になるという。超越者に依拠することなく、超自我を介した自己のテクノロジーによって、新たな現実を作ることにユーモア的態度の本質が宿っている。そしてこのような自己のテクノロジーを用いることができるとき、私たちは人間であることの運命を、威厳を持って乗り越えていくことができるのである。
 以上は自身も精神分析医である十川幸司による優れたフロイト読解、『フロイディアン・ステップ』からの引用だが、ユーモアによって、いずれ死を迎えるという悲壮な現実とは別の現実をつくる方法は、精神分析に限らず可能なのではないだろうか。その一つの例示として、多和田葉子の『犬婿入り』を挙げたい。

 本作の中心人物、北村みつこは登場時から常に「汚れ」のイメージを付着させられた、どこか浮世離れした美人で、父兄のあいだで憶測と空想をはらんで豊かに膨らんだ噂を流布させる。昔はヒッピーだったのではないか、催淫剤を販売していたのではないか、テロリスト指名手配のポスターに写っていたのではないか……。そんな彼女がひらく<キタムラ塾>は子供たちから<キタナラ塾>と呼ばれており、由来として、先生が披露したと子供たちから母親に伝聞された話が羅列される。たとえば、鼻をかんだちり紙でもう一度鼻をかめばやわらかくて暖かくてシットリして気持ちがいい、そうやって二度使った鼻紙をお手洗いでお尻を拭くのに使えばもっと気持ちがいいと先生が言っていて、実際にその習慣を実践しているという話や、先生が紹介した、お姫様の世話をすることになった面倒くさがり屋の女が、お姫様が用を足したあと、自分の仕事を省くために黒い犬にお姫様の尻をきれいに舐めさせたという民話などがそれである。さらに、北村みつこが作中で最初に言及されるのは、彼女が塾の広告のために貼った古いポスターを介してであり、そのポスターは雨に濡れ、鳩の糞にまみれ、変色して中身が見えないようなありさまになっている。汚くて誰も触りたがらないから電柱に残っているというのだが、この時点からすでに北村みつこは「汚れ」と重ねて語られているのである。さらに、「子供は<エッチなこと>と<汚いこと>の区別がつかない」という一文から、「汚れ」のイメージが性的なものと結びついていることが示唆される。太郎と名乗る犬のような男が唐突に現れみつこがレイプされる場面がこの段階でほのめかされているのである。
 太郎が登場する場面は、ユーモアを基調とするこの作品のなかでも特にユーモラスに描かれており、出来事の悲惨さとは無縁に並外れて明るい。つまり、悲壮な現実を克服して別の世界をつくり上げることに成功している。男はみつこを襲った後でもやしを炒めて料理をつくり、床に雑巾をかけて部屋を掃除する。リズミカルに動く尻の筋肉を見てみつこは思わず笑ってしまう。この笑いが強い。この笑いによって微かに緊張を孕んでいた場面は一気にモードを変え、ユーモアによって、現実を変容させていく。太郎によってもたらされたこの変容はみつこの身にも影響を及ぼす。朝は寝て夕に起きて料理をつくり、掃除をして、日が暮れてからは長い散歩に出かける太郎は、帰宅すると一晩中みつこと交わることを求めてきたので、次第に生活リズムが彼に支配され、朝起きれなくなり、顔を整える暇もなくなって、生まれて初めて自分の顔を醜く感じる。しかし、太郎は顔には一向に頓着しない。太郎が執着するのはみつこの臭いで、膝に顔を埋めては一時間でも二時間でも臭いを嗅いで過ごすのである。太郎に感化され、みつこは自分が驚いているときや喜んでいるときに違う体臭を発していることに気づくようになり、臭いに敏感になっていく。というより、臭いで判断しないと自分の感情が正確にはわからないような体質に変貌してしまう。
 みつこに変化をもたらした太郎は、もともと会社員で、フルネームを飯沼太郎といい、塾生の一人の母親である折田さんの夫と同じ会社に勤めており、職場で知り合った良子という女性と結婚していたのだという。それがしばらく前に失踪してしまい、いなくなった夫をいまも妻が探しているのだという。折田さんの提案を断れず、みつこは良子の訪問を受ける約束を取りつけられてしまうのだが、現れた良子は夫には一切の関心を示さず、その日は特に話の進展もないまま引き取る。帰り際に一人で良子の部屋に来るように言われたみつこは、断る機会を逸して言われるまま部屋を訪れ、そこで太郎がいまのようになった経緯を聞かされる。
 小狐を思わせる良子の部屋からはあぶらあげの臭いが絶えず漂い、それが夫を苦しめていた。良子の方でも気弱な太郎に苛立ちを感じており、いずれにせよ遠からず離婚していた二人だった。ある日曜日の午後、夫婦が町にあたらしくできたレストランに足を運んだ帰りに、林道を歩いていたところを太郎だけが野犬の群れに襲われてしまう。潔癖症で気の弱かった太郎が変貌したのはその事件からで、身体中を噛まれた彼は意識を取り戻すと言葉を話さなくなり、苛立ってちなじる良子の元を去る。それからは近くの公園に出没しながら、徐々に身体が逞しくなり、動物めいた生態を手に入れていったのだった。良子は「あの人、もう、わたしの夫の飯沼太郎ではないんです」とみつこに告げる。野犬に襲われた一件を機に、飯沼太郎だった人物は死を遂げ、犬のような男・太郎として再生したのである。このような復活が可能となるのは、作中人物を上から俯瞰する、超自我のような語り手によるところが大きい。語り手のユーモラスな語り口によって、この奇想は実現するのである。

昼さがりの光が縦横に並ぶ洗濯物にまっしろく張りついて、公営住宅の風のない七月の息苦しい湿気の中をたったひとり歩いていた年寄りも、道の真ん中でふいに立ち止まり、斜め後ろを振り返ったその姿勢のまま動かなくなり、それに続いて団地の敷地を走り抜けようとしていた煉瓦色の車も力果てたように郵便ポストの隣に止まり、中から人が降りてくるわけでもなく、死にかけた蟬の声が、給食センターの機械の音が、遠くから低いうなりが聞こえてくる他は静まりかえった午後二時。

 注意深く観察すれば、語り手の奇妙さはこの冒頭の一文から如実に現れている。「昼さがりの光」が洗濯物だけでなく長いセンテンスのなかにあるすべてを等しく照らす様からこの作品ははじまるのだが、この長い一文は公営住宅を含んだ平凡な町の一画を描写しつつも、蛇のようにうねる異様な文によって、平凡な光景を一種の異界に化かしている。作者の手つきをみると、長い形容詞の後に名詞が来る文、一つの主語に対して二つの動詞が来る文、三つの名詞が一つの動詞にかかる文、これらの連なりによって冒頭の長い一文を構成しており、常識的な構文を崩していくことによって、平凡なものの異様さを浮き彫りにするレンブラントの照明のような「昼さがりの光」が作品世界に射すことを企てている。この光は一種の超自我として作品世界を操作する。冒頭の情景をみてみると、老人は歩みを止め、車は停車し、風は吹かず、洗濯物も揺れることをやめ、すべての動作が停止した七月の気怠さのなかに物音だけが響く世界が展開している。動作がないとは時間の流れの停留を意味しており、語りが恣意的に時を止めてしまっているのである。そうかと思うと、団地に住む女たちの様子が、常識的には考えられない視点で、俯瞰的に描かれはじめ、女たちの動きに少し遅れる形で時間が流れはじめる。北村みつこの手による道端の貼り紙を足がかりに時間は過去へ遡り出し、話の主題となる<キタムラ塾>と北村みつこが登場する。このような手つきからわかるのは、この語り手が童話作者が童話のなかの登場人物を操作するように、あるいは大人が子供を眺めるようにして、作中人物に関係しているという点である。しかもその関わり方の基調はユーモアなのである。

 北村みつこは最後、シングルファザーに育てられ、家庭環境が原因でいじめを受けている扶希子という少女を連れて夜逃げする。太郎を捨て、唐突に<キタムラ塾>を閉鎖してしまうこの行動は一種の死を連想させるものであるが、死につきまとう悲壮さとはどこまでも無縁であり、人間の運命に対して人をくったような威厳を示している。民話的なこの結末はフロイトが引いた死刑囚のユーモアにどこか通じ、このような民話的感覚で死に対処することができれば、宗教とは別のかたちで人間の悲壮な運命を受け入れることができるようになるかもしれない。この作品は読者にとってユーモラスな死の演習なのである。

 

遍在する「私」 ——ヴァージニア・ウルフ『ダロウェイ夫人』について

 小説の世界にはリアリズムと呼ばれるものがある。科学の産物であるそれは主に視覚的な情報を正確に切り取るのがよいとされる価値観で、風景を描く際に顕著に現れ、同じ風景をリアリズムに則って書けば同じような内容になると思われている。ところが冷静に考えれば、身長が違えば見えるものも身長差の分だけ違うはずなのに、小説の中で描写するとなると、言語は風景を前にしたときの身体的個人差を均してしまう。同じ風景や物事は同じ言葉で表し得ると錯覚させる——言い換えれば個人差を抹消する——働きが言葉にはあり、この言語の殺傷能力が社会的な統一を強めることに一役かっている。

 フローベールをはじめとした十九世紀の小説では、リアリズムの問題は死角にあり、むしろより優れたリアリズムの描写を生み出すことが小説の一つの争点だった。優れた作家がこぞってこの争点を極めた結果、二十世紀に入る頃にはリアリズムの文章は行き着くところまで行き着き、リアリズムを生み出した科学は繁栄を極めた。そこに勃発したのが第一次世界大戦である。戦争は西洋からすべてを奪った。日本人の感覚では戦争といえば第二次世界大戦だが、西洋においてはむしろ第一次世界大戦の衝撃の方が強く、大戦によって科学への信頼、宗教の力、人生の拠り所となるもの、こういった生きる基盤となるもの一切が信頼を失ってしまった。このような世界において人はどのように生きることができるか、この倫理を示したのがヴァージニア・ウルフによる『ダロウェイ夫人』である。


 風をはらんで揺れるカーテンのように、この作品の語りは登場人物たちの心の中を自由にたゆたい、意識の中に眠る声を呼び覚ましていく。題名が指し示す作中の中心人物、クラリッサ・ダロウェイを軸に、第一次世界大戦に従事したセプティマス、クラリッサの夫リチャード、思春期に同性愛的関係にあったサリー、元恋人のピーター・ウォルシュ、娘のエリザベスといった人物が焦点となる。彼らの声が重なることによって浮き彫りになるのは個々人の感覚の差だ。ロンドンの一日はある者にとっては灰色の無味乾燥な世界だが、ある者にとっては——たとえばクラリッサ・ダロウェイにとっては——「大気の中へ飛び込んでいく」ような煌びやかな時間となる。冒頭、クラリッサの意識を介して描かれるのは、誰もが己れの人生を愛する生命力に満ちた世界であり、他に代えられない唯一無二の瞬間の連続である人生を享受する彼女の姿である。クリケット場の若者、競馬場の馬、緑に輝くグランドや芝、公園で赤子に乳を含ませる母親、ペリカンや水鳥のいる瑞々しい風景、クラリッサはそんなものに囲まれて歓喜の絶頂にいる。彼女にとって生きることは喜びに満ちたものだ。だからこそ老いや死の恐怖は耐えがたい。スペイン風邪に罹って以来、老いの痕跡をありありと外見に刻んだクラリッサがこの恐怖と無縁であったとは思えず、冒頭の語りが風景を通して生命の歓喜を歌いあげる一方で、第一次世界大戦による暗い影——無数の死者、息子や大事な誰かを失った友人たち——が並行して書きつけられる。この配置は作者の単なる気紛れではないはずだ。クラリッサの分身とされるセプティマスは、戦争によるPDSD(シェルショック)により精神が崩壊しつつあり、結末において自殺する運命を持つが、彼が作中において最初に登場するのは、冒頭の場面に登場する、クラリッサが感動の目で眺めたのと同じボンド・ストリートに他ならない。人生の歓喜と死の影は常に隣り合わせなのである。
 第一次世界大戦が終わったばかりの六月のロンドンが舞台となっているこの作品において、宗教や大義は意味を失っている。敬虔なキリスト教徒となっている娘、エリザベスを見て、クラリッサは宗教は人生の一コマに過ぎず、人を無感覚にさせるものだと述懐する。宗教にも、大義にも、そして科学にも、もはや大きな力はなく、それらは拠り所にして生きられるようなものではなくなっている。人生に目的などなく、人間はやがて老いて死ぬだけの存在。このような世界にあって唯一可能な倫理は、クラリッサのように人生の瞬間瞬間を享受する姿勢である。断片的な瞬間の連続である人生を享受すること、これがこの作品の基本的な倫理観となっている。クラリッサの分身だと作者による前書きで明かられるセプティマスが「無感覚」の罪によって最終的には死に至ることからも、この倫理観が示される。クラリッサが体現するこの倫理は次のような形で死者を生かすことに繋がる。


 建築家の荒川修二がどこかで書いていたことだが、毎日歩いて親しんだ道はその人の延長になる。死体となっても髪の毛はまだ生きていて数ミリずつ伸びるという科学的事実のように、人間は死後も道や木や家の姿をとって生き残ることがあるのだという。毎日歩いて親しんだ道は「私」の延長になるという、この思想を仮に『遍在する「私」』と呼ぶなら、この思想と共通する述懐を作中でクラリッサは幾度かつぶやく。

 死はすべての終わりにはちがいないが、にもかかわらず自分もピーターもなにかのかたちでこういったロンドンの街並のなかに、諸物の干満に揺られながら、ここそこに生きつづけると信じられるならば、それはむしろ慰めになるのではないかしら? (中略)たしかにわたしはブアトンの木々の一部、ぶかっこうな、つぎはぎ細工のような、だだっ広いあの屋敷の一部、一度も会ったことのない人の一部となって生き残ってゆく。

 「私」の死後もかたちを変えて命がつづくなら、大戦によって失われた命もまたそのようにしてロンドンのある一日の中を生きているのではないか。誰かが生前にブナの木の美しさに感動したとき、その感動は木の中に残り、通りかかった者の意識に影響する。毎日の何気ない瞬間を享楽するとは、遍在する死者たちと意識を共有することであり、彼らの影響から生まれた楽しさによって彼らの命を肯定することにつながるのである。これがクラリッサの姿勢を倫理と呼ぶ理由であり、こういう倫理を持った人にはある特別な瞬間が訪れる。たとえば次のような場面——通りに面した書店のショーウィンドーに目を止め、重い病気で入院している女友達に持っていく本を探すという場面——がそうだ。陳列された無数の本を眺め渡したクラリッサは、やがて「あの干からびた小柄な女の顔に、ほんの一瞬でも暖かな友情の表情を浮かばせるような本は、一冊もない」と気づく。「わたしはどんなに望んでいるだろう——部屋に入っていったときに相手が嬉しそうにするのを」、こう考えたクラリッサはすぐにきびすを返し、なにかをするのにいちいち理由をつけるのは馬鹿げていると自己批判をはじめる。しかし読者には彼女が馬鹿げているとは思えない。読者の胸にあるのは、この場面の美しさといったら! という感嘆である。ウルフの小説にはしばしばこういう瞬間が訪れる。風景に絶景があるように、人の心にも「絶景」と呼べるような美しい瞬間があるとするなら、人物の意識の流れを追うことで「絶景」を掬いとるウルフの天才にはいつも惹きつけられて止まない。そしてこの感動を生み出しているのが風景として生きつづける死者たちの力なのである。


 死者たちの力は必ずしも人間にとっていいものであるとは限らない。無感覚の病に陥っているセプティマスはクラリッサと同じ「鳥の嘴のような鼻」を持つが、彼がクラリッサと同じ景色を見て抱く感慨は真逆のものになっている。クラリッサが死者たちの力を得て歓喜を見る光景に、彼は脅威を感じるのである。木の葉や枝の一本一本が戦場で別れたかつての仲間となって、生き残った自分を責め、手招きする。セプティマスの幻覚がこのように恐ろしいのは、クラリッサの観察が喜ばしいのとちょうど反対になっており、注意深い読者には二人の意識の流れがきれいにポジとネガになっていることに気づくだろう。二人が分身の関係にあることは作者によって言及されているが、そんな注がなくとも明らかなのである。
 ポジとネガは容易に逆転し得る。クラリッサが抱えるネガの部分を見てみよう。
 人の無意識はしばしば手の動きに現れる。クラリッサの無意識は、パーティの準備をする使用人のルーシーが、いるかの置物を時計に向けてディスプレイしたときに現れた。クラリッサは思わずそれを正面に向け直すのである。時計=時間の進行=老いから顔を背けたい、という彼女の無意識の現れだ。彼女は確実に老いている。五十二歳という年齢のためではなく、スペイン風邪のダメージで髪の毛が真っ白になってしまったからでもなく、彼女が選んだ人生によって、彼女は老いたのである。クラリッサの夫リチャードは政治家であり、社会的な地位は得たが、仕事では成功に一歩届かず、熱意を持てるような大事業とは無縁の職務を律儀に果たしている。これはクラリッサが選んだ人生の写し鏡である。リチャードはクラリッサに静かな生活の喜びを与えてくれる代わりに、思春期にサリーに対して感じたような情熱、過去の恋人ピーター・ウォルシュとの間に生じた緊張をはらんだ熱意、そういったものを失うことになった。過去の決定的瞬間、クラリッサはピーターを捨てリチャードを選んだが、その選択の結果が現在の彼女なのである。セプティマスを影に持つ彼女は、生に絶望し死に向かいつつある。
 スペイン風邪の静養で屋根裏部屋を寝室にして以来、彼女のベッドは狭くて清潔なものになった。シーツにシワがよることはなく、眠れない夜に読書をする他には使われていない。つまりリチャードとの夫婦生活が途絶えているのである。結婚してかつての魅力を失ったサリーは、そのかわり五人も子供を産んで育てており、夫婦生活は円満なようである。ピーターは成功とは無縁の人生を送ることになったが、五十を過ぎた今でも真剣な恋をして瑞々しく生きている。二人ともクラリッサとは対照的な人生を選んだ。そのことを彼女はまざまざと見せつけられる。老いとはこのときに彼女の中に生じる感情であり、時計を見るいるかの置物につい手を伸ばしてしまう無意識である。鏡に向かって顔を整え、パーティのホストとしての装いをつくろう彼女がうちに押さえ込むのは、老いへの恐怖と自殺願望に他ならない。


 人妻との恋を抱えてインドから帰国したピーターがそんなクラリッサとひさしぶりの再会を果たす場面は、この作品の中でも指折りの名場面だ。メタファーを駆使して二人の意識が剣のように交差し火花を散らす様が巧みに描かれる。かつては結婚も考え合った間柄ではお互いの内心が明言しなくとも手に取るようにわかってしまい、有言と無言を跨いだ決闘がはじまる。このとき、ピーターはクラリッサの中にかつてとは違う性質を見出し、自分が戦っているものを理解する。それは瞬間への歓喜や富と引き換えに、情熱を失い、毎日に諦念する人生——リチャード・ダロウェイがもたらした人生——である。戦いの中でピーターは不意の涙に襲われる。クラリッサと結婚していたかもしれないのにできなかった、という思いに不意に襲われたのと同時に、クラリッサもまた同じ思いに駆られ、自分と結婚していれば毎日に諦念することもなく情熱の中で生きていたという思いに打たれていることに気づく。彼女への悲しみの込もった共感が涙となって溢れ、ありったけの思いやりを込めてピーターは「しあわせなのかい?」と問いかける。しかしリチャードからの、諦念と歓喜の人生からの援軍がやってきて、今からでも駆け落ちしたかもしれない二人の可能性とピーターの問いを断ち切る。娘のエリザベスがその場に現れたのである。勝者のいない決闘が終わりを迎えたとき、ビック・ベンが十一時半を告げる鐘の音を響かせる。乱暴に、なにかを引き裂くように。作中、しばしば印象的に顔を覗かせるこの時計は、クラリッサにとっては老いと空白、情熱の喪失を意味するもののように聞こえる。
 同じ音を耳にしたクラリッサの影、セプティマスはうつらうつらと人生を振り返る。シェイクスピアを教えていた教師に恋をしたこと。「シェイクスピアの劇と緑色の服を着て広場を散策するミス・イザベル・ポールだけから成り立っているといっていい祖国イギリスを救うため」に出願し、義勇兵になったこと。そこで親友と出会うが、この戦友は終戦の間際にイタリアで戦死したこと。報せを受けたとき、塹壕の中で破裂する砲弾の音を聞きつづけていたセプティマスはなにも感じられなかった。悲しみも怒りも、なにも。なにも感じられない! 恐怖が彼を捉えた。花のうつくしさも女の魅力も、味覚も嗅覚も、なにも感じられない。頭で考えることはできるが、それだけになってしまった。セプティマスは苦悩の末、恋した人の妹に求婚する。薄暮ですらあるが自分に安心を与えてくれる娘と残された虚無の時間を過ごすことを選んだのである。二人が結婚し、イタリアからロンドンに移り、現在に至るまでの流れを追う文章は悲しくうつくしい。


 ビック・ベンの鐘が鳴り止んだ頃、一人残されたクラリッサは自分がパーティを好むことについて、元恋人のピーターから俗物だと暗に非難され、夫が興奮して心臓に悪いのに子どもじみていると思っているのを察し、二人に対してこう自己弁護する。ふたりとも間違っているわ、わたしが求めているのはただ人生だけなのだから、と。
 ピーターが「あなたのパーティの意味はなんです?」と訊ねたと仮定して、クラリッサは「捧げ物です」と答える。ひどく漠然としていて誰にも理解してもらえないかもしれないと彼女が言う通り、この「捧げ物」がなんなのかは容易には見えてこない。架空の議論の中でクラリッサはパーティと対置する形で、五十を過ぎても恋愛に翻弄されるピーターの愛を挙げる。ピーターは愛とは「世界じゅうでいちばん大切なものです。女性にはけっしてわからないでしょうがね」と言うが、逆に「捧げ物」を理解してくれる男性はいるかしらと彼女は問う。

 誰それがサウス・ケンジントンにいる。わたしはたえずその人たちの存在を意識しつづけている。そしてなんてむだなことか、なんて残念なことかと感じる。その人たちを一緒に集められたらどんなに素晴らしいだろう。だからわたしは実行に移すのだ。それは捧げ物なのだ。人びとをむすびあわせ、そこからなにかをつくり出すってことは。

 それは誰に対する捧げ物かと自問し、クラリッサは「おそらく捧げ物のための捧げ物だ」と答える。それは宗教や大義には収束しない。人生の瞬間がそのようなものにつながらないように。「捧げ物のための捧げ物」とは瞬間を享楽する倫理に通じるものなのである。
 クラリッサは娘に対して自分とは性質が違うと判断しているが、この倫理はエリザベスの中にも間違いなく受け継がれ、クラリッサの血として確かに流れている。デパートに出かけた帰り道、バスに乗ったエリザベスは降りるはずの停留所を越えてふだんは足を踏み入れない通りに寄り道をする。そこでラッパを吹き鳴らす失業者のデモに遭遇するのだが、このときエリザベスが抱く感慨がクラリッサの倫理に通じるものなのである。彼女は通りに面した家の一つに、いま臨終のときを迎えている家庭があったとしたら、と想像する。たとえばある女の人が息を引き取ったとして、最期を看取っていた家族が窓を開け通りを見下ろせば、その人の耳はこのデモの喧噪に満たされる。

 この喧噪には自覚がない。人の運命や宿命に対する認識も無い。しかしそのためにかえって、死にゆく人の顔に意識の最後の断片を求めて目がかすむまで看護をつづけてきた者には、それは慰めとなる。人間の忘れっぽさは心を傷つけ、忘恩は心をむしばむかもしれない。しかし年々歳々絶えることなく流れ出すこの喧噪の声はいっさいをうけとる——この誓約も、このヴァンも、この人生も。この行列はそれら全部を身にまきつけて、運んでゆく。ちょうど氷河の乱暴な流れのなかで、氷が骨のかけらも青い花びらも何本かの樫の木も抱いて、そのまま運び去っていくように。

 人の死も悲しみも喧噪に呑み込まれてしまうが、喧噪がある限りそれらは消えることがない。エリザベスが言うのは人の死後も形を変えて残る意識であり、デモの喧噪という瞬間が無数の死者や無数の悲しみを内包しそれらを生かす形で存在していることなのである。これはクラリッサが瞬間を享楽しようとする倫理に通じるものだ。
 エリザベスは「ある女の人」として想像した死者は、次の場面ではセプティマスという具体となって現れる。自殺を敢行する直前、彼は一時的に病から解放され、久方ぶりの夫婦水入らずの時間を過ごす。セプティマスが裁縫する妻を優しく見つめ、妻のレイツェアが喜びに震え涙するこの場面は作中で最も美しい。この美しさは、デモの喧噪が死者を留めるように、書かれることによって永遠に残る。


 自殺したセプティマスの、もう助からないであろう身体を救急車が運んでいく。サイレンの音を耳にしながら、クラリッサと再会したために感情的に大きな揺れを経験したピーターは、そのような状態のなかで青春時代にクラリッサが語ったことを思い出す。バスの二階に同席していた彼女が座席の背を叩きながら、自分があらゆる場所に存在している感じがするの、と言ったのだ。手を大きく振って車窓に見える通りのすべてを指しながら、こうつづける。

 わたしはあれ全部なのよ。だからわたしなり誰かなりを知るためにはその人を完成させている人たちを、そしてその人を完成させている場所も、見つけださなければならないのよ。(中略)外なる現象としてのわれわれ、われわれの目に見える部分は、それとは別の目に見えない、広々と広がっている部分とくらべればひじょうにはかないのであり、その目に見えない部分はわれわれの死後も残り、どういうかたちでかあれやこれやの人にむすびついたり、ある場所にとりついて生きつづける。

 直前の場面で死を選んだセプティマスもまた「見えない部分」としてピーターに寄り添っている。ちょうど過去を回想しているピーターの耳に意識されずとも救急車のサイレンが聞こえつづけているように。それは招待されたピーターが出席するか迷いながらもクラリッサのパーティに顔を出し、人々に取り囲まれる彼女に隅から批判的な眼差しを向ける場面でも同じである。パーティの華やぎには影となったセプティマスが潜んでいる。


 成功の兆しを見せはじめたパーティのなか、ホストであるクラリッサは階段の上に杭のように立ちながらこんな感慨を抱く。

 パーティをひらくたびごとに、自分が自分でなくてなにか別のものになったというこんな感じを持つ。すべての人がある意味では非現実で、別の意味ではもっとずっと現実的だという感じも。

 人魚のような優雅さと輝きで総理大臣を迎えたクラリッサはつかの間の陶酔に浸るが、一方でその感情が見せかけであり、空しさをはらんでいることを意識する。老いが彼女から昔のような満足感を奪ってしまったのである。そこにセプティマスの主治医が妻を伴って現れる。二人はパーティに遅れたことを詫び、夫の方がリチャードとなにやら話し込みはじめる。妻の方がクラリッサに近より、今日起、若い青年が自殺したことを話題にする。夫が話しているのもきっとそのことよ、と。クラリッサはわたしのパーティに死を持ち込むとは! と憤りつつ、死について彼女なりの思いを馳せる。そこで対置されるのはやはり老いだ。青年がなぜ自殺したのかはわからないが、彼は一日一日の生活の中で堕落や嘘やおしゃべりとなって失われていくものを守ったと考える。人間にはある中心があって、人びとはその中心に到達することを願うが、それは不思議に自分たちを逸れてゆき、凝集するかに見えたものがばらばらに離れ、歓喜が色あせ、人は孤独に取り残される。青年はそのような老いの運命に挑戦したのである。クラリッサは「いま死ねば、このうえなく幸福だろう」と感じたことがあるのを思い出す。若さを保って自らこの世を去る命、若くして戦場で散る命、生きながらえ凡庸になる命……
 老いへの敗北を意識したクラリッサが広間の喧噪を離れて窓辺によると、窓越しに、隣家のおばあさんがベッドに入ろうしている場面と出会う。こちらではみんなが笑ったり叫んだりしているのに、あのおばあさんはもう寝ようとしている。その光景はクラリッサには魅力的に映る。おばあさんの姿を介して彼女は老いることにも美しさがあると知るのである。ふいに訪れた老いの肯定を持って広間に戻ると、そこには青春時代を共有したサリーとピーターが彼女を待っていた。


 小説はここで幕を閉じるが、最後にリアリズムの話に戻りたい。
 風景を言葉で完全に再現しようとするとアキレスと亀パラドックスのように終わらない細分化に陥り、言語は視覚的なものを完全には再現できないという自明の理解に改めてぶつかることになる。視覚に属するものでなければ限界はないのかというとそうではなく、人の思考や意識であっても、完全な再現を目指せば同じパラドックスに陥るだろう。意識の流れを完全に再現することはできないのだ。人の意識は必ずしも言葉だけで成るわけではなく、断片的なイメージや匂いの記憶、動きの感覚、触った感触といった雑多なものの総合であり、言葉しかない小説でそれらを完全に再現することには限界がある。しかし、個々人の声を書きつけていくことで小説に固有のリアリティが生まれることがある。ドストエフスキーの登場人物はみな多弁だが、現実にあれほど口数の多い人間ばかりがいるわけではないといって批判してもドストエフスキー作品の魅力が少しも半減しないように、小説に固有のリアリティは現実とぴったりとは重ならないがその一部を確実に捉えることができる。
 ウィリアム・ジェイムズによって提唱された、当時最先端の科学的アプローチを駆使して書かれたのがモダニズム文学における意識の流れであり、意識の流れは科学的アプローチでありながら言語の殺傷能力を相殺する方向に働く。科学の産物である自然主義リアリズムに対して一種の批判になっているのだ。今では前時代の古びた方法論として唾棄された意識の流れだが、この方法の批判的力は未だ有効なのではないだろうか。意識の中にある個人の声を重ねていくことで、失われた身体的個人差をページの上に蘇らせる力を持っているのではないかと、ひとりの書き手として夢想する。その力は生者のみならず死者たちの声をも拾い、彼らの命を肯定する。ヴァージニア・ウルフによる『ダロウェイ夫人』は、意識の流れを介し、人生の悲劇に散った命へなんとか救いをもたらそうとした鎮魂の試みなのである。

 

明るい部屋 3/3


 月が出ていた。
 祖父の家は駅を見下ろす高台にあり、京急線の路線が街明かりに揺れて夜の底で川のように波打っている。街灯の投げる小豆色のけばけばしい明かりが飴のように川面に薄く滲み、夜空の星と奇妙なほど調和した黄色になって溶けていた。川上では街と夜との境界が曖昧で、濃紺とも紫ともつかない遠景の中、星と月とが際立っている。空をじっと見つめると凹凸があるような錯覚が目に生じ、毛筆の痕跡が浮き上がってくるようだった。うつくしい夜だ。こんな夜に祖父と散歩するのはいつぶりだろう? 子どもの頃はよくこうして一緒に歩いたものだ。健康は足からというのが祖父のモットーで、孫のぜん息に効くかもしれないと短い距離をよく歩いた。食後に散歩する習慣はそのときにできたものらしく、和人の歳を考えるともう二十年以上つづけていることになる。当時ですら祖父は七十だった。
——寒いね、おじいちゃん大丈夫?
——そのために着込んできたからね。
 橙色のマフラーと同色の手袋、白いニット帽という姿の祖父は、確かに本人の言う通り防寒面での心配はなさそうだった。桶が空になって少しすると、自室に戻った祖父がこの防寒着姿で現れ、集合写真のときと同じ唐突さで和人を食後の習慣に誘ったのだった。急だったせいで薄着に上着を羽織っただけの格好で出てきてしまったから、和人は背中に鳥肌が浮いているのを感じていた。けれど冬の澄んだ空気は嫌いではなかった。籠もっていた空気から解放されたような清々しさが好きなのである。それはふだん気づかなかい息苦しさが浮き彫りになるのだとも言えるのだけれど。
 和人には歩く速度と不幸の度合いは一致するという自説があった。それは年齢に関係なく、老人であっても無意味に速足な人もいて、そういう人は例外なく一人だし、目つき顔つきに剣がある。この自説に照らし合わせると、祖父は一貫して自分のペースを保つ人で、少なくとも不幸からは遠かった。
——これからは貴方たちが世間をつくっていくんだよ。
 なんでもないことのように祖父が言った。
——世間がつくれるものって、そんなふうに考えたこともなかった。
——つくれますよ。貴方たちは若いんだ。力がある。自分で思っているよりずっと力があるんです。
——そうなのかな。
——そう、若いというのはそれだけで価値があるんです。いや、若くなくたってそうだ。こんなだらだらした散歩につきあってもらったのも、ありふれた言葉だけどね、「人間にはお金に換えられない価値がある」っていう一言が言いたかっただけなんですよ。知ってるかもしれないけれど、かずくんの名前は私が決めたんだ。そして誰にでも名前があるのは、誰かがその人を産んだからですよ。ハンデを持って産まれる可能性も、生きていく上でハンデを負う可能性も承知で、誰かに生まれさせられたから名前があるんです。その誰かは、たとえ社会には無価値でも、お金に換えられない価値を無条件に見出したから、貴方をこの世に生んだ。それはかずくんに限らず、誰ひとり例外じゃない。世間ができるのに先立って、子供を名づけるという最初の言葉があったんです。ちょっと前にフランスのちょっと難しい人の本を読んだら書いてあったんだけど、すべての言語はそういう最初の言葉への応答なんだそうですよ。言語を使うとは最初の言葉を肯定することであり、最初の言葉とはすべての人にお金には換えられない価値を無条件に認め肯定する言葉なんです。言語は命を肯定している。どれだけ命を否定しても、否定するためのその言葉がすでに命を肯定しているんです。
 祖父の言葉は白くなって冷えた夜気に溶けていった。そのあとを追うようにどこかから犬の遠吠えが聞こえ、車のエンジン音が一度だけ響き、かすかに味噌汁の匂いがしていた。いい夜だねと祖父がつぶやき、うん、と答える。これも命を肯定する言葉だ。
——そろそろ帰りましょうか、と祖父が言った。

 



 散歩から戻ると祖母が玄関で待っていて——寒いのに物好きねえ、と呆れた顔を見せた。和人と祖父が顔を見合わせると、——温かいお茶を淹れたから飲んでくださいね。風邪でもひかれたら看病するこっちが保たないんですから、と早く居間に行くよう促された。寿司が広がっていたテーブルに湯呑みが二つ、湯気をあげて二人を迎えてくれた。ガラスのコップとは似ても似つかない陶器の湯呑みを回想しながら、和人は冷蔵庫から出したペットボトルのお茶をキッチンで飲んだ。あのときとは正反対の冷たさが喉を落ちていく感触と、祖母が淹れてくれた熱いほうじ茶の味が頭の中で混乱し、奇妙な感覚となって和人を襲った。頭痛がする。キッチンから七畳の部屋に戻ると、奥の窓際にあるベッドと手前のソファとで悩み、結局ソファを選んで寝転がった。少し熱があるのかもしれない。パニック発作と併発して自律神経を病んでいたから、軽微な発熱や動悸が不規則に身体を叩いてくる。一月も末だというのに急に雪が降ったり、そうかと思えば早すぎる春の陽気がやってきたりと、ここのところ気候が安定しないせいで、体調が悪化しているのかもしれない。
——いったいどこまで行ってきたんですか?
 ぼんやりする和人の耳は、確かに祖母の声を聞いた。
——家の前の通りを往復してきただけだよ、と祖父が答え、そうだよね、と目で同意を促されたから、うん、と答えた。同時に和人はくしゃみを二回した。部屋の暖房を入れた方がいいかもしれない。
——そこにヒーターがあるから、椅子を持ってきて温まりなさい、と祖母が和室に通じる引き戸の前を指す。暖炉のような灯りが引き戸の曇りガラスを下から照らすせいで、和室の中で火が揺らめいているように見えた。父は食後の一服のために庭に出ており、叔母さんは台所で洗い物をしていたから、和室の中では残りの四人が炬燵を囲んでいることだろう。どんな話をしているのか和人にはわからなかったが、正月のありふれた話題に加わる気にもなれず、祖母に言われるまましばらくヒーターの前に座り込むことにした。
 祖父はプリントが終わっているはずだという写真を撮りに自室へ向かい、食事の片づけを終えた祖母がテーブルの椅子に腰を下ろした。自分のための湯呑みを両手で包み、居間とひとつづきになっている背後の台所へ、——リエさんもそのぐらいで切りあげて少し休みましょうよ、と言った。
——かずくん、少し痩せた?
 布巾を手にあてがいながらリエさんがやってきた。——そうですか? と答えると、頬の辺りが少しシャープになったと言われた。看護師の目は誤魔化せないな、と和人は少し警戒する。リエさんの言葉を聞いた祖母に
——ちゃんと食べてるの? と心配された。
——料理してるから大丈夫だよ。自炊するのけっこう好きみたいで、毎日なにかつくってる。
——生野菜は食べてる? とリエさん。——ひとり暮らしだとついつい自分の好きなものに偏りがちだから。
——どうかな、そう言われると自信がないけど、と言いながら、和人はこの一ヶ月欠かさず食事に野菜を取り入れていた。正月を迎える前も同じ食生活をつづけていたから、痩せたのはたぶん食事のせいじゃないよ、と和人は誰もいない部屋で天井に向かって呟いた。病気のせいで僕はこうなったんだ。
 引き戸が急に開いて、母が顔を出した。
——もうちょっとしたら帰るから、支度しなさい。
 ほうじ茶とヒーターのおかげで十分に温まっていたから、和室に鞄を取りに行った。居間に戻ると父がニコチンの臭いを撒き散らして和人が座っていた椅子にドシンと腰を落とすところだった。ようやくタバコを吸い終えたようである。
——なに、もう帰るの? と母に訊ねている。
——あんまり遅くなっても困るから。
——また来年ですかね、と叔母さんが座りながら挨拶する。我が家も挨拶を返していると、叔父さんにつづいて弟とアサヒが和室から出てきて、居間が急に賑わった。
 じゃあまた来年、と姉に呼びかける叔父さんの声を聞きながら、来年の僕はどうなっているだろうと、そのとき思ったことを何もない天井に訊ねてみた。部屋はしんとしていて、冷蔵庫がうるさく感じるほどだった。あのあと自室から出てきた祖父がプリントした写真を全員に一枚ずつ配っていて、今は棚の中、本の間に置いたファイルに収まっている。重い身体をソファから起こしてそれを開くと、何かを喋ろうとしてか、梅干しのようなしわを下唇のあたりに浮かべて写っている自分と対面した。僕とは対照的に祖父は大きく口を開けて笑っている。
——かずくん、ちょっといい?
 帰り支度も終えて一家で玄関に出たとき、見送るためについてきた祖父に背中から呼び止められた。ついて来て、と言われ、七福神の面が並ぶ祖父の部屋に招かれる。すたすたと先を歩いていた祖父が入り口から右手にある襖を引くと、よく整理された書斎が現れた。夢の中でここに出刃庖丁が隠されていると恐れていたことを思い出し、僕は思わず苦笑した。幼い頃はこの部屋で祖父に相手してもらうのが大好きで、あそぼ! あそぼ! と弟と一緒に連呼して祖父を草臥させたものだった。
 祖父は棚に並んだ本から一冊を手に取り、書斎の入り口で待っていた僕に言った。
——最近、天文学の勉強をはじめたんです。かずくんは英語でしょう? かずくんが資格を取るのと私が学び終えるのと、どっちが早いか競走しようよ。
 手渡されたのは使い込まれてボロボロになった英語の参考書だった。
——あのさ、おじいちゃん、と言いかけたが、そこから言葉を継ぐことができなかった。その様子を見て祖父は、
——無理に言わなくていいよ。かずくん、今日はなんだか黙しがちで元気がないようだから、何かあったのかなとは思いましたけど、貴方の歳になれば誰にも言えないことの一つや二つあるものです。健康には気をつけてくれれば、私はそれで満足ですよ。
——うん。ありがとう。
 いつか、あのとき秘密を打ち明けなかったことを後悔する日が来るのかもしれない。祖父はもう九十で、いつ何が起きても不思議ではない。それが現実だ。一方で僕は信じている。きっと来年の正月には、何も隠さず祖父と対面できると。
 和人はボロボロになった参考書を開き、記憶の船を降りて、今現在に意識を集中した。