いえばよかった日記

書評と創作のブログです。

性的ゾンビ 遠野遥『破局』について


 自分の側に社会秩序や規範があり、正しく悪を裁こうとしているまさにそのとき、人は最も暴力的に振る舞うものである。それが顕著になるのはたとえば居合わせた群衆によって痴漢が取り押さえられるような場面で、加害者が逃げる素振りを見せようものなら群衆は手段を選ばない。群像2020年6月号に掲載された著者のエッセイ『記憶』ではその場面が次のように描かれている。

この男は、おそらく30代の後半で、体が大きく、白いシャツを着ていた。折り目のついたグレーのスラックスを穿き、会社員のようだった。彼は、両脇の男たちを振り払って走り出したが、すぐに別の男たちが押し潰すように彼を捕まえた。彼は倒され、地面に顔を押し付けられていた。顔からは血が流れていた。着ていた白いシャツが大きく破れ、よく日に焼けた腕や肩があらわになっていた。

 作者は取り押さえられる痴漢の加害者を集団リンチの被害者のように描いている。この光景のなかでは加害者と被害者が奇妙に交錯しているのである。加害者が被害者であり、被害者が加害者であるような交錯した空間が浮き彫りにするのは、社会秩序という見えない暴力が顕在化した瞬間である。社会秩序を盾に痴漢を襲う「男たち」のなかに陽介がおり、私たちがいるのだが、加害者と被害者がいつの間にか交錯するのがこの空間である。安全な場所にいるはずの私たちが正しいことをしてきたはずなのにいつの間にか罰せられる瞬間が生じる、そういう空間に進んで身を投じ、顔から血を流して腕や肩をあらわにさせられる覚悟を持ったとき、『破局』には見えてくるものがある。意を決してその光景に目を凝らしてみよう。


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 公務員試験を目指して生活している大学生の陽介が破局に向かう表の物語の裏で、今作には多数の性犯罪が蠢いている。一例を挙げると比較的冒頭の場面で何気なく陽介がテレビをつけると、強制わいせつの疑いで巡査部長の男が逮捕されたというニュースが流れ出す。男は「走行中の東海道線の車内で、女性の下着の中に手を入れるなどしたという」のだが、このニュースを受けて陽介は「犯罪者が捕まるのはいいことだ。報いは受けさせないといけない」と考える。作中にはこのような「〜でなければいけない」というような規範意識を思わせる言い回しが多出する。『記憶』において外在化されていた社会秩序が今作では陽介という人格に影のようにしてこびりついているのである。この規範意識は「元交際相手の暮らすアパートに侵入して下着を盗んだとして、巡査部長の男が逮捕された」というニュースにふれ、唐突に他人のために祈りたくなる衝動を陽介に与える。公務員を目指している彼にとって、おなじ公務員である警官は尊敬の対象である。仮定ではあるが、規範を守る職業である警察に彼が特別な思いを持っているのは想像に難くない。ところがスバメだと思っていた鳥がスズメであることがあるように、彼が祈りの対象とした巡査部長の男は犯罪者でもあった。規範の番人である巡査部長の男が同時に犯罪者でもあるという矛盾は、おそらく陽介のなかにも暗い影のようにして渦巻いている。みずからの内で妖しく蠢くものに気づかないまま、彼は「仰向けになり、胸の上で両手の指をしっかりと組み合わせ」る。後述するが、彼が何気なくとったこの祈りの姿勢には注意しておく必要がある。彼は「交通事故で死ぬ人間がいなくなればいい」「働きすぎで精神や体を壊す人間がいなくなればいい」「誰も認知症で子供の顔や名前を忘れたりしなくなればいい」など無数の祈りを捧げるのだが、祈った後で自分が神など信じておらず、そんな人間の願いなど誰も聞いてくれないだろうということに気づく。陽介のこの身振りは唐突ではあるがあくまで規範意識に基づいた善良なものに見える。しかし表に織り込まれた裏があることを忘れてはならない。暴行の現行犯で逮捕されるという陽介の運命を考慮に入れて考えると、彼が祈った巡査部長の男は彼の分身にほかならないのである。
 作中で次に「祈り」という言葉が現れるのは、政治家を志し恋人の陽介との約束を反故にしてでも議員の知り合いをつくろうとする麻衣子が、陽介と別れ、「元交際相手」となった状態で彼と会う場面である。この「祈り」はどこか不吉だ。そうして実際、「祈り」の身振りは陽介の「元交際相手」である麻衣子の回想において、小学生だった彼女が一人で留守番をしている家に侵入し、彼女のベッドに仰向けに寝て「胸の上で両手の指をしっかりと組み合わせていた」男の姿として反復されるのである。この男は「冬なのに半袖半ズボンで、ハイソックスを履いて、まるでこれから何かの試合に出るような格好だった」という。青春をラグビーに捧げいまは出身校のコーチになっている陽介の暗い影が「胸の上で両手の指をしっかりと組み合わせていた男」なのである。作中で明言はされていないが、この男が巡査部長だったとしても私は驚かない。祈りのポーズを取るこの男が何に対して祈っているのかは謎だが、もしかしたら性犯罪の被害者や男が襲おうとしている麻衣子、麻衣子の次に陽介の恋人になる灯に対してなのかもしれない。加害者が被害者のために祈るというような矛盾がこの作品では平気な顔をして徘徊しているのである。この後、麻衣子は男に執拗に追われ、恐怖を抱きながらひたすら逃げることになる。かろうじて麻衣子は助かるが、捕まっていれば性犯罪の被害者になっていたであろうことは容易に想像できる。
 陽介の暗い影である分身が性犯罪者である巡査部長の男であるというのは何を意味をしているのだろうか。それを考えるためのヒントになるのは、陽介がまだ幼い頃にいなくなったという父親の教えである。父親は幼い彼に「女性には優しくしろ」と口癖のように言い、彼はそのことだけを強く記憶している。彼の規範意識の根源はこういうところに見出されるのだろう。また、「女性には優しくしろ」という教えは一見したところ真っ当なもののように見える。しかし陽介は父親のこの言葉を相手が望まないセックスをしてはならないというふうに置き換えて受け取る。この受け取り方は、穿った見方をすれば性行為の対象にならないような相手、たとえば前作『改良』のつくねのような容姿に魅力のない女性は対象に入らず、突き詰めて言えば女性としてすら扱わない可能性がある。作中の登場人物で考えれば、佐々木という高校時代ラグビー部の顧問だった中年男性の妻が登場するが、彼女は陽介にとって性の対象ではないため、作中に名前が書かれることもなければ主要な役目を負うこともなく、ただ夫とその教え子のために肉を焼くためだけの存在として描かれている。また、別れた直後に麻衣子と再会して会話を交わす場面で、話をする麻衣子を見て彼は「穴、と私は思った」と述懐する。「口や鼻というのはつまり人間の顔に空いた穴だと気づいたのだ。今は眼球がおさまっているけれど、眼窩というくらいだから目も結局のところ穴だ」。交際をやめて性交の可能性がないと判断した相手は、彼にとって人格を持った人間ではなく穴の空いた生き物にすぎないのである。極端なことをいえば陽介の世界では痴漢の被害者になり得るような女性しか生きる資格が与えられていないのだ。
 陽介がラグビーのコーチをしている際に選手たちに向かってゾンビになれと発破をかける場面がある。この場面で陽介について来られない選手たちはあくまで怠惰な高校生でしかなく、ゾンビとして生きているのはむしろ陽介の方である。ゾンビとは人間としての死を迎えた後、食欲というただ一つの欲望のみを極端なかたちで肥大化され、食うために人を襲う存在であるが、陽介がゾンビであるとするなら、彼の肥大化された欲望とは性欲にほかならない。作中、陽介はチワワやカラスといった動物から道ですれ違った小さい女の子に至るまで、様々な他人に顔をじっと見られる。これは見知らぬ他人の視線が異常なのではなく、陽介が他人の視線に対して過度に敏感なことを意味している。彼は自分が他人にどう見られているのか、他人にとって自分に性的魅力があるかに敏感なのである。性的ゾンビである陽介には人間を計る基準がそれしかないからである。女性を性の対象か否かとしてしか見ていないのと同様、他者もまた自分を性の対象か否かとしてしか見ていないと思い込んでいる。だから彼は必要もないのに体を鍛え上げ、トレーニングを欠かさない。
 作中に登場する主な女性、灯と麻衣子は陽介のこういう側面に気がついていた。麻衣子は自分を人としてではなく性的対象としてしか見ておらず、性行為から遠ざかったことを理由に別れた彼に性によって復讐を企てる。この復讐が最終的に陽介を破局に向かわせるのだが、一方で灯の方でもある時点から陽介のことを自分の性欲を満たすための道具としてしか捉えておらず、自分が所有している鍛え上げられた体を麻衣子という他人に良いようにされたことが許せないから結末であのような行動に出る。
 灯と陽介はまだ順調に交際している折、休みを取って北海道へ旅行に行く。ところが到着早々に雨が降ってしまったため、ホテルの部屋で一日を過ごすことになる。このとき灯が提案するのが映画を見ることなのだが、その映画というのがほかならぬゾンビ映画なのである。

私は、ゾンビの映画であるにもかかわらず、ゾンビが出ないうちに灯を押し倒した。これは相手の同意がない場合、罪にあたる行為だが、灯は私の下で幸福そうに笑っていた。それを見た私も幸福だったか? 同じ行為であるのに、同意の有無によって結果が大きく異なるのは、不思議な気もした。

 映画のなかでゾンビの登場を待たなくとも、それは画面のこちら側にすでにいる。幸福な性行為は相手の同意がない場合にゾンビの襲撃へと変貌してしまうが、性的ゾンビである陽介が人間のように振る舞えているのは他者の同意があるからという一点にかかっている。逆に言えば他者からの同意を失ったとき、彼はもはや人としては振る舞えなくなってしまい、逮捕される巡査部長とおなじ暗い影の存在へと引きずり込まれていく。そのため彼は恋人を大切に扱い一見したところでは紳士的だが、結局のところ相手を性的対象としてしか捉えていない事実に変わりはない。その実証として、たとえば麻衣子が必死になって政治家になろうとしている理由を答えられない。そもそも自分のことに関してすらも、膝からなぜ公務員を目指しているのかと聞かれて答えることができず、問いを無視している。なにかを目指す動機という人格に関わる視点が欠けているのだ。それもそのはずで、陽介の世界には人格が存在せず、あるのはただ性的対象になり得るか否かという基準のみである。麻衣子の復讐や灯の行動がなかったとしても、そういう彼の在り方がすでに破局を用意していたのである。


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 お笑いサークルに所属しているものの変わり者として周りからのけものにされている陽介の友人に、膝という登場人物がいる。彼はある場面でラグビー選手だった陽介に向かって風俗について次のように語る。体を張って人の役に立っているという点では風俗も警察やラグビー選手と一緒だから自分は彼女たちを格好いいと思う、と。膝の言葉を露悪的ではあるが一理あると一瞬でも考えてしまったとき、人がラグビー選手になることと風俗に勤めることとの間にある決して埋められない溝は見落とされてしまう。
 前作『改良』では男性でありながら女装をして美しさを求める人物が主人公だったが、彼は女性になりたいのではなくただ美しくなりたいだけだった。そのことを理解しないで自分に都合のいい解釈をするバヤシコは「隠さなくても大丈夫だよ。オレ、変な目で見たりしないし。たぶんメチャメチャ理解とかあると思うし」という薄暮な言葉を告げた後に主人公をレイプする。膝の「格好いい」にはバヤシコの「理解」に相当する薄暮さがある。なぜなら膝には風俗に従事する女性たちが日常的な場でもたとえば痴漢といったかたちで性的な暴力の可能性に晒されている点を完全に失念しているからである。ラグビー選手や警官が晒される暴力は自分で望んだ有事の場においてはじめて生じるものであり、彼らの日常生活を脅かすことはない。対して風俗に勤める女性は電車でたまたま隣り合わせた男になにかされるかもしれないという恐怖に日常的に晒されている。しかも男性である私にはそれがどのような日常なのか理解することができない。痴漢という現実を頭で知ってはいても胸で腑に落ちるということがないのである。男性と女性との間にあるこの非対称性は決定的だ。この非対称性を念頭に置かないでラグビー選手や警官と風俗を並列する視点は明晰なようでいてその実なにも見えていない。
 過酷であることを承知で私はこう断言したい。男女の間にある非対称性に対して無自覚なまま膝のような視点を持った者は、たとえその一瞬であれ、性的ゾンビなのである。公共の空間でたとえば痴漢として、見えるかたちで現れた性的ゾンビに対して私たちは手段を選ぶことなく取り押さえようとする。この一見過剰ともいえる反応は、自分たちもまた一瞬であれ痴漢の側とおなじ性的ゾンビだったことがあるからこそ誘発されるものなのである。『記憶』のなかで犯人を取り押さえるのが男性だけだという点は見逃してはならない事実だ。彼らは自分たちでは正しいことをしていると思っている。しかし陽介もまた破局を迎える最後の瞬間まで自分は正しいことをしていると疑わなかった。作者は陽介のような性的ゾンビを描くことで男性的暴力を批評的に突いている。私自身も男性として作者の槍に刺し貫かれながら、正しいことをしてきたはずなのにいつの間にか罰せられる空間に進んで身を投じていく覚悟を持ちたいと願う。
 この覚悟を意識して作品の結末を繙くと、二人の警官(おそらく一人は巡査部長)に陽介が暴行の現行犯として逮捕されるという展開にはいささか唐突な印象が拭えない。性的ゾンビとして生きてきた彼が性の消費の対象としか見做していなかった女性に復讐されるという展開には必然性があるが、それはこのような唐突なものではなく、たとえば灯を性的に満足させられなくなった彼が自分の存在意義を失った状態で内省を突き詰めて迎えるような破局、非対称的にしか関係を結べていなかった「女性」という他者の人格に出会うことでもたらされるような破局であるべきではなかっただろか。あるいは陽介が唐突な暴力(たとえば謂われのない因縁からリンチされるなど)に晒された末に灯や麻衣子が日常的に経験している暴力に気づき、性的ゾンビであるみずからを自覚せざるを得なくなるような状態に陥り、性的ゾンビから蘇生することによって派生することで生じるような破局ではなかっただろうか。今作が巧みな構成に裏打ちされた秀作であることは疑いをえないが、私にどこか物足りない感じを受けさせるのは、決定的な他者との出会いに未だ到達できていないからである。作者には実力がある。構成が巧みな秀作に留まらず、世界に通用するような文学を著していただけるよう心から応援している。