いえばよかった日記

書評と創作のブログです。

2000字書評コンテスト『講談社文芸文庫』応募作品

 

僕も参加していた2000字書評コンテスト 『講談社文芸文庫』結果発表|コンテスト|NOVEL DAYSの結果が発表されました。

 

残念ながら僕は落選してしまったので、今回は応募した作品をこちらのブログに掲載します。

 

 

 

他者をめぐって——柄谷行人「意識と自然」について

 『畏怖する人間』に収録された「意識と自然」という処女作で柄谷は、漱石を論じる文脈で次のような図式をくり返し描いて考察している。それは対象化できる私(外から見た私)と対象化できぬ「私」(内から見た「私」)の乖離という図式である。対象化できる私とは端的には容姿や経歴や能力といった他人の目に映り外から評価することのできる私のことを指す。反対に対象化できぬ「私」とは他人の目には映らない内面の「私」を指す。たとえば漱石の重要な仕事として柄谷が取り上げた『坑夫』の「自分」は「ものを知覚しているが、どうもそれが現実のように感じられず、自分も明らかに自分なのだが、自分自身のように感じられない」のだという。柄谷によれば「私が『いまここに』あることと、次に私が『いまここに』あるということの間にいかなる同一性も連続性も感じられぬ心的な状態を語っている」のが『坑夫』なのだという。ここで漱石が問題にしているのは、外面的には昨日とおなじ一人の人間に見える「私」が、その内面では昨日と今日とで自分がおなじ自分だとは思えないと感じているということである。別人がおなじ皮だけ纏っているような奇妙な感覚が漱石にはあったのだ。このような現実感を稀薄にしか感受できない感性は漱石に固有の問題ではなく、「内面への道と外界への道」のなかで柄谷自身の感覚でもあると吐露されている。
 柄谷・漱石が置かれた状態は「私」の同一性、連続性が絶たれており、その結果、外界に対して批評したり反省したりすることはできるのに、それらを現実のように感じられず、自分自身のことすら自分のようには感じられず、テレビのなかの登場人物を眺めるようにしか見ることができなくなっているというものなのである。この状態は知覚そのものを変容させ、妄想を生じさせる。「漱石の迫害妄想は、対象化しえぬ「私」の次元における縮小感が外界の他者を迫害者のように変容させた」ために引き起こされていると柄谷はいう。どんなに他者を求めても、他者の代わりに迫害者という実態のない妄想しか現れないという「存在論的」問題の渦中で苦しんだのが漱石なのである。柄谷はこの事態を「他者に対して根源的な関係性が絶たれている」と表現する。
 こうした事情により『道草』以前の漱石作品の登場人物は、代助にせよ宗人にせよ先生にせよ、みな漱石の分身であるような知識人と、それ以外の大衆的人物とに二分されていた。しかし、『道草』を経て執筆された『明暗』の健三は「根源的な関係性」を取り戻しており、知識人と大衆という隔たりを取り払った他者のなかに配置されていた。そうして他者との間でダイアレクティカルな会話をくり広げる。これは漱石のそれまでの作品にはなかった特徴である。『明暗』において漱石は世にいわれる「近代人」を描いたのではなく、普遍的な実質を描こうとした。いいかえればただ人間を描こうとして苦しんだのである。人間とは何か。柄谷は言う。

小林のことばがつねに自虐的なアイロニーにみちているのは、「真実」をお秀のような理論家のように語ることができないからである。恥ずかしい進退窮まった地点からしか「真実」を語ることはできはしない、そうでない真実などは贅沢な連中の頭のなかにつまっている知識にすぎないのだ。お延をもっとも理解していたのはおそらく小林であって、彼女もまた自尊心をかなぐりすてて「頭を下げて憐れみを乞うような見苦しい真似」をあえてやるにいたったのである。

 『こゝろ』の先生は自殺はできても自分が抱えた過去を奥さんに告白することはできなかった。しかし「恥ずかしい進退窮まった地点」にいて先生のような経済的余裕とは無縁の小林は情けなく涙を流しながらも訥々と真実を語っている。先生の真面目さより小林の滑稽さの方が何歩も先を行っていたのだ。お延も小林のように「頭を下げて憐れみを乞うような見苦しい真似」におよぶことで真実を語っている。津田や先生のような知識人がどれだけ立派に見えようと、小林やお延のような見苦しい者の見苦しさの方がずっと真実に肉薄し、真実を語りうるのである。
 「異質な他者」との出会いにおいて人間の真実が現れるという視野を漱石が持つようになったのは、『道草』において自分自身を相対的に見ることに成功したからである。『明暗』ではその非情な眼でもって人間をただ見つめ、描いた。どのような経験を通して漱石がそのような眼を持つにいたったのか、それは『畏怖する人間』を通して読んでもわからない。しかし、晩年の漱石を参考にして次のようには言いうるかもしれない。自分自身の内面と外面との間に開いた乖離に向けていた眼を他者に転じて彼らとおなじ顔をした己れを見出すことがあるかもしれない。他者をめぐるそのような可能性に賭けるとき、人は自殺するよりもなお怖ろしい告白を実践し真実を語りうるのである、と。

 

 

 

偶然の飛翔——ドストエフスキー『やさしい女』について

 ナチスの親衛隊が囚人を移送する行軍のさなか、囚人のなかの一人をランダムで選び出して銃殺するという気晴らしを思いついた。この気晴らしで選ばれたのはイタリア人の青年で、彼は周囲を見渡して他の誰かではなく他ならぬ自分が選ばれたことを知ると、頬を薔薇色に染めて恥ずかしがったのだという(アガンベンアウシュビッツの残りもの』)。
 偶然という自分ではどうしようもないものに命を左右されるとき、人は通常の意味を超えた実存に達する「恥」を抱いて頬を薔薇色に染めることがある。私見では、表題作『やさしい女』を読む上でキーとなるのはこの偶然と恥である。思えば主人公が将校という輝かしい身分を捨てて質屋という卑しいと自認する職業に就いた原因は、上官の悪口が大声で交わされたビュッフェの席にたまたま居合わせたという偶然によるものだった。その場で抗議をしなかった主人公が名誉挽回のために決闘するように促されたのを断ったため、臆病者として団を追われたのである。
 さらに言えば妻となる少女と主人公が出会ったのも、彼女が偶然に主人公の質屋を選んだからだった。もっともはじめは主人公にとって彼女は他と変わらぬ一人の客だった。それが違う目で彼女を見るようになったのは、ある日、ほとんど無価値な袖なしのジャケットを質草として持ってきたときに主人公が思わず皮肉を口走ったところ、彼女が真っ赤になって空色の瞳を燃え上がらせたのがきっかけだった。その姿に主人公は「ある種の特別な思い」を抱くようになる。それは三万ルーブリを集めてクリミアかどこかに領地を買い、南部の海岸地方に葡萄園をつくり、家庭を持ちながら周囲の隣人を助けて暮らすというどこかしらナイーブな理想を彼女に打ち明け、世間的には質屋という卑しい存在だが、地上でただ一人、彼女だけは自分が本当は高潔な理想を持った紳士であることを知ってくれるようにすることだった。真っ赤になって恥ずかしがる姿を見た瞬間に彼女を選んだのは、イタリア人の青年がそうだったように偶然に違いないが、しかし一度選んでしまうと、主人公にとって彼女はもうその他大勢には戻りえない特別な存在になったのである。
 ある特定の誰かが特別な人になるのはその人に特別な気質や理由があるからではない。偶然に出会い共に時間を過ごしたというそのことがその人を特別にするのである。主人公にとって彼女は特別な存在になった。両親の死後、意地悪な二人の叔母のもとに引き取られた彼女は間もなく俗悪な商人に嫁がされそうになっており、進退両難に陥った末、主人公のもとに親の形見だった聖母像を質草に入れにくる。これに対して主人公は黙って十ルーブリを渡すと、翌日彼女の家を訪ね、商人がいる目の前でプロポーズするのである。これによって主人公は彼女が窮地を救った自分を尊敬してくれるものだと思い込むのだが、ここから二人のすれ違いがはじまる。
 『やさしい女』というタイトルにもある「やさしい」とはロシア語で「クロートカヤ」といい、日本語では「やさしい」もしくは「おとなしい」と表記する他ないのだが、山城むつみによるとこの「クロートカヤ」は単に無口だとか従順でおとなしいとかいった意味ではなく、猛獣を鞭で打ちつづけてようやくおとなしくなったような状態、いつ暴れ出すかわからない激越なものを秘めた状態を指すらしい(『ドストエフスキー』)。奇妙なことだが本作で一度として名前を口にされることのない「クロートカヤ」は、すれ違いの最中に主人公に牙を剥く。「やさしさ」とは表裏にある「激越さ」を発揮するのである。ある日、彼女は夫となった主人公との口論の果てに、突然主人公に向かって足を踏み鳴らしはじめる。その姿は紳士を信条とする主人公をして「野獣のようだった」と言わせずにはいられないような激越なものだった。この激しさは眠っている主人公のこめかみにピストルを押しつけるという行動でピークを迎える。
 奇妙に聞こえるかもしれないが、彼女のこの行動はすべて愛の成せる技なのである。

私との関係は誠実なものでなければならない。愛するにはすっかり心から愛する必要がある。(中略)ところが彼女はあまりに貞節で、あまりに純粋であったために、商人にとって必要な程度の愛には妥協することができなかったし、同様に、私をだますことを欲しなかった。本当の愛に見せかけて、半分の、あるいは四分の一の愛でだますことを欲しなかった。あまりに正直で。そこが問題なのだ。

 二人の「問題」とは関係の非対称性にあった。愛し合うとは対等な関係で隣り合い、向き合いながら愛することだが、二人の間には落差があった。常に主人公は施す者であり、彼女は施される者だった。偶然によってできたこの羞恥を埋めるために彼女は命懸けの飛翔を試みるのである。その結果がどうなったのか、それは本作を手に取ってお確かめ頂きたい。

 

 

 

「終焉」を口走る者——蓮實重彥『物語批判序説』について

 『物語批判序説』の「物語」とは紋切型のことであり、端的にいえば「終焉」を宣言する言説のことを指す。たとえばニーチェが口走った「神は死んだ」という有名な宣言などが代表的な紋切型であり、狂気に陥った彼の哲学者に倣って「終焉」を口にしてきた数々の知識人が本書においては槍玉にあげられるのだが、著者による華麗な批判を読んでいて私が気になった点をいくつか紹介していきたい。なお、あらかじめ断っておくと、私は蓮實重彥のいい読者ではない。人をくった表現や独特の重々しい文体にそこはかとなく反感を覚えるのである。これは具体的な言説に反発してそうなってしまうというより、漠然とした生理感覚による反感であるため、著者の作品にふれると「どこにも反論する余地はないが、それなのに何かちがう」というモヤモヤした感覚を抱き、具体的な言説に首肯できないときよりもさらに根強く違和感が生じるのである。
 本題に入ろう。著者は本書において、文学や神の「終焉」を宣言する無邪気な預言者たちへの苛立ちをくり返し表明するが、特に念頭に置かれているのは、この作品がニ○一八年に講談社文芸文庫から出版された際に付されたあとがきを読む限り、柄谷行人の「近代文学は終わった」という文学の「終焉」宣言に他ならないだろう。名指しこそしていないものの本書は柄谷行人を批判した書としての横顔を持っているのである。著者によって暗に批判されている柄谷の主張とは、近代では「文学が特殊な意味を与えられ」ていた故に「特殊な重要性、特殊な価値」があったのだが、現代においてはそれがなくなってしまったというものである(『近代文学の終わり』)。これに対して著者は、近代文学にせよ何にせよ、あるものが終わるというのは実際にはとても難しく、なかなか終わってくれないのが実情なのだという主張を展開する。具体的には、プルーストの『失われた時を求めて』の最終章「見出された時」において「戦争の終わり」に言及する社交界の登場人物たちが、第一次世界大戦が長期化する現実にぶつかって、その言説を変化させていく様を論じていく。しかも待ち望んだ戦争の終わりが、フランスの復興ではなくむしろ衰退を招いたこと、さらに第二次世界大戦において広島と長崎に原子力爆弾が落とされた事実を受け、プルーストの登場人物ではないが、衝撃を受けたサルトルが思わず「人類の終わり」という紋切型を口走ってしまった経緯について書き、サルトルが何を口走ろうとも実際には人類は終わっていない、むしろ終わってくれそうにない現実に論及していくのである。
 フランスの文豪を扱っていく著者の手捌きは華麗なのだが、読んでいて一点、気になったことがある。本書に登場する固有名詞——具体的にはフローベールプルーストサルトル、バルト——がすべて、フランス由来のものであるという点である。著者の論理には反論の余地がない。実際、近代文学にせよ人類にせよ神にせよ、そう簡単には「終焉」を迎えるようなものではないのだろう。「終焉」を口にすればそれはフローベールが批判した紋切型へと堕してしまうだけである。しかし、この事情は果たして日本の近代にも有効なのだろうか。著者の議論は理路整然としたものだが、土台となっているのはすべてヨーロッパの事情である。「終焉」が訪れていないのはヨーロッパの、より限定して言えばフランスの近代文学であるのではないだろうか。文学に限らず、哲学や人類学といった様々な分野を横断して論じている本書は、あらゆるものに言及しておきながら、決して日本については口にしないよう警戒しているように見える。しかし、本書が暗に批判している柄谷行人が「近代文学は終わった」と口にしたのは、『日本近代文学の起源』の延長でなされたものであり、題にもあるように「日本」の「近代」という一時期において文学が終わったということなのだ。つまり、柄谷が宣言した「終焉」とは時代も場所も日本に限られたものであり、ヨーロッパでは事情が異なることを承知でなされたものなのである。柄谷が考慮したこの点を無視する形で、頑なに日本の名を口にしないでなされた批判は、その身振りによって急所を外していることを明かしてはないだろうか。
 この点を念頭に本書の冒頭を読み返すと気づくことがある。本書は「終焉」の不可能性を語ったものであるが、図らずも最初の章に付された題は「無謀な編纂者の死」である。つまり、一つの「終焉」を語ったものに他ならない。ここで「無謀な編纂者」と呼ばれているのは著者が専門として研究するフローベールのことなのだが、十九世紀の文豪であるフローベールの死とは、端的には文学における一つの時代の「終焉」であり、そうであれば本書の主張を裏切るものなのではないだろうか。著者の意図しないところで、本書は図らずもはじめからすでに「終わっている」のである。

 

 

 

おもっていることとやっていること——吉本隆明『マチウ書試論・転向論』

 令和に入ったいまの時代においては吉本ばななの父親と紹介した方が通りがいいのだろうが、かつては、吉本隆明といえば戦後最大の思想家と呼ばれていた。いまでもその評価が覆ったわけではない。本書『マチウ書試論・転向論』は、そんな吉本隆明の初期の論考・エッセイを集めたアンソロジーである。
 本書の全体を貫く思想は吉本の代表作の一つでもある「マチウ書試論」における「関係の絶対性」という言葉に要約される。「関係の絶対性」とは、端的にはコトバとココロの矛盾を突いた表現であり、簡単に言い換えると、「おもっていることとやっていることがちがう」という世間知を定式化したものだと言える。「芥川竜之介の死」において芥川竜之介が死に至るまで思い悩んだのも、「鮎川信夫論」で鮎川信夫が孤独に突き詰めたのも、「蕪村詩のイデオロギー」で蕪村がその革命的な創作において追究したのも、すべて「おもっていることとやっていることがちがう」という矛盾の問題に尽きるのである。具体的にはどういうことか。「マチウ書試論」から引用しよう。

加担というものは、人間の意志にかかわりなく、人間と人間との関係がそれを強いるものであるということだ。人間の意志はなるほど、撰択する自由をもっている。撰択のなかに、自由の意識がよみがえるのを感ずることができる。だが、この自由な撰択にかけられた人間の意志も、人間と人間との関係が強いる絶対性のまえでは、相対的なものにすぎない。

 人間は心が清らかだから人を殺さないのではない。どんなに心が清らかでも、「決して人を殺さない」と強く誓っていたとしても、あるとき、ある関係に入ってしまえば、結果として、彼は人を殺さずにはいられないのである。事前に思っていたことと事後の結果とのあまりの落差を前に、人は立ち尽くす他になす術がない。「おもっていることとやっていることがちがう」とはこういう恐ろしい矛盾なのである。マチウ書(新約聖書の一つマタイ伝のフランス語読み)を含む聖書を精読したドストエフスキーは『罪と罰』においてこの事態を克明に描きながら、著者自身がこの矛盾に躓いている。ドストエフスキーだけではない。吉本隆明もまたおなじ矛盾に躓いて呻き声をあげていたのである。どういうことか。
 本書に収録された作品群を執筆しているとき、吉本は就職した印刷会社で組合闘争に身を投じていた。要するに左翼運動の渦中にあったのだが、その影響で、本書の作品群には、当時強い影響力を持っていた共産党への批判が色濃く織り込まれている。吉本が所属する組合のなかにも共産党員がおり、共産党の支持者がいたはずであり、彼らとの「関係」において生じた軋轢が特に「マチウ書試論」には色濃く反映されている。それは、聖書(マタイ伝)は人の手によって書かれたものだという発想において顕著である。マタイ伝には現実を生きる作者がおり、その作者もまた、現実においてパリサイ人や律法学者、ユダヤ教との間に生じた強い軋轢に苦しめられていた。吉本が指摘するように、マタイ伝にパリサイ人や律法学者を口汚く罵る記述が散見されるのはこのためである。
 いまとなっては聖書の成立過程を云々する発想は特殊なものではないが、戦後の当時においてそれは革新的なものだった。歴史のなかで生まれた思想の書として見たとき、聖書はまったく異なる相貌を覗かせる。その横顔に吉本は自身が渦中に身を投じていた運動を重ねた。そうすることで聖書の背景が鮮明になったとき、吉本は垣間見た光景を次のように書く。

現実が強く人間の存在を圧するとき、はじめて人間は実存するという意識をもつことができる。ここで人間の存在と、実存の意識とは、するどく背反する。たとえば、侮蔑され、遺棄されるもの、苦悩するものがひとびとの罪を代償として心情のなかに荷っているという描写や、魂の疲労によって、かれの眼はみちたりるというような、被虐的な思考の型のうしろがわには、存在の危機を実存の条件として積極的にとらえようとする意識がはたらいている。

 組合運動や思想弾圧といった泥臭い現実のなかにあって、自分がどんなに高邁な理想を抱いていたとしても、実際には矮小な小競り合いをくり返す他ない。「おもっていることとやっていることがちがう」という矛盾に苦しめられる、そういう残酷な世界にあって、侮蔑され、遺棄され、苦悩するそのことが理想の実現に近づく術だとしたらどうだろうか? 「存在の危機を実存の条件として積極的にとらえようとする意識」と書きつけた吉本にはこのような「意識」があった。この「意識」を足がかりに、戦後最大の思想家は第一歩を刻んだのである。そこには「おもっていることとやっていることがちがう」という自身の苦悩があった。吉本を理解する上でその苦悩に思いを馳せることも一つの方法かもしれない。