いえばよかった日記

書評と創作のブログです。

僕のいない場所

 

 四車線の広い国道の傍らで、その古本屋は取り残されたように建っていた。カゴに盛った百円均一の本を店先に置き、その上に店名のプリントされた旗を掲げており、その旗が風に揺られてパタパタ音を立てるのをときおり通行人が迷惑そうに一瞥するのを除けば、誰も気にもとめないような繁盛していない店である。そもそも国道沿いの舗道は人通りも少なく、周囲の建物と言えばどこかの企業がオフィスに使う商社ビルばかりで、客を呼び込もうとする店は他に一軒もなかった。コンビニすら出店を避けるような通りなのである。今が昼時だということを別にしても、古本屋の外観が淋しげなのは周辺のそんな事情があるからなのだった。

 今日日めずらしい手押しのドアを開けてその古本屋に入ろうとすると、ガラス製のドアは結構な重量を持っていて、いつも片手ではびくともしないから両手が必要になる。二の腕の筋が強ばるのを感じながら中に入ると、古い紙の甘い匂いが鼻をくすぐり、なま暖かい空気に包まれた。背中では自らの重みでドアが勝手に閉まり、外界の音が途絶える。いつものことながら、その一瞬になると動物の腸に潜り込んでしまったような居心地の悪い気分に襲われる。
 店番をしているのは狸の置物のような姿をした老婆だった。小太りで顔中が皺だらけで、うたた寝をしているのか死んでいるのか釈然としない。もしかしたら本人にもどちらなのかはっきりわかっていないのかもしれない。そのくせ釣り銭の計算だとか商品の会計だとかはしっかりしていて、こちらが一円でも間違えようものなら鼻を鳴らして「違うよ」と鋭く注意してくるのである。店と同じくらい古びた老婆は別にボケけているわけではなく、単に店の一部と化しているようだった。床に敷かれた蛇の腹みたいに弾力のあるカーペットの上を歩いてその老婆の元へ行くと、今は来客に気づかず眠りこけていた。
 老婆を無視して——あるいは無視されて——店の奥へと進むと、壁際もさることながら狭い店内には四つの本棚が肩を寄せ合っているせいで、客はその間を縮こまりながら歩かなければならない。目当ての本は入り口から見て一番奥の本棚にあった。洋書である。イギリスの児童文学がまとまったコーナーで、そこだけ横文字の本が並んでいるのがなんとなく新鮮だった。
 一冊を手に取り、パラパラとページをめくってみる。ミヒャエル・エンデ作『モモ』の英訳版。状態を確認して顔を上げると、先ほどまで完全に寝入っていたはずの老婆が鋭い視線をこちらに投げつけていた。立ち読みだけで帰る冷やかしは見逃さないぞ、となみなみならぬ決意のようなものを滲ませて、老婆は無言のまま迫ってくる。苦笑しつつ、本を小脇に挟んでレジに向かった。
 購入した本を袋に入れてもらい、それを肘に提げながら表に出る。店内の淀んだ空気から解放され、どこかガス臭いとはいえ冷たい風を全身に受けた。店頭に置かれた百円均一のカゴの横でストレッチ代わりに背中を反らせると、上を向いた視界の真ん中に店の旗が来た。落下しかけた鳥が必死に羽を振り回しているような乱雑さで旗はパタパタと揺れている。うるさくなって前を向くと、視界の隅、四車線道路を挟んだ反対側の舗道で、こちら側と同じように閑散とした道を人が歩いていた。二人連れである。
 一人は中学生くらいの女の子だった。制服を来ているのだがちょっと毒々しいくらいに髪を茶に染めていて、それが痛々しく幼さを感じさせた。横を歩くのはスーツ姿の大人で、短髪で大らかな顔をした成人男性だった。昼下がりという時間を考えると教師が生徒を補導している図にも見えたが、その教師は明らかにスーツに合っていない真っ赤なネクタイを指し示しながら少女に笑いかけていて、彼の様子に「補導」という言葉から連想するような刺々しさはない。一方で少女はうつむいたまま黙りを決め込んでいて、迷惑そうな様子すら見て取れた。
 昼時の成人男性と女子生徒。スキャンダルの匂いのする二人連れだが、僕は別に興味があるわけでも緊迫感を抱いたわけでもなかった。特におもしろいとも感じない。早く座れる場所に移動して買ったばかりの本を読みたかったのだが、二人を無視して通り過ぎようとした刹那に、スーツ姿の方にどことなく見覚えがあることに気づいた。それで二人に向かってじっと目を凝らしてみると、距離のせいで顔をはっきりと確認することはできなかったものの、頭の奥で過去が像を結びそうな気配があった。うずき出した記憶がなにかの形を取ろうとした瞬間、左から騒音と排気ガスを撒き散らした大型トラックが迫ってきて、眼前を塞いでしまった。トラックが通り過ぎて再び四車線道路の向こうにある歩道が見えた時には、二人連れの姿はどこかに消えていた。
 そんなわけでそのときは二人のことを気に留めることもなく、僕は家にまっすぐ帰って念願の読書に耽った。スーツ姿の大人が中学時代の担任教師だと思い当たったのは、買ってきた洋書を部屋のベッドの上でパラパラとめくったときのことである。そして翌日、報道されたニュースをきっかけに、おそらくは当時のクラスメイト全員がその担任教師のことを思い出すことになる。


 眠気の残る目をこすりながらリビングに入ると、テーブルの上に折り畳んだ朝刊があった。母親がポストから取ってきたのをそのまま放り出したのだろう。当の本人は今、台所で弁当を作っていた。僕はぼんやりしたままテーブルに座り、何気なく新聞の一面に目をやった。「中学校教師、生徒を誘拐」と大きく書かれているのが目に入ったが、このときはまだよくあるありふれた事件の一つで、自分とは何の関係もないだろうと踏んでいた。見えていたのは記事のタイトルだけで、内容は折り畳んだ裏側に隠れていた。ふだんは新聞など読まないのだが、見えない内容がなんとなく気になって、僕はふとそれを手に取ってみた。
「先に顔洗ってきなさいよ、あんたひどい顔してるわよ」
 記事を読もうとしたタイミングで、ネギを刻む母親が振り向きもせずにそう言ってきた。「ああ」と「うう」の中間にあるような、我ながら意味のわからない返事をして手元に集中する。
「ちょっと、母さん!」
 思わずそう声を上げると、刻み終わったネギを小皿に移していた母親が迷惑そうに「なに?」と言った。
「今忙しいんだから邪魔しないでよ。だいたいあんたたちの弁当なんだからね」と不平を漏らしながら振り返った母親の鼻先に、記事を突きつける。
「誘拐事件? って、これあんたの出身校じゃない」
「犯人の名前、見て」
「え?」
 記事を読んだ母親も驚いたようだった。
「これ、田崎先生のこと?」
「うん。生徒の一人を連れて消えたんだって」
 田崎守は、中学時代の三年間を通して担任だった教師だ。当時は(おそらく今も)英語の教科を受け持っていた。その田崎守が、先日、学校から自分の受け持つクラスの生徒を一人連れ出して消えたのだという。
 二人が消えたことに学校の人間が気づいたのは昼休みが終わり午後の授業が始まってからのことだった。生徒の方はふだんから授業をさぼりがちだったらしく、不在をことさら不審がる者はいなかった。しかし田崎はまじめだった。いや、たとえ彼がまじめではなかったとしても、授業の時間になって教師が現れなければ同僚が探し始めるのは当然である。
 手紙が見つかったのはそれからすぐのことだった。職員室の田崎のデスクに、生徒の一人を連れて外出すること、おそらくはもう学校に戻らないこと、迷惑をかけることに対する謝罪が書かれていた。教師たちが混乱する最中、偶然手紙の内容を知った生徒が通報し、事件が発覚したのだそうだ。
 卒業した学校がどれだけ混乱しようとそんなことはどうでもよかったが、あの田崎守がなぜ生徒を連れて失踪したりしたのか、そのことばかりが気になった。しかし事件のことばかり考えているわけにもいかない。どこでなにが起きようと、日常は日常として絶え間なく続くのだから。手早く制服に着替え、母親から弁当を受け取り、現在通う高校へ向かって家を出なければならなかった。
 それでも道中は事件のことが頭を離れなかった。アスファルトとぶつかる度にコツコツ音を立てるローファーのつま先を眺めながら、思考は自然、田崎のクラスにいた頃へと飛んでいく。おかげで何度も電柱に当たりそうになった。
 中学時代、クラスでは誰ともしゃべらずに孤立していた。放課後になって生徒全員が教室から出て行った後も、一人残って本を読んでいるのが常だった。窓際の席で、徐々に夜の気配を強めていく夕暮れをしり目に読書をすることが、当時の自分にはなんとはなしに愉快だったのである。
 ときおり、手元のページに人の影がさした。顔を上げるとそこにはいつも田崎がいた。
「ちょっと来ないか?」
 と言葉の上では誘いの形をとっているが、すぐに腕を取られて教室の外へ連れ出されてしまう。戸惑っている間に学校の駐車場まで来て、鍵を渡される。
「あの……」
「車の中で待っていてくれ。ちょっと忘れ物をしたから」
 そう言って、彼は本当に校舎に戻ってしまった。仕方なく鍵を開けて車の後部座席に入り、これで自分が車にいたずらでもする気になったら田崎はどうするつもりなのだろう、と首を捻ったものだった。
 しばらくして田崎は財布を片手に戻ってきた。
「どうして後ろにいるんだ、前に来いよ」
 と、車内を見て言う。仕方なく助手席に移った。
「あの、どこに行くんですか?」
「衣装の買い出しだよ。ほら、もう出すからシートベルトを閉めろ」
「どうして先生が衣装の買い出しに?」
「あいつら、顧問の俺をパシりに使うんだ。まったくひどい部だろ」
 そう言ってから田崎は車を発進させた。
 田崎は演劇部の顧問だった。十人程度の小さな部だったが、ほとんどが女子のせいもあって化部員たちの結束は堅く、傍目には華やいだ場所に見えた。当然のように僕には縁のない場所だ。顧問である田崎が衣装を買いに行くのは勝手だが、それに同行させられる理由はなかった。
「どうして僕を連れて行くんですか?」
「暇そうだったから」
「……僕、本を読んでいたんですけど」
「なにを読んでたんだ」
「時代小説です。『蝉しぐれ』」
「小説が好きなのか? それとも歴史に興味がある?」
「いえ、どっちでも」
「じゃあどうして本なんて読んでたんだ」
「時間をつぶすのにちょうどいいんです」
「やっぱり暇なんじゃないか」
 そう言って田崎は笑った。
 半ばふてくされながら黙ると、田崎は鼻歌を歌いながら運転に集中し始めた。こちらが口を開こうと開くまいと、彼は彼で陽気にやっていくつもりらしい。そんな様子にますます腹が立ち、先ほど一人にされたとき座席のクッションに穴でも開けてやればよかったと思った。
「時間をつぶすなら、人と話せばいいんじゃないか」
 車窓に肘をかけて景色を眺めていると、唐突に田崎がそう言った。
「え?」
「友達とのたわいないおしゃべり、つぶす間もなく時間は過ぎていく。青春ってそういうものだろ」
「僕に青春なんてありませんから」
「演劇部に顔を出した後におまえを見るとさ、どうしてそう一人でいたがるのか、不思議に思えてくるよ。クラスメイトがそんなに嫌いなのか?」
「……話すのが嫌いなんです。どうしてみんな、人を前にしてあんなにすらすら言葉が出てくるのか、その方が不思議ですよ。どこかに台本でもあるのかと思うくらいです」
「今は台本がなくてもしゃべれているじゃないか」
 それはそうですけど、と言いよどんでいると、赤信号で車が止まった。ハンドルから手を離した田崎がこちらを振り向く。
「俺の知り合いにさ、ふだんはおまえみたいに恐ろしく無口なやつがいるんだ。けどそいつは、外人相手に英語でなら実に饒舌になる。母国語じゃないというだけで、不思議と素直になれるんだそうだ。元が不得手な外国だから、変に自分をとりつくったり誤解されやしないかと気にする必要がなくなる。間違えて当たり前だからだ。別に英語の教師だから勧めるわけじゃないけどな、外国語で話すというのはいい刺激になるぞ」
 気のない相づちをうっていると、信号が切り替わった。発進した車は四車線の広い道に入る。
 しばらく進んだ田崎は、いきなり路肩に車を止めた。目的の店についたのかと外を見ると、百円均一のカゴに旗を立てた古本屋があるばかりである。
「衣装はまた今度だ。ついて来いよ」
 首を傾げながら田崎の後をついていくと、年季の入った古本屋の中にいた僕の両手には、気づけばいっぱいの洋書が持たされているのだった。


 回想に耽りながら歩いてきたせいか、高校に着く頃には遅刻ぎりぎりの時間になっていた。校門を潜った辺りから駆け足になり、教室に滑り込む。
「セーフ」
 中に入ると、ドアの傍にいた明美が野球の審判を真似てそう言った。彼女の声を聞いて、二、三人の友人がやってくる。ぎりぎりだったな、と笑いかけてくる彼らに挨拶を返しながら、自分の席に座った。
 田崎との交流があったからというわけでもないだろうが、高校生になってからは少しずつ人と接するようになった。英語の研究会に入ったことが大きかったのかもしれない。田崎が言うように、不思議と英語でのコミュニケーションは上手く取れたし、日本語に戻っても一度話せた相手には自然に振る舞えた。
 朝のホームルームが終わると研究会で使っているテキストを持って明美がやってきた。「ここ、わかる?」と言って英文を示す。その場で和訳を試みると、彼女が手元を覗き込んできた。長い髪が垂れ下がり、毛先がシャーペンを持つ手の甲をくすぐってくる。
「できたよ」
 テキストを渡すと、明美はなるほどなあ、などとつぶやきながら頻りにうなずいていた。本当にわかっているのか怪しいのだけれど、そんなしぐさが頬笑ましくもあった。昨日、田崎が連れていた生徒とは真逆だと思う。
「そうそう、朝なんだけど、他のクラスの子があなたのことを探してたよ。中学の同級生だって言ってたけど、まだ着いてないって伝えたら後でまた来るって言ってたけど」
 そう言って彼女は教室のドアへ振り向いたが、人が入ってくる気配はなかった。
「来ないならこっちから出向いてみるよ」
 明美にそう断って教室を出た。
 一限目の授業が始まるまで、もう数分しかない。騒がしかった廊下もさすがに人気がなくなり、静かになっていた。
 廊下には東向きの窓が連なり、その数だけ斜めなった光の柱が建っていた。柱の中では陽を反射してきらきら輝く埃がはっきりと目に見える。逆に光の当たらない空間は墨汁を流し込んだように薄暗くなっていて、廊下全体は廃れたギリシャ神殿のような印象を放っていた。その中を少し進んで隣のクラスを覗くと、中学のクラスメイトはすぐに見つかった。彼はなぜか真っ赤なハンカチを手に持って僕のもとに駆け寄ってきた。
「おまえにも知らせておかなくちゃと思ってさ。田崎のことは聞いたか?」
 曖昧にうなずくと、彼は一人で話を進めた。
「事件についての情報交換も兼ねて、同窓会をやろうという話になってるんだ。おまえも来いよ」
「交換するほどの情報なんて持ってないけど」
 と、昨日二人を見かけたことを思い出しながら答える。
「そんなのいいんだよ。ちょっとしたイベントだろ。楽しめばいいんだ」
 それから「じゃ」と港の見送りのようにハンカチを振って、彼は自分の教室に戻っていった。同時に一限目の開始を告げるチャイムが鳴った。

 同窓会の連絡は改めてメールで送られてきた。当日になっても行くかどうか迷い続けたが、結局、なにか新しい情報が得られるかもしれないという希望を捨てきれず、出向くことにした。
 場所は市内の焼肉店だった。炭火焼きを売りにした店で、練炭を象り赤い照明を点けた看板が、夜空に松明のようにくっきりと浮かび上がっていた。臭いがついてもいいように着古した上着で来たことに安堵しつつ中に入ると、伝えられた集合時間に一時間は遅れていたので、同窓会はすでに始まっていたようだった。
 店員に通された座敷部屋は、煙と人の熱気ではちきれそうになっていた。かつてのクラスメイトニ十何人かが一カ所に集まっているのである。騒々しさは部屋に入る前から眉をしかめたくなるほどで、顔を出したとたんワッと歓声が上がった。「これで全員そろった」「ひさしぶり」と、親しくもなかった相手から次々に声をかけられる。
 空いた席を見つけてやっと落ち着くことができるようになると、早速田崎のことが話題になっているようだった。
「それにしてもあの田崎がねえ。いなくなった女の子なんだけど、家の近所に住んでてさ、前々から窓ガラスを割ったりして問題ばかり起こしてたらしいよ。片親だし、家庭環境がよくないんだ」
 細い銀縁フレームの眼鏡をかけた男が、したり顔でしゃべり終わると同時にキャベツで巻いたもも肉を口に放り込む。唇の端にタレがついていて、それが便器にこびりついた大便のように見えた。
「傷ついた中学生と教師のラブ・ロマンスだったりして」
 と隣の女子が歓声を上げながら頬を手で覆う。指先が肉の脂でテカテカと光っていた。
「なにがラブ・ロマスだよ。今頃どっかに隠れてやりまくってるだけだろ。ただの変態じゃなねえか」
「あんた、振られたばっかだからってなに悪態ついてるのよ」
 隣に座っていた男が乱暴にコップを置くと、中に入っていた水が飛んできて上着の裾を濡らされた。
 おしぼりでそれを拭こうとしたとき、初めて机の上が食べ散らかしで散乱していることに気づいた。まだ生のままの肉や野菜が至るところにこぼれている。よく見るとそれらは机の下の畳にも落ちていて、汚れた残飯に蠅が集っている。何人かはその残飯ごと蠅を尻ですりつぶし、そうとも気づかずに平気な顔で笑っていた。
 部屋の空気は虫の粘液のようにどろどろしている。立ちこもる煙にも人の熱気にも、いつの間にか吐き気を感じていた。
「あれ、さっきからなにも食ってないじゃん」
 隣にいた男が僕に対して不審そうに言った。食えよ、と菜箸で掴んだ肉を押しつけようとしてくる。
「いや、僕はいい。それより、ちょっと手洗いに行ってくるよ」
 そう断ってから座敷を出て、ついさっき通った入り口の扉へ向かって歩き出した。上着より先に身体の方が肉の臭いに耐えられなくなっている。吐きそうだった。
「トイレなら奥にあるぞ。そっちは逆だ。おい、どこに行くんだよ」
 後ろから呼ばれるのを無視して、僕はいつの間にか走り出していた。
 ネオンの光る夜の街を、当てどもなく歩く。通りの人々はみな一様にうつむいていた。影法師のようなその姿は、舗道の脇を通る車に強く照らされ、ヘッドライトが遠ざかるのと同時に今にも消えてしまいそうだった。自分の姿も、同じように頼りないのだろう。同窓会になど来るべきではなかったのだ、と今さらながらに思った。
 疲れを感じるまで歩き続けると、高架下のガードレールに腰かけた。高速に続く車道沿いの道を進んできたようで、気づくと人気のある場所からずいぶん離れていた。ネオンの光も人の賑わいも、ここまでは届かない。高架下の電灯は黄銅色でどこか不吉な感じのするし、舗道を少しでも外れれば深い雑木林が待っている。人がえり好んで落ち着こうとするような場所ではなかったから、仮に同窓生が追いかけてくるようなことがあってもここまでは来ないだろうと安心した。
 上着のポケットに手を入れて、ほっとため息をつく。そうすると電灯の灯りがもろに顔に当たり、少しまぶしくなった。とっさに閉じたまぶたの裏で色が滲んで、懐かしい夕陽のようになる。それはかつて放課後の教室で見た、あの夕暮れに似ていた。
 田崎に古本屋へ連れて行かれた数日後、僕は相変わらず一人で本を読んでいた。以前と変わったことと言えば、手にしている本が日本語から英語になったことと、心の隅でいつ田崎が来るだろうかと待つようになっていたことだった。
「早速読んでるな」
 この前のように、ページの上に影がさし、顔を上げると案の定田崎が立っていた。彼は橙の光に溶け込むような微笑を浮かべている。
「なんて書いてあるのか、さっぱりなんですけどね」
「それでもなんとか読めてるんだろ。最初はそんなものさ」
 栞を挟み、本を閉じてからまっすぐに田崎と向き合う。
「あの、この前ですけど、どうして僕を連れて行ったんですか?」
「単なる気まぐれだよ」
 気楽にそう言いながら、田崎は黒板に向かい落書きを始めた。人の顔のようなものを雑に描いていく。その背中へ言葉を投げかけた。
「嘘です。僕が友達も作らず一人でいるから、助けようとしたんでしょう?」
「別に一人でいるのが好きならそれでいいし、無理に友達を作る必要もない」
「じゃあ、どうして?」
「ただ、おまえが今みたいに教室に残って一人で読書をしている姿が、なんとなく助けを求めているみたいに見えたんだよ。そうしたら、声をかけないわけにもいかないだろ」
 田崎が肩を竦めながら教壇を降りると、黒板には「Help」と叫ぶ幼稚な男の子の絵が描かれていた。
「それは、教師としてですか」
「いや」
 彼は黒板の男の子に向かって、続けた。
「俺は俺として、困っている生徒がいたら助けるんだ。お、今のセリフちょっと格好良くなかったか」


 僕のいないどこかで、彼は今も困っている生徒を助けているのだろう。そう思う僕の目の前を、一台の車が通り過ぎていった。