いえばよかった日記

書評と創作のブログです。

明るい部屋 2/3


 和人の口振りが曖昧だったために、話題は自然と次に流れ、卒業を控えた弟の就職先が俎上に乗せられていた。この四月から弟は不動産管理を請け負う会社へ通うことになっていたが、下り坂と化しつつある不動産業に祖父の不安が転がり出し、資本金、業績、社員数といった細々とした質問がはじまった。祖父の心配は自分の身よりも孫の将来なのである。
 弟が助けを求める視線をこちらに送り出した頃になって、ようやくニコチンの臭いをまとった父が上着を脱ぎながら和室に入ってきた。空席にドシンと腰を落とし、はあと長く息をつき、冬は寒い、と当たり前のことを言い放った。
——庭から玄関までは迷わずに済みましたか。
 侮蔑になりかねない酔いまかせの冗談を叔父さんが軽快に飛ばすと、父は真剣に大丈夫でしたと答え、この距離なら道は確かだと言った。父の方向音痴は親族の中でも有名で、父方の祖父や父の兄にあたる伯父さんに至っては、父をあの方向音痴と呼ぶほどである。和人は伯父さんもなかなかのものだと思っているのだけれど、父に関しては折り紙つきで、それが初めて行く場所なら徒歩十分で済む距離でも車で一時間かかるといったありさまだった。そういえば昔、確かまだ僕が中学生になりたてだった頃、四国にある伯父さんの家まで車で向かったことがあったのだが、あのときも鳴海大橋を渡って目的地に近づいたところまではよかったのだが、目的地付近になって完全に道を見失った。そこは瓦屋根が時おり交じる他は関東とさほど変わらないありふれた住宅街だったが、父にとっては巨大な迷宮以外のなにものでもない。伯父の家には何年かに一度訪れる習慣があったが、このときは二年ぶりだったこともあり、頼みの綱の土地勘は時間に流されてしまっていた。
 路肩に車を停めた父は、携帯電話で伯父さんに電話をかけた。僕たち一家にとってはこの通話がアリアドネの糸だったわけだが、それは呆気なく切れることになる。住宅街にいて、右手に駐車場があって、目の前にどうやら工事中らしい家がある、父が見えるものを手当たり次第に挙げていくと、伯父さんは——どこだよそれ、とにべもない。——うちの近くにそんな場所はない、とまで言い切るので、地図をしつこいほど確かめて近くに来ていることを確信していた父とちょっとした口喧嘩になった。荒々しいものを嫌う父が喧嘩する姿が倦み疲れていた僕には新鮮だったが、陽も落ちていてこのままでは今夜は一家で車中泊かもしれないと心配していたところでもあったので、あたらしい父の顔を鑑賞している余裕はなかった。
——とりあえずそこを動くなよ。仕方ないからこれから探しにいってやるから。あと電話は切らないでくれよ。見つけるまで長くなりそうだからな。
 助手席の母がまだ長くなりそうだとため息を吐くと、息で微かに曇ったフロントガラスの向こうで、工事中の家の玄関が開いた。出てきたのは電話を耳に当てた伯父さんだった……
 我が家の笑い話といえば今では定番となっているエピソードである。久しぶりにそれを思い出した和人は、しかし笑うこともできず、半ば聞き流していた炬燵の談笑に意識を取り戻した。というのも、出し抜けに父が切り出した話題が次のようなものだったからである。
——最近、私は仕事が忙しいんですけど、こいつは暇してるから、免許でも取ってくれたら買い物の足役を交代してもらえるんだけどねえ、身体を考えたらそうもいかないから困ったもんですよ。
 父がこちらを指してそう言うものだから、祖父が驚いた顔をした。
——あれ、かずくん何か病気なの?
 IT系の会社で忙しくしていることになっているから、過労を心配したのであろう祖父は、すぐ右隣に座っているにも関わらず答えを聞くために身を乗り出した。
——いや、大丈夫だよ。病気じゃないから、そう言いながら炬燵の中で父の太い脛を蹴った。
——ブラック企業ってよく聞くじゃない。かずくんのところがそうなんじゃないかって心配なんだよ。
——ぜんぜんそんなことはないよ。今は閑散期で、有給が貯まってたから休んでいる日が多いだけ。病気なんかじゃないよ。
——もし時間があるなら、と叔父さんが割って入った。——名古屋まで遊びにおいでよ。最近は僕も仕事が落ち着いてて、家に一人でいることが多いんだ。アサヒは大学だし、リエも帰りが遅いうえに夜勤があるからね。
 看護師をしている叔母さんは滅多に休みが取れないらしい。和人が都合がついたら是非、と答えていると、
——それより本当に病気じゃないんだね、と祖父が話を戻した。
——本当に大丈夫。
——もう去年になるけど、大きな手術をするために一月も入院したんだけどね、病院ってやっぱり嫌なものだよ。リエさんには悪いけど、私はできるならもう行きたくないね。通院は仕方ないにしても入院は嫌だ。だからかずくんが大丈夫ならいいけど、本当に、身体には気をつけてください。
 うん、ありがとうと答えている横で、入院するような病気じゃないのはよかったよな、と父がまた嘴を挟む。幸い和人を挟んだ先にいる祖父の耳には届いていないようだったが、どういうつもりなのかと左を睨むと、しまったという顔にぶつかった。わざとではないらしいが、どうしても僕の病気を話題にしたいらしい。
——ねえ、寿司まだかなあ。お腹すいてきちゃったよ。
 アサヒがそう言うと、弟が聞いてこようか? と膝を立てる。いいよいいよ、そんなつもりじゃなかったんだからといとこが気を遣ったので、好機とばかりに和人が立つと、祖父に引き止められた。慌てなくても次期に来ますよ、と言うので、それをおしてまで台所に行くわけにはいかなくなった。どうやら父のつくった窮地からは簡単には脱せないようだ。がっちり鎖で繋がれているみたいだと和人は思った。四国の伯父の家から車で二時間程度の海辺の田舎町に父方の祖父が住んでいたが、あそこの庭にも鎖で繋がれた犬がいた。誰もその犬を家族だとかペットだとかいうふうには思っていず、野良犬だったのが勝手に庭に住みついたから世話をしているだけらしい。最低限の餌と水をやる他はつき合いというほどのものはなく、向こうでも人間どもに親しみや媚をみせるようなことはない。そこにはペットと飼い主といったわかりやすい関係はなく、ただ野性的な生き物同士が共存しているだけなのだった。和人にはそれが新鮮だった。洗練された母方の実家とはかけ離れた世界ではあるが、どこかしら心和む世界でもある。少なくともあの場所でなら「平等に値しない」などといった理由で事件が起きることはないだろう。もちろん四国にも殺人やそれに類することはあり、この心理が植民地にエキゾチズムを抱くような暴力的な感慨に過ぎないことはわかっているが、都心の暴力を知っている身には周縁の世界が魅力的に思えてならないのだった。父方の祖父はもう何年も前に亡くなっている。
 ふと右隣を盗み見る。祖父は「去年の正月もお寿司だったね」と一年前をアサヒが話題にしているのを穏やかに聞いていた。その姿にとつぜん愛おしさのようなものが湧いてくるのを感じ、すべて言ってしまおうかという衝動に襲われた。病気のことも休職している現状も、洗いざらい吐いてしまおう。このまま秘密を抱えていたらきっと後悔するのだから。
 和人が腹の中をどう切り出そうか思案していると、
——そうだ、今のうちに写真を撮ろう。
 と祖父が立ちあがった。

 



 キッチンから三人を無理に呼び、八人を詰め込んだギュウギュウの和室を後に、祖父はカメラを取ってくると言い残し、廊下の板を軋ませた。ギシギシ鳴る足音を耳にすると、残された八人は仕方ないとあきらめ、アサヒと叔父が並んでいた辺りに整列し、全員で二列になって祖父の帰りに備えた。またはじまったと祖母から洩れる。それを皮切りに、好きにさせてあげましょうと叔父が言い、母が化粧を直しておけばよかったと嘆き、父がポケットを弄ってライターがないと騒ぎはじめた。和人は肩透かしをくらった気分で棒立ちになった。祖父もいないし、このざわざわした空気の中、話があるんだなどと切り出すのは、とてもじゃないが僕にできることではなかった。
 家族写真を撮ることは、毎年の祖父の使命になっているようで、ふだん寛容な祖父であっても、このときばかりは誰にもカメラにふれさせない。昔の人はカメラが命を奪うと信じていたというが、黎明期からカメラに接してきたであろう祖父にはデジカメの操作すらお手の物で、一家の中で一番のカメラマンだったから、シャッターを人に任せないのは賢明でもあった。命を奪うどころか逆に生きいきしている。
 三脚を脇に抱えて戻ってきた祖父は、急ごしらえの整列をフレームに収まるように調整して、シャッターのタイマーを設定し、和室の入り口に拵えた撮影所から、小走りに前列の端に加わった。フラッシュが三度焚かれ、その度に祖父はカメラと列とを行き来した。振り子のように滑らかな動きはとても九十の老人には見えない。急な撮影というつかの間の緊張から解放された面々が計らずも上気するのを他所に、あとはよろしく、と言い残して、健脚を見せながら祖父は自室に引きあげた。これから写真を現像するつもりなのである。
 ほどなくして、ようやくお待ちかねの桶が届いた。ダイニングテーブルに桶を二つ、人数分の寿司を置くと、皿と箸、醤油、お吸物、湯呑みといった細々したものを祖母と母が並べはじめ、叔母さんが祖父を呼びに廊下へ出る。女性だけが立ち働いていることに違和感を抱いたが、こうして座っている僕も同罪だ、と和室を出てテーブルに着きながら和人は思った。もっとも、働いている三人も身体が勝手に動いているといった調子で、自分がやって当然だという顔をしていて、誰も不平を感じていないようだった。風習に呑み込まれているのである。僕の隣に座った父も弟も無言のまま同じ渦に呑み込まれていた。
 食事の場でテレビを点けないのが祖父の家訓で、幼い頃は全員がそれを守ったものだったが、いつの頃からかそれがなし崩しになっていた。誰かがリモコンを点け、なんとなくニュースをやっていた局にチャンネルが合い、九人は画面を観るともなしにみながら桶をつついた。その間も和室のつづきのような歓談が起きていたが、和人は全身を舌にして寿司の味に集中しようとした。父か誰かがまた自分を窮地に陥れるかもしれないと身構えたからである。僕はいつもこうだ、と和人はサーモンに醤油をつけながら思った。人の輪からいつも弾き出されてしまう。みんなが楽しくお喋りしているときに一人だけ中に入っていけない。和人の意識にふと、こんなふうだからパニック障害になったのかもしれないという負い目のような考えが過ぎった。僕は自分のせいで病気になったのだろうか? 努力不足だから、価値がないから、闘いに負けたから病気になったのか。そうではない。闘いを強いる東京という獣に噛みつかれただけなのだ。価値がないというなら東京にこそ価値がない。あんな場所は焼け野原にしてしまえ! 誰も殺さず、誰も傷つけず、血の通わぬ獣だけを焼き尽くしてしまえばいい。
 和人は無言のまま寿司に集中していると、彼の意識から食事を取りあげる声が割り込んできた。テレビが相模原事件公判の模様に関連して、介護ヘルパーのきびしい経済状況を紹介し出したからである。
 番組を受けて叔父が言った。
——良くも悪くも勝者と敗者がはっきりと分かれる社会に生きているのだから、社会を変えられない以上、勝者を目指すしかないんじゃないかと思うんです。そう言っても、何も億万長者になろうなんて野心を抱いているわけではなくて、中流でいいから人並みに暮らせる身分がほしいだけなんです。アサヒにもそれを望んでいる。息子を大学にやれるだけの仕事が誰しも必要なんです。
——働けなくなったら? と叔母さんが訊いた。——私が仕事で接している人の中には、足の怪我の後遺症が残って建設業に戻れなくなった人とか、喉頭癌で声帯を切除して、営業職を辞めざるを得なかった人とかがいっぱいいるよ。そういう人たちはどうすればいいの?
——リエはどうすればいいと思うの?
——さあ、私はそうじゃないから、なんとも言えないけど……
——僕だって一緒だよ。結局、大多数の人は健康で働いていて、自分の力で生活してるんだから、そういう人たちにも自己責任でがんばってもらわないと。
——私の田舎では、と父が口を挟んだ。——働けなくなると周りみんながその人を助けるようになっていましたよ。二人の話を聞いていて思い出したんだけど、子供の頃に源さんという人がいてね、源蔵なのか源二郎なのか本名は知らないけど、とにかくみんなが源さん源さんって呼ぶ五十がらみのおじさんがいたんです。源さんはちょっと頭が弱くて、いい大人なのに働きもせずに地元の子どもと遊んでばかりいた。たぶん自閉症か何かだったと思うんだけど、身寄りのない源さんを誰も医者に見せようとはしなかった。ちょっと頭の弱い変わった人といった調子で受け容れられていたんですよ。当時は私も子どもでしたけど、公園や川辺で会えばふつうに一緒に遊んでいました。中には源さんに石を投げたり釣ったザリガニを生で食べさせたり、そういうことをしていじめるやつもいたけど、大半の子は仲良くしていたんです。今のご時世じゃあり得ないだろうけど、あの頃は色々と寛容だった。
——確かに今だと考えられないですねえ。アサヒがそういう人と遊んでいたら僕は止めていたと思いますよ。
 父はそうですねえと同意してこの話を切り上げてしまった。父の話は何かの核心を突いていたように思えたのだが、そっと覗いた横顔は簡単に世間話に流されてしまう所帯持ちの男のそれでしかなく、和人は落胆した。一方で、その横顔が仕事明けに文句ひとつ言わずに車を出して、病気の彼が電車に乗らなくて済むようにしてくれた半年ほど前の思い出も蘇り、失望と記憶との間でパンのようにちぎられる思いがした。
 人はパンのみにて生きるにあらずと言うが、この場合はパンではないものが僕を苦しめるんだ、と和人は考えた。パンのみにて生き、人の命をパンに換算する発想が相模原の犯人を産んだのなら、パンではないもののみにて生きようと願った結果がこの苦しみなのではないか。いや、キリスト教徒でもない日本人がこんな抹香臭いことを考えても仕方ない。大事なのは思想と記憶の間を出刃庖丁で分断させられたようなこの苦しみにきちんと向き合うことであるはずだ。
 障害者が交通事故で亡くなった裁判で、賠償金を算出する際に、生きていたらその人が生涯で稼いだであろう金額を概算したところ0円という結果が出たことがあるらしい。障害者には価値がないという論法を司法制度自体が有しているわけだ。つまり、犯人を裁く司法制度が犯人の思想に同調してしまっているのである。というより犯人の思想そのものが司法制度から産まれたものなのではないだろうか。人の命を金額に交換するという発想は資本主義のもので、資本主義社会に生きるとはこういう思想を受け容れることであり、どれだけ犯人を弾糾しようとも、弾糾したその言葉がやまびこになって反響し、社会的価値に己れを換算する思想として自分自身を貫いてくるのである。そういう言語の中に暮らしている僕たちがどれだけ苛烈に犯人を責めようと、責めればれば責めるほど、責めるのに使ったその言葉によって犯人に同調してしまうのだ。

 

明るい部屋 1/3


 実家を出てひとり暮らしをはじめてからしばらく経つが、我を失った寝起きの頭が、かつて部屋にあった子供用の二段ベッドにいると錯覚し、弟の気配が下にないのをあやしむときがある。そういう朝にはホームシックとまではいかないが、感傷的な気持ちで胸がいっぱいになって、赤子の頃に母のおっぱいをあてがわれたような満足を覚え、母が好きだった荒井由実をかけてみたり、音楽のやさしさに誘われて微睡みに引き戻されたり、つかの間に覚醒を取り戻し垂れていた頭を起こしたりする。こういう様を船を漕ぐというが、眠りと目覚めで振り子を描く当人に意識がないわけでもないものらしく、船を漕ぎつつ黒い海から秘密を運ぶ幻に会い、ゆめ特有の真剣さから、荒い波に呑まれないよう、どこかへと舳先を進め、仕事をやりおおせようと奮起する。
 船乗りは平らな海に暗号の目印を読み取ることで、向かうべき方角を探りあてるが、常人にはそれが不思議で、彼が海とのあいだで意味をやりとりしているように見える。自分にそんな力があると驚くのも忘れて、彼は船に秘密を乗せて一心に運ぶ。潮の匂いを吸い、海を味わい、水平線を見渡して。彼の秘密は自分の名前である。筑井和人という自分の名前。秘密はそれだった。巡回船の監視を潜り、気性の荒い海原をあやし、額の汗を拭う他は夢中で、秘密を守っているのである。それが彼の闘いだった。秘められた闘いだった。ところがいつの間にか、彼は小さな子供になっていて、闘いとはほど遠く、祖父の寝室に布団を敷いて横になっていた。お父さんお母さんに用事があって預けられたんだ、と和人は思った。お母さんの方のじいじとばあばのお家に泊まらなくちゃいけないんだって。用事っていうのはね、三つ年の小さな弟のシュッサンだった。シュッサンて、お母さんのお腹から生まれてくることなんだって。人間がお腹から出てくるなんて、変なの! じいじの部屋では梁に掛かった七福神のお面が和人を見下ろしていた。右手の梁の下で窓が月に明らみ、お面に微かな陰影をつくり、不気味な表情を浮かべさせている。そのとき七福神は鬼だった。
 怯えを孕んだ連想からだろうか、彼の意識は枕の先の障子へと向けられていた。障子の奥は書斎になっていて、祖父の机と資料や本が棚に並んでいる。そのどこかに出刃包丁が隠れていて、ぼくが寝ているあいだに誰かがそれを取りにくる。ぼくは喘息で身体が弱いから、間引きするためにここへ来るんだろう。弟の方ができる子だから、間引かれて当然なんだろう。心失者には育てる価値がないそうだ。ほら、足音が聴こえてくる。きっと鬼の仲間だ。廊下の板を鳴らして、左手の襖を開けて、ここへやって来るんだろう。いや、もうすぐそこまで来ているんだろうか。足音は徐々に徐々に近づき、間もなく部屋の襖を開いて、暗闇を背後に従えた鬼の面がぬうっと現れる……
 たわいもない夢にようやく別れを告げた和人は、眠りに引きずられた目を辺りに彷徨わせ、布団で寝ていた割にはずいぶん天井が近いと思ったり、茶色いはずの畳がどうも白っぽいなと感じたり、簡素な祖父の部屋にしては物が多すぎると訝しんだりして、親しんだ部屋にいる自分を見出すまで愉快な混乱を味わった。つかの間とはいえ、この瞬間の彼は子供でも成人でもなく、ベッドとフローリングの我が家にいながら同時に祖父の元にいた。事物AはAでしかないという確固たる現実にヒビを入れていたのである。こういう体験の後では現在という揺るぎない概念はあやしくなって、眠る前と起きた後でも世界が地続きであり、身を起こした途端に別の人間になったり、中世や原始の時代を生きていたり、過去のどこかで訪れた民家や宿が立ち現れてくるようなことはないと確信できなくなる。そういえば、プルーストの小説にも似たようなことが書いてあった。事物の不変性は、われわれが事物の不変性へ向けた根拠のない信頼によって成り立っているのではないだろうかというようなことが。何かの拍子にそれを信じられなくなり、ついに信頼を取り戻せないようなことがあれば、世界はアメーバーのように掴みどころのない変幻自在な姿を現すかもしれない。
 起きあがった彼は親しんだ部屋に自分がいることをまだどこか納得できない気分のまま、日常の家事に取り組んだ。昨晩の洗い物を片づけ、溜まった洗濯物を回し、掃除機をかけるかどうか迷いながら寝起きの混乱を振り返り、あの夢がなんだったのかとフロイトの真似事をはじめる。どうにも気がかりな夢だったのである。あの夢は錨のように僕を夜の意識へ留めようとする。掃除機を断念した彼は紅茶を淹れ、焼いたパンをカップに浸しながら考えた。今朝の夢は今年の正月に祖父母の家で行われた親戚の集まりを元にしたもので、祖父母のところへ向かう前に実家に帰っていた僕は、今みたいに紅茶を飲みながら本を読んでいた。居間の炬燵に寝転び、長大さで知られる小説の一巻目を楽しんでいると、出かける準備をしなさいという母親の声に読書を遮ぎられた。
——おじいちゃんのところに行くんだから、そんなだらしない格好じゃダメよ。早く着替えてきて。
 しぶしぶ本を置いて立ちあがり、クローゼットのある二階へと階段を登った。踊り場でくの字に曲がり、パジャマを脱ぎながら一年ぶりに会う祖父のことを考える。九十を迎えた祖父は去年のあいだに大きな手術と親しい友人の死とをいっぺんに経験していて、気力も体力も衰えをみせているらしい。そういえば、踊り場の小窓にかかっていたレースのカーテン、花柄の上品なあれは祖父から贈られたものだと聞いている。カーテンに濾過された夕陽が木漏れ日のような模様を持ち、何かを求めて踊り場の床を彷徨っていた。光はゆらゆらと儚げに泳ぎ、右に迷っては左へ傾き、僕が通り過ぎても小波ひとつ立てることなく漂いつづけた。着替えを済ませて再び踊り場に差しかかると、木漏れ日はついに何かを見つけたのか、そっと姿を消していた。暮れになって日が沈んだのである。
 一階では夕飯の約束に間に合わくなるという母の声を号令に、父と弟がバタバタしはじめていた。父はエンジンの調子が悪い車を調教するために先に出て、せっかちな弟がそれにつづく。先ほどまでだらだらしていたのが嘘のようである。残った和人と母が荷物をまとめて玄関に差しかかると、靴を履いているときに母に呼び止められた。
——病気のこと、おじいちゃんに言わないでね。友達が亡くなったってナーバスになってるのに、孫がパニック障害で休職してるなんて聞いたら、おじいちゃん卒倒しかねないわよ。
——わかってるよ、と彼は答え、母と共に車へ乗り込んだ。

 



 免許を持たない和人にとっては久しぶりの乗り物だった。四角い鉄の塊に閉じ込められて過ごす到着までの四十分を耐えられるかどうか、彼には確証がなかったが、幸いにも父の運転に身を委ねることは身構えていたほどの苦痛にはならなかった。むしろそのとき彼が感じていたのは懐かしさだった。家族のお喋りを離れ、発作を起こさないようひとりでじっとしていた彼は、夢に見た幼かった頃にも同じような姿勢で窓にもたれ、ショッピングセンターの宇宙船のような輝きやネオンの煌めき、テールランプの赤い尾を長く伸ばしていく別車線の残像たち、等間隔に並んだ街灯の明かりが順に背後へ飛んでいく様を熱心に捉えては、その光景の中に梟や鷹の翼を広げさせてみたり、大きな竜の背中に乗って全身に風を受けることを幻視したり、その希少な生き物を世間に隠しながら彼との友情を育んでいく己れを自分自身に物語ったりして過ごしたものだった。あの頃の僕にとって車に乗るとはワクワクした冒険の予感に飛び込むことだった。ところがそんな記憶と重なるようにして、現在の僕の瞼には大学を出た後に入った会社での仄暗い場面がこびりついている。たとえば深夜の一時に椅子を蹴られたときの衝撃や、上司の罵声や、帰りの電車で肩をぶつけてきたサラリーマンと喧嘩したこと、相手も僕も青白い疲れた顔をしていて、頬を二度も殴られたにも関わらず最後には相手への同情だけが残ったこと、その一件以来プラットホームに立つと激しい動悸に襲われるようになり、奈落を覗いて身が竦むときのような感覚が治まらなくなったこと。こういう諸々の苦い味が喜色に染まった過去を浮かべるあいだも舌の上に居坐るせいで、とてもではないが家族に交じって思い出話に興じる余裕はなかった。
 今の和人には、無表情で不気味な人混みが虫の群生めいた稼働をくり広げる駅は巨大な暴力だった。血管のように路線を張り巡らせた東京全体はひとつの獰猛な獣だった。心療内科に通うようになって悟ったのだが、彼のような症状に苦しむ患者はそれこそ虫の数ほどおり、彼らの存在そのものが行き過ぎた資本主義の加速に軋む人間の悲鳴のように聞こえてならなかった。もちろんこの社会を構成している大多数は健康で、世のスピードについていける者たちであり、そういう彼らは日本の首都に福を見るだろう。一方で同じ場所を鬼と見る者もありふれるほどおり、パニック障害の発症はたまたま後者の日陰に入ってしまったというだけのことなのだが、そのおかけで敬愛する祖父に余計な隠し事をせねばならないのがやりきれなかった。できれば祖父には嘘をつきたくなかったのである。
 祖父母の家には叔父一家が先に来ていた。新年の挨拶もそこそこに、叔母さんと祖母が立っていた台所に母が加わり、九人分の夕飯を用意しはじめる。もたもたしていた我が家の到着は夕方の五時を過ぎていて、六時過ぎに出前を頼んだという寿司までに時間がなかったのである。そんな様子を他所に叔父と従兄弟のアサヒと弟は和室に入って炬燵を囲み、父はタバコを持って外に出ていた。父は家の中で吸おうとして母に睨まれ、肩身が狭いと祖母に愚痴りながらたった今通り過ぎてきたばかりの玄関に向かったのだが、妻の親とそんなに気安く話せる立場のどこに肩身の狭さがあるのかと、喘息のある和人は思う。いずれにせよ、結果的には女性だけが台所で働いている。誰もそのことに異議を立てない違和感から手伝いに行こうとすると、背中から祖父に呼び止められた。
——かずくんは最近、何してるの?
 思わず祖父の顔を見た。知っているのだろうか? あくまで穏やかで紳士然とした祖父からは何も窺い知ることはできず、細い顔から真意を汲もうとするのは壁のシワからものの輪郭を読み取ろうとするようなものだった。微かな模様をその気になって見つめれば、何でも描くことができてしまう。
 彼は辛うじて語学の勉強をしていると答えることができた。幸い、それは嘘ではなかった。復職が叶わない場合に備えて資格を取ろうとしていたのだ。祖父には状況を省いてそのことを伝えた。——何かの役に立つかもしれないし、本が好きだから原文を読めるようになりたいんだ、と。
——そう、それはいいね。私もね、若い頃はずいぶん勉強したよ。銃後はやっぱりアメリカが強かったし、技術の仕事に就いていたから英語ができないと話にならなかったんだ。それで、かずくんからしたら曽祖父にあたる私の父に頼んで、参考書をどっさり買ってもらってね。当時はそういう本は高かったけど、高い本を買う気前の良さもみんな持っていたんだね。今は異口同音に節約節約だけど。
 饒舌に語る言葉で背を押して、祖父は台所に向かおうとしていた和人をリビングに引き戻し、そのまま和室の集まりに引き込んだ。
 和室では長方形の炬燵を囲んで三人が座っており、お二人も一緒に飲みますかと叔父さんの歓迎に迎えられた新参者は、炬燵の手前に並んで腰を下ろした。彼から見て右手の辺に弟、対面の辺に叔父さんとアサヒがいる。本来なら左手の辺にいるべきだった父は今ごろ庭で煙をふかしているのだろうと思うと、そのことがなぜかしら恨めしかった。
——何の話をしてたの?
 祖父が三人に問うと、一座の中で一人だけお猪口を手元に置いていた叔父さんが、ほのかに血色のよくなった頬に意味深な笑のさざなみを走らせ、その波紋のようにアサヒと弟の顔に気まずげな苦笑いが広がった。
——大した話はしてません。男ばかりの集まりですからね。お父さんがいるならニュースの話題でもしていた方がいいですよ。東名高速はもう帰省ラッシュがはじまっているそうじゃないですか。無事に名古屋に帰れるか不安になっていたところですけど、お父さんは何か気になるニュースはありませんか?
——気になるニュースか。新聞は毎日欠かさず読んでいるんだけど、それでも私の歳になるとどうにも世間に疎くなるからねえ、どうしてそんなことが起こるのかまるでわからなくなる。たとえばほら、相模原の事件でようやく裁判が進んだっていうけど、私は動機に納得がいかないよ。
 祖父が言っているのは、相模原にある障害者福祉施設で、職員だった男が深夜に侵入し、深く寝入っている入居者を次々と殺害した事件のことだった。大和市でひとり暮らしをしている和人にとっては目と鼻の先の出来事で、酸鼻を極めた血腥さが部屋まで届いてきそうに思えた。
——僕も観ましたよ。「障がい者には生産性がないから」というのが動機だとか言ってましたね。
——そう言っていたね。でも、生産性というのが私にはわからない。大戦前は生産性なんて誰も考えなかった。生産性というのは私には戦中のスローガンみたいに聞こえるよ。誰ひとり怠ることなくひとつの目的に向かおうというのは、それが誤った目的のためならとんでもないものになる。でも一部とはいえ、昔は老人の知恵や経験が間違いへのブレーキになった。大戦に勝つためにも彼らの言葉は必要だったけれど、その言葉の中に世の中の流れを止めようと抗うものもあったんだ。老人は武器になったんだよ。今じゃあたらしい技術や文化が盛んに生まれて、ついていけない年寄りには立場がない。生産性がないから標的にされるなら、私みたいなおじいちゃんも殺されなきゃならんね。
——介護の現場はそれこそ戦場めいているそうじゃないですか。ストレスと疲労のあまり頭のネジがどうにかなるっていうことはあり得ないわけじゃないんでしょう。そういう意味では犯人にも同情すべき点があるのかもしれないと僕は思いますよ。もちろん殺人を肯定するわけじゃないですけど。
 つかの間、和室が静かになった。気を取り直すように叔父さんは自らの言葉を継いで、
——ともかく、僕は少なくとも子供たちには健康でいてほしいですよ。生産性だろうとなんだろうと、ないよりはあった方がいいに決まっているし、元気で働けるのはいいことですからね。これは想像ですけど、タナトスって言うんでしたっけ、嫉妬とか悪感情のことをそんなふうに呼んだと思うんですけど、犯人はそれに囚われていたんですよ。ふつうに健全に育って、誰かと出会い、結婚して子どもを産んでというのが、時代遅れだと言われてもやっぱり真っ当な道だと思うんです。犯人は過酷な環境から周囲を恨むようになって、タナトスをどんどん膨らませて歪んだ思想を出産してしまったんじゃないでしょうか。
 つづけて叔父さんは薬学部に通う隣の息子に顔を向け、
——それに、大学の学費は高いんだ。おまけにおまえの場合は卒業まで六年かかる。下手したら四年制の倍は必要だ。薬剤師になろうって奴が不健康じゃ困る。アサヒには頑張ってもらわないと、と言った。
——わかってるよ。卒業してちゃんと稼いで、車でも家でも買ってあけるから。
——別にそんなものいらないさ。ただちゃんとやってもらいたいだけだよ。
 親子の会話を横に和人の脳裡に浮かんでいたのは、「生産性」というなら僕も祖父と一緒に殺される側の人間に入っているということだった。言葉の誤用を含めてその点を叔父さんに追及してみたい気持ちもあったが、母の口止めを思い出して黙っていた。
 すると、内心を見透かしていたようなタイミングで、
——かずくんはどう思うの?
 と、祖父がまっすぐな目をこちらに向けてきた。彼はぎくりとした。秘密を脅かされる不安が風船のように膨らんでいき、破裂する瞬間を思って余計に大きくなり、脇の下に気持ちの悪い汗が滲んできた。この場で発作を起こしたらどうなるだろう。事件について僕にも意見がないわけではなかった(それどころかあの事件には考えていることがあった)が、自分を守るためにも曖昧に口をもごもごさせる以上のことはできなかった。
 しかしもし、仮に祖父の意図が宙に書かれて一字一句あきらかになり、彼の不安が一つ残らず霧のように晴れたとしても、あの場で歓談の空気を破る勇気が彼にあったかは疑問である。本当にあの場で口を開き、「どう思う」かを詳らかにするなら、彼は次のように演説しなければならなかったのだから。

 

 



——犯人のいう「生産性」は、言い換えるとこの社会にとって被害を受けた人たちが平等に値するかどうかという問題だと思う。マルクスに関連した本に書いてあったんだけど、「平等」という概念は資本主義が成立したときに生まれたものらしいんだ。それまでは労働といえばもっぱら奴隷や身分の低い人たちのもので、革命が起きて名目上は階級制度が平らに均されて、誰もが平等ということになった。でもこの見方はヒューマニズムが根づいた今のもので、階級制度の崩壊で本当に生まれたのは、資本主義にとって労働力としてなら奴隷も貴族もその価値は等しいという、そういう「平等」なんだ。そうしてこの言葉は、土に隠れた根の部分に巨大な暴力を孕みながら、今や堂々たる大木に育った。空を覆うばかりに広がり、人々は枝を見あげるばかりで足元に何が埋まっているのか省みようとしない。人はみな平等なのだと信じて疑わない。でも、「平等」というのは労働力として人は平等だという意味で、同じだけの生産性を有していることが「平等」の条件なんだよ。だから生産性のない者は「平等」に値しないという発想が出てくる。たとえ直接手を汚さなくても、資本主義社会に生きる僕たちは常にこの暴力をふるっている。たとえばホームレスや病人や障害者の人たちに、自覚的にせよ無自覚にせよ見下した視線を送る瞬間に。こう言ったからといって余裕ぶって他人のことを突いているわけじゃなくて、僕自身も「平等」の庇護下で育ち、何の疑問もなく生きてきた一人だ。人身事故で電車が止まって、もはや労働力ではあり得ない身投げ人の命より自分の不便をとって苛立ったり、車椅子に道を塞がれたり、昼間から酒を手にしているような人を見たりしたとき、自然と湧き起こる感情がこの社会の「平等」なんだ。
 僕は「平等」の名のもとにふるわれている暴力が顕在化したものが相模原の事件だと思う。あの事件は異常な男がひとりで起こしたんじゃない、資本主義に対する僕たちの無自覚があの男の手を血で染めさせたんだよ。あの男自身や僕たちと同じように、殺された一人ひとりにも家族がいたことを、僕たちの無自覚があの男から見えなくさせたんだ。でも、こうやってそのことを指摘する言葉も資本主義の産物で、言葉を費やせば費やすほど、あの男を盲目にしていく。こういう状態に対して絶望して、だから黙ればいいという結論に傾きがちだけど、人は表現することを放棄したときに最悪の暴力に手を出すものなんだ。あの男が自分の思想を公言することも確かに暴力だけど、口の暴力を放棄したからこそ相模原の事件は起きた。僕たちが言葉を諦めてしまえばまた同じことが起きるし、僕たちの中の誰かがあの男になるかもしれない。たとえ「平等」という言葉そのものが暴力だったとしても、おそれおののきながら自分のその言葉が本当の平等に達することを祈るしかないんだ。言葉という最低限の暴力を放棄したときに最悪の暴力が現れるんだから。

怖い話 遠野遥『改良』について

  一般に、子供は大人よりはるかに強い視力を持っている。電子機器の発展が進み全体として近視の傾向にある現代日本であっても事情は同じで、見えないことに鈍感になってしまった大人をよそに子供たちはものをよく見ている。だからこそ、私たちには何でもない昏がりの死角が、ふだん見え過ぎるほど見える目を持った子供たちには怖ろしいのである。得体の知れない黒い影が闇の中を横ぎりはしないかと不安になるからだ。そしてこの作品を読めるかどうかは、子供を保ったまま成人し、「黒い影」を視認してしまうほどの視力を持つ池田つくねの目に自分自身を晒せるかという一点にかかっている。作中で唯一本名が明記されていることからも察せられるが、今作で最も重要なのは「ブス」を自認するこの一人の女性なのである。

 「上の前歯がいくらなんでも前に出すぎている」、「目は小さい」、「鼻は下向きの矢印のようなかたちをしていて気持ち悪い」、「輪郭もなんだかいびつ」と、語り手がつくねの容貌に向ける批評は散々だ。つくね自身が「ブス」を自認しているとはいえ、容赦がない。彼女にメイクを努力する意思のないことが語り手を辛辣にさせているのかもしれない。というのも、彼は自分に似合うものを求めて数種類のウィッグを試し、理想通りのスカートを通販で買い求め、失敗をくり返しながらも思い通りに顔を修整するメイクの技術を身につけていた。美に関する限り彼の探究には底がない。女であるにも限らずうつくしくなることを放棄したつくねが、そういう彼には怠惰に見えていても不思議はないだろう。

 ところで、こう書いて彼が身体的には男性であること、精神的にも自分を女性だと認識しているわけではないことをわざわざことわっておかなければいけないと感じる私は、それだけ異性愛規範をはじめとした社会的イメージに囚われている。女性のようにうつくしくふるまいたいと願う彼を標準から外れた存在、特異な者、自分とは違う人だと当たり前のように判断するからこそ説明が必要になると思うのだが、そう判断したときに、では自分と彼とでは具体的に何がどう違うのか、自分自身の性的(あるいは美的)感覚と彼のそれとはどう異なるのか、そういう相手との対比において己れを照射する労を怠るなら、どうふるまったところで彼を形容する言葉は暴力にしかならない。社会的イメージに彼を投げ込んで済ませ、自分は楽をするだけになってしまうのだ。そのことに無自覚なまま浅はかな理解を示して、簡単に彼の在り方を飲み込んでしまいたくない。作中、地の文において語り手である彼はくり返し強い憤りを表明するが、その怒りの対象こそ、自省から逃げて社会的イメージにおいて「理解」を示す私たちの当たり前の判断なのだ。

 一方でこういう無自覚な判断は得てして生理的な感覚と結びついており、たとえ自覚できたとしても無効にすることは難しい。たとえば私たちがバヤシコに向ける目がそうだ。被害者である語り手の視点で見るからバヤシコのふるまいは醜く浅はかに映るが、彼が憤っているのはバヤシコからフェラチオを強要され性的に暴行されたからではなく、自省を避けるために社会的イメージを強要してきたそのことに対してなのである。ここからもう一歩すすんで考えると、もし私たちが背景を想像しようとすることもなくバヤシコを「レイプ犯」として非難するなら、私たちもまた社会的イメージを押しつけていることになり、語り手の怒りを免れない。求められているのは過剰な性への関心に突き動かされるバヤシコを理解することだが、その理解は難しく、生理的な抵抗すら覚える。異物が入ろうとすることに咽喉がつかえるのだ。この難しさは類比的に語り手である彼を理解する難しさでもあるだろう。

 

 単行本の帯には「物議を醸すニヒリズムの極北」という宣伝文がある。こういう文はプロモーションのために大袈裟になり過ぎるきらいがあるものだが、それでも地の文の語りに対して私たちもそう遠くない印象を抱かせられるのは事実だ。彼は自分自身を生きられていないように見える。アルベール・カミュの『異邦人』を思わせる、徹底して自分を突き放した視点がそのような印象をもたらしているのだろう。そういう彼が己れをうつくしく改良していく姿は、何か深い混乱から必死に目を逸らそうとしているようにも映る。どうやら彼は深い苦しみを抱えているようだ。そこまではわかる。そこまではわかるのだが、しかし私の視力ではそれ以上に彼を見透すことができない。彼の混乱や苦しみが何によってもたらされているのかがわからないのだ。上述の通り、彼を理解するのは難しい。ある断定を下した途端に彼の怒りの対象に堕してしまう可能性がついて回るからだ。彼に対しては、口で何かを断定するのではなく、ただ見抜く必要がある。中学からの同級生で、今は同じアルバイトをしている池田つくねは作中でまさにそのように彼と接した。そんな彼女の目に彼の姿がどう映ったのか、それをとっかかりにしてみよう。

 つくねと語り手は、ある飲食店チェーンのコールセンターでアルバイトをしている。客からの苦情や問い合わせに電話で対応する仕事だ。あるとき、つくねが対応した男がくり返し電話をかけてくるようになり、住んでいる場所や彼氏の有無など、個人的な質問を投げかけてきた。男の行動はエスカレートし、職場を調べた上に仕事が終わる頃を見計らってつくねの顔を見に行くと言い出す。警察を信用できず、上司の助けも得られなかったつくねは仕事明けに語り手をファミレスに誘った。つくねは男の影に怯え、誰かを必要としていた。短いスカートを穿いた彼女が一人暮らしをしていることに思い至った彼は、「今日、おまえんちに行ってもいいか」と切りだす。明確に下心を潜ませた提案だ。

 この場面でまず注意したいのは、語り手がつくねと視線を交わすことを避ける点だ。思い返してみれば作中で最初につくねが登場した場面でも、彼女と目が合った途端に彼は下を向いていた(単行本29頁)。それについて彼は「美しくないものを見ていても仕方ないから」と理由めいたものを口走るが、真相は別にあるだろう。確かにつくねの顔はうつくしくない。しかしだからと言って、ファミレスで向かい合った女性に対してこれから部屋に行く口実を捲し立てる段で、顔を直視することに抵抗を感じるのは不自然ではないだろうか。しかも、彼はわざわざつくねの視線を避けて注文したハンバーグに語りかけるようにして喋るのである(単行本53頁)。

 もう一点気になるのは、部屋へ行く口実を話す彼の科白に「めちゃめちゃ」というワードが出てくる点だ。科白の中の文脈では、ボディ・ガードを買って出る代わりにつくねが大量に所有している漫画を見せてもらうということを言う際に、中学の頃を懐古しつつ「お前、めちゃめちゃ漫画持ってたもんなあ」と言うのだが(単行本54頁)、この「めちゃめちゃ」というのは冒頭のエピソードにおいて、暴行の直前にバヤシコが口にした科白にも出てくるのである(単行本11頁)。その場面でバヤシコは語り手のことを性同一性障害だとき決めつけた上で、「隠さなくても大丈夫だよ。オレ、変な目で見たりしないし。たぶんメチャメチャ理解とかあると思うし」とおよそ理解とはかけ離れた言葉を投げてくる。さらにこの科白に注意すると、次の点がわかる。語り手は地の文では自分のことを「私」というが科白の上では「おれ」を一人称にしており、「めちゃめちゃ」「おれ」という共通する言葉のみが、バヤシコの科白ではきれいに反転して「オレ」「メチャメチャ」と片仮名で表記されている。ここに作者の意図があるのかどうかはわからないが、注意深い読者には、あたかもバヤシコが語り手と表裏の関係にある分身であるかのように思えるはずだ。暴行の際にバヤシコが見せた姿とつくねを前にした語り手の姿が重なるのである。そのため、下心を持った語り手が部屋に行った後で明確に拒否されていたら、彼はかつてバヤシコにそうされたようにつくねを暴行していたのではないかという可能性を邪推してしまう。もちろん事はそのようには運ばなかった。しかし、それは語り手がバヤシコと比べて善良だったからではなく、つくねが語った「怖い話」のためである。

 

 つくねの容貌を改めて観察した語り手は、「つくねは美しくないことによって、人生のあらゆる局面で、死ぬまでずっと損をし続けるのだと思った」という感慨を抱くのだが(単行本55頁)、つくねの「怖い話」を聞けば、語り手が改めて観察するまでもなく、彼女は「ブス」であることの意味をずっと前から自覚していたのがわかる。それも窓の外の通行人を眺めるような余裕ある態度でではなく、内面的危機が身体の外に暗さとなって滲み出るような、血眼の姿勢でそれと向き合った。そういう彼女と比較すると、語り手の感慨にはバヤシコが口にした「理解」に相当する軽薄さがあるように思える。この点からも、つくねの前では彼はバヤシコに通じる姿をとるのだと言えるだろう。しかも彼はそのことに無自覚だ。言ってみれば彼は、自分では見ることのできない死角にバヤシコという「暗い影」を宿しているのである。このことは、ファミレスを出た二人がつくねの部屋で過ごす場面でより顕著になる。

 部屋に来た語り手は、下着と歯ブラシを買い忘れたとことわって最寄りのドラッグストアに向かう。実際にはどちらもすでに用意していたが、コンドームを買うためにつくねから離れる必要があった。つくねは出て行った彼を止めることもなく、所属するバンドのためにドラムの練習をして過ごしていた。戻ってきた彼と缶チューハイを開けながら雑談を交わし、やがてシャワーを浴びに行く。この後、浴室からスウェット姿で出てきたつくねに、あなたも浴びて来なよと何気ない調子で言われた語り手は痛いほど勃起するのだが、それは「ドラマか何かで、セックスをする前の男女がこのようなやりとりをしていたのを想起した」ためだった。これまでくり返してきたように、彼は相手が己れを省みずに社会的イメージを押しつけてくることに強い怒りを示してきた。「同性愛者」にせよ「マゾヒスト」にせよ、ありあわせのイメージに則って接され、そのロールプレイを強要されることに憤ってきたのである。ところが、この場面で彼がやっているのはまさしくそのような行為だ。彼はドラマの中の男女を規範にしてふるまおうとする。つくねの内情や心情は頭になく、そのことを考えてみようともしない。バヤシコがそうであったように、欲求を満たすことがすべてになってしまっている。

 そんな彼に対して、つくねは山色の魅力のないスウェットを着、巨大な青虫のように滑稽な寝袋を彼にあてがい、おそらくは意図的に性的な魅力から遠ざかるものを用意する。今の自分自身を省みてほしいという言外のメッセージをくり返し発するのだ。しかし性器をコントロールできなくなっている彼にそのメッセージは届かない。つくねの口数が明かにに減っていることには気づくのだが、彼女が内心で何を考え、何を伝えようとしているのかまではわからずにいる。彼は半ば無意識と化した性器に対して、「この器官は、私のものなのに、時々私の言うことを聞かない」と吐露しつつ、あくまでその欲求に従おうとするのである。部屋の明かりが消え、つくねはこちらに背中を向けて横になる。彼は入り込んだ寝袋のファスナーに手をかけ、彼女に近づこうと動き出す。その瞬間、つくねが身体を半回転させて振り返り、これまで直視を避けつづけてきた目が彼を射抜いた。つくねは彼の死角にある「黒い影」を見透かしたのだ。金縛りにあって動けずにいる彼に、つくねは「怖い話していい?」と切りだす。

 彼女のいう「怖い話」を聞いた読者には、この前置きがいささか奇妙に思えるかもしれない。「怖い話するって言ったけど、あんまりそういう感じじゃなかったね」と彼女自身もことわりを入れているほどだ。しかし、少なくとも彼にとってこれは間違いなく「怖い話」だった。事実、話を聞き終えた後ではコントロールを失うほどだった勃起がぴたりと治まり、どれだけ奮い立たせようとしても反応しなくなってしまう。彼はつくねのメッセージを意識の上では聞き逃してきたが、無意識と化した急所においてはそれを理解したのである。「怖い話」が彼の無意識にそれを気づかせたのだ。

 つくねの「怖い話」とはおおよそ次のような内容になる。


 小学校の五年生か六先生のとき、つくねは三階にある教室の窓から黒い影が真下に落下にしていくのを目撃する。思わず悲鳴を上げたためにクラスは一時騒然となるのだが、黒い影を見たのはつくねただ一人だった。授業中でもあったためその場では錯覚だったということで片づくのだが、休み時間になって、クラスメイトたちがつくねを取り囲み、何年か前に屋上から飛び降り自殺した生徒がいるという根拠のない噂を元に、つくねが見たのはその女の子だったのではないかと詰め寄ってくる。「それはもう質問っていうか、そういうことにしろっていう圧力があって」と回想する彼女は、半ば無理強いされる形で女の子が落ちるのを見たと言ってしまう。以来、彼女は「幽霊が見える子」として接せられるようになる。性格の暗さが災いして友達のいなかった彼女はずっと一人の時間を持て余していた。そのため、嘘であってもクラスの中で役割を得たことを喜んだのだったが、要求された役割は次第にエスカレートしていき、いつの間にか、幽霊が見えるだけでなく占いもできるという話になっていた。ラッキーアイテムや運気をあげる方法まで訊かれ、最初は当てずっぽうで答えていたつくねはそれが申し訳なくなり、図書館で本を借り、密かに勉強を始めるようになる。

 そんなある日、つくねは休み時間に男子生徒が話しているのを聞いてしまう。名指しこそしないが明かに自分を指して「取り柄のないブスが構ってほしくて嘘ついているだけだろ」と言うのである。彼の言葉が正鵠を射ているのを痛感していたつくねにとってショックだったのは、その男子生徒の言を受けて、親しくしているはずの女子が「でもその気にさせておいたほうが面白いじゃん」と言ったことだった。クラスメイトはすべて嘘だとわかった上でつくねの振る舞いを面白がっていたのである。

 幼かったつくねにとって当然この体験はショッキングなものだった。しかしその後の学校生活の記憶を曖昧にしてしまうほど真に彼女を傷つけたのはこの体験そのものではなく、この体験が彼女に突きつけたある事実であった。それは「ブス」であることがつくねの実存と不可分の条件だという事実だ。

 つまり、ブスだから何かほかのことで頑張らなくちゃっていう、そういう意識があったような気が、最近するのね。占いもそうだけど、ドラム始めたのも、高校から頑張って明るいおしゃべりキャラになったのも、今でもバンド続けてるのも、もしかしたら自分がブスだったからなんじゃないかって

 ストーカーまがいの男に絡まれることになったコールセンターのバイトも、声だけの仕事ならブスであることを気にしないで済むから選んだ、つまりブスであることに強いられたのかもしれないのだと彼女はつづける。そうであれば、語り手と部屋に二人切りでいるこの状況も「ブス」が強いたものだ。しかし彼女はそのことに怒りや憤りを表明せず、「ブスとわたしは表裏一体だから、ブスであることを本当の自分と切り離して考えるのも変で」とつぶやいて考え込むのみである。「ブス」であることは彼女にとっての「暗い影」だが、語り手がそれから目を背けるのとは反対に、彼女は明晰な視力をもって「暗い影」を直視する。そして同じ姿勢を彼に強いる。彼にとってそれは金縛りにあうほどの恐ろしい話なのだ。

 前述したように、語り手は死角にある自身の「暗い影」として、バヤシコの分身ともとれる暴力性を宿していた。便宜的にそれを「男」と言い換えるなら、人生を規定してしまうつくねにとっての「ブス」が語り手にとっては「男」なのである。彼はそういう「男」を自分から切り離すためにあらゆる手段を尽くす。つまり、彼が執拗に美を追い求めるのは「男」という「黒い影」から逃れるためなのである。よって、『改良』と題されたこの小説は、ジェンダーの問題を扱ったものでも美醜の問題を扱ったものでもなく、前提となる条件も環境もまったく異なる形で生まれた各々の人間が、社会的イメージに抗いながら、劣っている部分も優れている部分も含めて自分をどう受け止め、そして異なった他者とどう向き合うかを問うたものなのだ。そしてこの問いに向き合うためには、池田つくねのようなこちらの「暗い影」を照射する他者の怖ろしい目に己れの身を晒す勇気を持つしかない。

 意識的には、語り手はつくねの目から逃げてしまう。しかし無意識としての急所がドラマの男女という社会的イメージを自分たちに押しつけることをやめさせ、最後の場面で傷ついた彼をつくねの元へと向かわせる。彼は耳ではなく急所によってつくねの真意を理解したのかもしれない。小説は暴行された語り手がつくねのアパートを目指す場面で終わっているが、もしこの先でつくねとの関係において彼が「暗い影」を自覚し、バヤシコへ向けた怒りを己れに向けることができるなら、自分自身に揮ったその暴力によって「暗い影」に宿った暴力性を解決する糸口が現れるかもしれない。もしそのような場面が描かれたとしたら、この作品は大きな飛躍を遂げるだろう。作者の次作に期待したい。

 

老耄と一身を超えた情 古井由吉 『この道』について


 生まれて来なければよかったと思ったことが、自分にもある。一度や二度ではなかったかもしれない。幼少の頃、喘息の発作で呼吸困難にあった夜々に、寝入った家族を起こすのが忍びなくてひたすら耐えていた寝床の上で、窓外の、明けようともしもない未明の空を一心に睨んで、自分なんて生まれなければよかったと、そう思ったことがある。あれらの夜が身体のどこかに刻みつけられて、叫びにならない叫びとして、今に引いてはいないだろうか。そうして同じような夜を過ごした過去の、未来の、誰かの叫びを招いていはしまいか。苦しみは時代も場所も選ばず人と共にあった。古井由吉はこの苦しみに文学がどう向き合えるか、誰もやったことがないやり方を示してみせた。

 


 二〇一九年の一月末日に発売された『この道』は、前年まで群像誌上に掲載された短篇を収めた作品集になる。近年の作者の特徴である、私小説とも随筆ともつかない融通無碍なスタイルで書かれた、まさに小説としか言いようのない最新の作品だ。どの話も一読して目につくのは、八十を過ぎた著者の老いや衰えに関する述懐であり、気圧の変化が不眠を呼んだり、天気の変動が生き死にとダイレクトにつながったりする生活が訥々と語られる。そんな暮らしの中に旧友や親族の訃報が伴奏のように流れ、あちこちから死が聞こえてくる。
 伝説の人物を除くと、最初に登場する死者は作家だ。三島由紀夫のことだろうかと個人的な邪推を逞しくした、作中で名前の明かされないある文士の追悼の場で、その先輩にあたる老大家が、祭壇に故人の名前を呼んで「いまだ生を知らず、いづくんぞ死を知らん」と切り出すのだが、故人はまだ中年に入ったばかりの自決による死だったため、参列者たちは息を呑んだ。今から四十五年あまり昔のことだそうである。
 論語からの引用らしい。語り手は孔子の言葉を読み返し、先の言葉が祖霊にどう仕えるかに悩んだ弟子との問答から出てきたものだと確認する。いまもって人間の君主に仕えることもままならないのに、どうして祖霊に仕えられるだろうか、と答えた孔子に弟子は、では先生、死についてはどうお考えになりますかと続けて「いまだ生を知らず、いづくんぞ死を知らん」と返される。語り手は曲解だろうと断ったうえで、この言葉を次のように読む。

 没して何十年かはまだ個々の死者たちでも、さらに百年二百年も経てばおそらく、ひとつに合わされる。(中略)集合した霊を祀るには、名や格によって縛るわけには行かず、死んでしかも在る、ひたむきに死んでひたむきに在るという不可思議さへ、畏怖という名の宥和がなければ、恐怖の念をまぬがれない。そして死んで在ることを知るには、生きて在ることをその出生の、まだ人格未分の境までたどりつくさなくてはならないというのが、いまだ生を知らずの意か。

 震災の犠牲者や戦没者といった過去の、現在の死者は、生前のその人を誰も知らなくなるまで時間の経ったとき、個としての顔を薄めて死者という概念の一画に連なる。つまり「祖霊」というひとつのまとまりに融ける。この想念は翻って生への理解をあやうくする。生きていることを理解するためには、出生前の「人格未分の境までたどりつくさなくてはならない」というのだから、これは大変なことだ。胎児の頃の記憶も、それどころか受精卵だった頃の記憶すらも、しっかりと確かめなければならない。赤児の目で見た光景を覚えていると豪語した三島由紀夫ですら、それほどの記憶力は持ち合わせていないだろう。実際、語り手自身もそれは不可能だとこぼす。


 そもそも人の生はどこまで遡れるだろうか。「生きていることは、生まれて来た、やがて死ぬという、前後へのひろがりを現在の内に抱えこんでいる」と考える語り手は、「このひろがりはともすれば生と死との境を、生まれる以前へ、死んだ以後へ、本人は知らずに、超えて出る」と結ぶ。出生を辿る行為がいつしか境を超え、生と死の混濁が始まる。読んでいるこちらにもそのあやうい混濁が伝播し、生まれる以前の記憶をいま思い出すことはできないけれど、それは単に忘れてしまっただけではないか、といった考えが頭を過ぎる。時を経た死者が「祖霊」に融けあうように、時を経た忘却は記憶の底で無数の死者たちのそれと融けあいはしないか。ユング集合的無意識ではないけれど、人の記憶は忘却の果てで生前や死後に至り、祖霊の中にある誰かの記憶とつながり得るのではないか。
 テクストに身をゆだねてこう発想することに魅力を感じる一方で、右の文章を書いていて薄っすらと背中の肌が粟立った。どこかそら恐ろしい。自分では思い出すことができない記憶の底には、自分のものではない誰か別の人の目にした光景が潜んでいるかもしれない。それは蒼白い顔をした死者が肌の内へねっとりと入ってくるような、生理的な抵抗感を伴う感触だ。しかし語り手はここで怯まない。死を言葉の側面から捉えて次の観念に至るのである。

 死を思うと言うけれど、それは末期のことであり、まだ生の内である。わたしは死んだとは、断念や棄権の比喩でなければ、あるいは三途の川へ向かう道々のつぶやきか、心が残って人の枕上に立つようなことでも思うのでなければ、理に合わぬ言葉である。わたしは死んだと知る、そのわたしが存在しない。仮に臨終の意識の、影のようなものがしばし尾を曳くとしても、記憶が失われれば、自己同一性とやらも消える。ところがまたむずかしいことに、死後の存在、霊魂の不滅というような伝来の観念を、どこかでおのずと踏まえないとしたら、人の言葉はそもそも、成り立つのだろうか。ただ明日と言うだけでも、一身を超えた存続の念がふくまれてはいないか。一身を超えていながら、我が身がそこに立ち会っているというような。

 問題は「一身を超えた存続の念」というところだ。後に「一身を超えた情」と言い換えられ、折にふれて繰り返されるこの観念は、テクストの心臓としてすべての作品に鼓動を響かせている。古井由吉を読めるかどうかは、「一身を超えた情」を感知し得るか否かにかかっているのではないだろうか。インターネット上でも文芸誌でも幾人かがこのテキストを取り上げていたが、誰も心臓の音を聞き取れていないようだった。文体や作風といった、シワを刻んだ目につく肌には注意が向かっても、その奥で温かく脈打っている血が感じられていないようなのだ。もっとも、こうやって大上段に構える自分もそれを聞き逃した読者の一人には違いない。


 右のパラグラフから先をどう続けようか、書いては消しての繰り返しをもう数日つづけている。白状すると、書評としてはすでに短くない文を書いてきたにも関わらず、自分にはまだ「一身を超えた情」がわからない。一朝一夕に理解できるものではないのかもしれない。このままダラダラと駄文を重ねていっても、結局は何もわからずに筆を折る羽目になるのかもしれない。大いにそうだろう。それで構わない。この書評は、後に取りあげる「生まれて来なければよかった」という語り手のかなしみに促されて着手したものだ。同じ思いを抱いたことのある自分は、作者がこのかなしみをどう書いたか理解したい。しかしここに間違いがあるのかもしれない。本を読んだからといって人生の真理を得られるわけでも、苦しみから解放されるわけでもない。それでも人は本と共に生きることができる。折にふれて読み返し、今わからないものが、十年後、二十年後、経験を積んだ後で少しはわかるようになるかもしれない。そうして柱に身長を刻むようにして、理解の度合いを以って、これだけ生きたのだと自分に印をつけて人生を励ますことができる。ただ読み通すことが読書なのではない。読書とはそういうものではないだろうか。

 

 

 もう少し続けよう。
 死について思いを馳せる語りは、やがて戦中へと向かう。終戦の年、作者がまだ八つだった頃、空襲の罹災によって東京の家から焼き出された。東京大空襲--死者・行方不明者は十万人を超えると言われている、民間人に降りかかった悲劇である。
 当時の幼かった語り手の動向を追ってみると、「再三の遠い近い空襲の末に、敗戦の年の五月の末に、私の家も失われた。逃げた先の父親の実家も七月の末に焼かれ、母親の里まで落ちのびることになった」とある。東京大空襲・資料センターを参照してみると、一九四五年当時、四月、五月の山の手大空襲では、その他の空襲を含めて約八千人が命を奪われていた。「五月の末」にあたるの大空襲は二つあり、一つは二十四日に東京北部の住宅地が狙われた空襲。具体的には荏原区、品川区、大森区、目黒区、渋谷区などが、五百二十機のB29から三千トン以上の焼夷弾を投下された。被害は罹災家屋約六十四万戸、罹災者約二十二万人で、死者は警視庁の調べでは七百六十二人、東京都の調べでは五百三十人であったという。もう一つは二十五日から二十六日にかけて行われた大空襲で、先ほど挙げた地域よりさらに北部、政府機関、金融・商業の中枢機関が集中する都心地域と、都心から杉並区にかけての西部住宅地が空襲された。四百六十四機のB29が三千トン以上の焼夷弾と四トンの爆弾を投下し、被害は、罹災家屋約十六万戸、罹災者約五十六万人で、死者は警視庁の調べでは三千二百四十二人、東京都の調べでは三千三百五十二人だったという。語り手の生家もこの数字に連なっているのである。 


 自分の家が二階の窓から濛々と黒煙を吐いて嘆きかなしむ様を眼前に突きつけられ、語り手は見てはいけないものを見てしまったような、何かの間違いの中にいるような感覚に襲われたという。その強い衝撃に記憶の一部が欠落しすらした。しかし、悲劇はそれだけに留まらなかった。本当のかなしみは後からやってくるものらしく、敗戦からほどなくした晩秋に、一人の復員兵が母親の郷里である美濃を訪れた。この復員兵は、東京に戻った語り手の知らぬとろこで、慕っていた叔父が終戦の間際に腸チフスで亡くなり、上海郊外の楊の下に埋葬されたと伝えて髪と爪とを届けに来たというのである。叔父は二十代の半ばを越えようとする年だった。メールも電話もなく、郵便事情も悪かった当時、東京の一家にこの報せが届いたのは十日も経った頃だったという。自身のかなしみを直接言及しはしないが、語り手は弟を失った母の姿を描くことを介してその心中を明かしている。
 ここから叔父の思い出が語られることになるのだが、断片的な光景があるばかりで具体的な場面が一片も浮かばないという。叔父は東京の大学に通っていて、毎日のように語り手の生家から通学していたから、過ごした時間は決して薄くないはずなのにである。ただ一つ明瞭に覚えているのは、家族が出かけていた昼さがりに、午睡から覚めた語り手に叔父が炬燵で添い寝してくれたことだけだった。その情景を反芻しながら、「死者はいつまでも若いと感じる時、そう感じる本人は、老いたには違いないが、内実どこに、どの年に、どの現在にいるのか」と問う。「どの現在にいるのか」という言い方は現在が複数あるという感覚、いずれの過去も現在であるという感覚がなければ生じない言葉だ。その感覚で以って「いつまでも若い死者を見る生者の心は、歳月に侵蝕されてもその奥底では、死者を最後に見たその現在に留まっているのではないか」と考えてから、叔父の最期を思い、戦火に遭った自身の記憶を反芻して、こう続ける。

 生まれて来なければよかった、とは人の悲嘆のきわみの叫びとされる。より痛切には恐怖のきわみの、死の際にまで追い詰められた者の呻き、いや、呻きというよりはつぶやきである。切羽詰まっているのに、妙に安穏な日常の声のように、頭の中にぽっかりと掛かる。その長閑さのあまり、狂奔のけはいをふくんで、恐怖をさらに振れ動かす。そのまま果てた人と、生きのびた者と、その間にひらいた淵は越えられない。しかし生き残った者の内にも、死に瀕した境にあった自身の、呻きかつぶやきかは後まで遺る。生きてあることの安堵がことさらに身に染みる頃に、おもむろに底から押し上げる。すでになかば死者の声のようになっている。
 穏やかな午後に添い寝されて炬燵に温もる子供の自足にも、老いて眺めれば、障子に傾きかかる日の影とともに、それからわずか何年か後に防空壕の底で、生まれて来なければよかったとつぶやいた、その翳が差しているようにも感じられる。人の運命のことも我が身の危機のことも、知らなかった。是非もないことなのに、つゆ知らずにいたということは、死者の沈黙へ通じる。

 初読の際に上記の文を読んで、暗い衝撃を受けた。「生まれて来なければよかった」というもの凄い悲嘆の叫びが、肚に直接響いてきた。言葉の生々しさに強くたじろぎさえした。小説を読んでいていこんな衝撃を受けたのは初めてで、このショックから未だ立ち直れずにいる。初読の際はここで読むのをいったん止めたほどだった。自足した平和にある幼少の過去すら、後の悲劇によって翳るなら、いったい人の救いはどこにあるのだろう、これでは救いがないじゃないかと治らなくなったのである。
 それでも読書を再開したのは、作者への期待と信頼がそれだけ篤かったからだと思う。実際、その期待は見事という他ないほど確かに叶えられることとなる。この後でテキストは自分には想像もしなかったような道を歩み始めたのである。

 

 

 改めて確認するが、今作の作者は齢にして八十をとうに超えている。着々と進行する老いの只中にある。老化によって前後不覚になることを老耄というが、作者の分身である語り手は老耄を次のように定義する。

  老耄というのは、時間にせよ空間にせよすべての差異が、隔たったものがたやすく融合する、そんな境に入ることではないのか。まわりの者はそれを不気味な分裂と見て驚き、怖れさえするが、本人にとっては平明な実相であり、ただ人に伝えるすべもない。

 どこか死後の感覚を思わせるこの「老耄」は、作中で繰り返し思索の対象となる。たとえば「その日のうちに」という一篇では、雨天の野外にお伽話の瘤取爺が踊り狂う姿を幻視する、という形で現れる。どこか滑稽なこの幻は、同時に陰々とした拍子を踏んでいて、「どうも、陰鬱な気分と陽気な想像とが、ふさぎとはしゃぎとが、分裂したまま共存しているようだ」。また「野の末」という一篇では、古人は天変地異に凶兆をみる力があったことにふれて、「今の世でも年老いて病めば、夜の間に天気の崩れた暗い朝の寝起きに、何事とも知れず、また一身の事ともなく、あやうい予兆を抱えたような心地になる」と述懐する。これも老耄の側面であろう。老耄への直接の言及ではないが、同じ「野の末」に次のような象徴的な場面がある。
 ある夜、酔いにふらつく足で昔日は川だったという道を歩いていると、河原石を積み重ねてできた石垣と出会う。目の高さまで、人の頭ほどもある石が無造作なようでしっかりと組み合わされている。この石垣が夜目には「無数の髑髏が枕を並べてどこまでもつらなる」ように映り、目を凝らしているとまったく同じものが、「石と石の継ぎ目がそれぞれ女陰のように見える。無数の女陰の列になる」。女陰は出生を、髑髏は死を象る。老耄というのはこのように、まったく異なるもの、時には相反するものをたやすく融合させてしまう。本作においてこの特徴は内容に留まらず、文体にも一貫している。最もそれが現れているのが「梅雨のおとずれ」における次のエピソードだ。
 戦後八年目の春先、十五歳になった語り手は当時死病とされていた腹膜炎を患い入院する。ある夜、寝つけずに意識が妙に尖り、ベッドの上で全身を耳にしていると、院内のほど遠からぬ場所から小さな男の子の火のついたような泣き声が聞こえてきた。泣き声はやがて嗚咽に代わり、夜明けまで続く。それが幾夜も繰り返された。日中、気になって訊ねてみると、母子三人心中の生き残った唯一人だと知らされた。病院に近い駅のホームから、三人で電車の前に身を投げたそうだ。母親は即死し、少年の姉は片脚を切断されながらも、病院に運ばれるまでは意識があった。案外に冷静な口調で、名前と住所を応えたが、ほどなく息絶えたそうである。男の子だけは最期の瞬間に母親からホームの側に突き飛ばされ、首を強く打ったものの命に別状はなかった。母親は肺を患っていたらしい。
 夜中に立つ子供の悲嘆に、その内心を思いやって、十五歳の語り手も泣き出しそうな感情に襲われる。「見知らぬところへ目を覚ましてさぞや怯えていることだろう」と気にかけていると、なんの因果か、少年の一家は語り手が戦中まで住んでいた家のほど近くに暮らしていたことがわかる。語り手には事件のあった駅までの道も容易に思い浮かべることができた。そうして、戦中のあの空襲の日、焼け出されたか無事だったかは知らぬが、自分と同じく少年もまたおそろしい目に遭ったのだろうと共感する。しかし母親を求めて泣き叫ぶ声に耳をやるうちに、八歳に満たないあの子はまだ生まれてもいなかった、と気づくのだった。姉の方も母親の中にいたかどうかという時期である。そう数えると、「生まれ来ることがそらおそろしいことに思われ、なにか得体の知れぬ長大な物の、底知れぬ沈黙を生身の口にふくまれたように喘いだ」。
 沈痛な面持ちの場面である。暗く救いがない。実際に少年のような子がたくさんいたであろうこと、もしかしたら自分の親族にもそういう経験をした人がいるかもしれないことを併せると。身近に迫って息苦しいほどである。
 ところが、この場面は続く段落で一気に浮上する。

 ほどなく朝早くから子供の、廊下を走りまわる足音が聞こえるようになった。嬉々とした声も立つ。こちらの部屋へ駆け込んでくることもある。目が合うとにっこり笑って、あちこちをいじくりまわす。まる坊主の、まんまるの顔の、首はすこし片側に傾いているが、小さな地蔵さんを思わせる子だった。首のほうは、聞き分けがつくようになればどうにでもなおせると医者は言っていた。少年のほうもその間に、ある夜、原因不明の高熱にうなされたのを境にして、日に日に快方へ向かっていた。手洗いに通う足の運びはまだたどたどしかったが、腰はまっすぐに立って、いつのまにかひょろりと伸びたような背丈からつくづく見わたせば、あたりは夜の寝床から耳でたどっていたのよりもはるかに狭かった、よほど長い廊下と思っていたようだった。

 死病に侵されていた少年が奇跡的に快復し、男の子には笑顔が戻るという感動的な場面だが、そのこと以上に、初読時に文中の「少年」を男の子と捉ったため、幼い男の子がニョキニョキと伸びて十五歳の少年になった、そんな様が目に浮かんだ。これには驚いた。
 老耄や死について思索する以上に、作者は戦災や災害に見舞われた古今東西の人々のかなしみに想いを馳せている。それは各作品で枚挙に暇がないほどである。いちいち引用することは控えるが、心中事件の男の子へ接する姿を見るだけでもそれは明らかだろう。作者は人のかなしみに共感してしまう、そうせずにはいられない精神の持ち主なのだ。それが老体に鞭を打つようなことになったとしても、辛さや痛みを思いやって、他者の経験を我がこととして苦しむ。ホラー映画の中で登場人物がひどく傷つく瞬間、たとえば目に針を突き立てられるとか指が歪に曲がってしまうとかいった瞬間に、たとえ我が身はまったくの無傷であっても咄嗟に「痛い!」と叫んでしまうことがある。映画が自分の身体に痛みを与えるわけはないと頭では理解していても、眼前の苦しみを我がことに感じてしまうのが人間の根本的な生理なのだ。人の心に対してこの生理を強く持っているのが作者なのである。


 結果的に誤読には違いない。引用文中の「少年」は語り手を指し、男の子と融合したわけではない。しかし、そういうことがあってもおかしくないと思わせるような姿勢を、作者は文体を通して取り続けてきた。上記引用のなかでも、本来なら「私は」とくるべきところを「少年は」と言い換えている。「たなごころ」という最初に収録された短篇では、後半に始まる、登山に勤しんでいた青年期の回想で、「私」と言うべきところを一貫して「青年」と記す。このため、この「青年」が前半までの視点人物と同一なのか、次第にあやしくなってくる。「私」の言い換えは他でも徹底しており、灰汁抜きでもしたように文中の「私」を極力とり去っている。これは明らかに自覚的な努力だ。この努力によって、自我が稀薄になった、それ自体で老耄しているようなテキストが生まれる。男の子が少年に融合してニョキニョキ伸びていく誤読はここから生じたのである。
 作者が「一身を超えた情」という言葉で表そうとしているのはもっと複雑なもののようだが、その意味の一端は、自分自身が苦しむように他者の苦しみに共感することなのではないだろうか。そうして考えると、人がいつまでも生老病苦から逃れられないのは言葉の在り方と無関係ではないのかもしれない。「私」という自我に基づいた言葉の度重なる使用が、人の我を大きくして、つられてかなしみや苦しみをも肥大化するのではないか。『この道』というテキストは、一人称の言い換えを繰り返すことで、人称という制度そのものが錯覚なのではないかと思わせる力を持っている。過去と現在が、他者と己れが、容易に融合する世界で自我は不確かなものであり、であればこそ、石垣の岩が髑髏にも女陰にもなるように悲嘆と安穏が、涙と笑いが一体となる。これが老耄することの意味であり、ここではそれまでと同じかなしみが相対化されてまったく違うものと化すのである。


 本作の最後に現れるのは笑いである。夢の中で自分を訪ねてきた女が、空襲で家を焼かれたあのとき、あなたは母親の手を振り払ってあらぬ方へ走り出したのですよ、火に向かって飛び込もうとしました、男の子だからしかたないようなものの、捕まえるのがあと少し遅かったら……と言い置いて去っていく。そこで目覚めた語り手は自分が笑っていることに気づき、物に狂えるかと呆れつつも、「未だ時ならず、時ならず」と唱えて笑いを収める。不吉な、おそろしい笑いだが、そう見えるのは老耄というものが「まわりの者はそれを不気味な分裂と見て驚き、怖れさえするが、本人にとっては平明な実相」であるからではないだろうか。たとえ「まわりの者」が「怖れ」たとしても、生まれて来なければよかったと叫んでいた少年が、年老いた末に「未だ時ならず、時ならず」と生き永らえることを唱える。ここには悲嘆の影がない。あったとしてもそれは戦中の空襲で家を焼き出されたときに迸った、あのかなしみの極みとしての悲嘆ではない。過去の、現在の死者と共鳴し、笑いと融けてもはや別のものになっている。ここに救いがある。
 生まれて来なければよかったと嘆いた誰もが、生きていればいずれ老いる。老いれば老耄する。そこに救いがある。どんな悲惨に遭っても生きて老いることを励ます稀有な一冊が、『この道』なのである。