いえばよかった日記

書評と創作のブログです。

ユーモラスな死の演習 多和田葉子『犬婿入り』について

 いずれ迎える死を内に抱えた人間はみな等しく死刑囚のようなものである。最期の瞬間をひとたび想像すれば、誰もが叫び出さずにはいられないような底の抜けた恐怖に襲われる。人が平気な顔をして通りを歩くことができるのは待ち構えている運命を見ないようにしているあいだのことであり、なにかの拍子に視線を上げてしまえば、もう精神を保つことはできない。では、避けられない死を前にしながら健康でいるためにはどのように振る舞えばよいのか。一つは、フロイトが大洋感情と呼んだ宗教によって現実に対する態度であり、神という超越者を信じることによって現実の悲壮さを克服する方法である。では、神を信じることがついに叶わなかった者にはどのような方法があり得るのか。この点についてフロイトは、『ユーモア』という論文のなかで、月曜日に絞首台に引かれていく罪人が、「ふん、今週も幸先がいいぞ」と言ったという話を例に引いて論じている。
 この罪人はこの科白を言うことによって、自分が置かれている外的現実から逃れており、悲壮な現実と別の現実をつくり出している。このようなユーモアは、心理的アクセントを自我から引き上げ、それを超自我の方に移転する。超自我にとって、大人から見た子供の悩みがそうであるように、自我の怯えや悩みなど取るに足らないような小さなものに映る。そもそも超自我とは、自我の両親への同一化によって形成されたものであり、自我にとっては強大な力を持った親として君臨する。この超自我は、自己の形成過程で独自の位置を占め、破壊的で残忍で口やかましい、内的な法として働くようになる。しかし、自我と超自我の配分を超自我の方に移すという方法=ユーモア的態度によって、自我にあった視点を超自我の方に移動させることで、子供の目からではなく、怯えた子供を見る大人の目から現実に対峙することが可能になるという。超越者に依拠することなく、超自我を介した自己のテクノロジーによって、新たな現実を作ることにユーモア的態度の本質が宿っている。そしてこのような自己のテクノロジーを用いることができるとき、私たちは人間であることの運命を、威厳を持って乗り越えていくことができるのである。
 以上は自身も精神分析医である十川幸司による優れたフロイト読解、『フロイディアン・ステップ』からの引用だが、ユーモアによって、いずれ死を迎えるという悲壮な現実とは別の現実をつくる方法は、精神分析に限らず可能なのではないだろうか。その一つの例示として、多和田葉子の『犬婿入り』を挙げたい。

 本作の中心人物、北村みつこは登場時から常に「汚れ」のイメージを付着させられた、どこか浮世離れした美人で、父兄のあいだで憶測と空想をはらんで豊かに膨らんだ噂を流布させる。昔はヒッピーだったのではないか、催淫剤を販売していたのではないか、テロリスト指名手配のポスターに写っていたのではないか……。そんな彼女がひらく<キタムラ塾>は子供たちから<キタナラ塾>と呼ばれており、由来として、先生が披露したと子供たちから母親に伝聞された話が羅列される。たとえば、鼻をかんだちり紙でもう一度鼻をかめばやわらかくて暖かくてシットリして気持ちがいい、そうやって二度使った鼻紙をお手洗いでお尻を拭くのに使えばもっと気持ちがいいと先生が言っていて、実際にその習慣を実践しているという話や、先生が紹介した、お姫様の世話をすることになった面倒くさがり屋の女が、お姫様が用を足したあと、自分の仕事を省くために黒い犬にお姫様の尻をきれいに舐めさせたという民話などがそれである。さらに、北村みつこが作中で最初に言及されるのは、彼女が塾の広告のために貼った古いポスターを介してであり、そのポスターは雨に濡れ、鳩の糞にまみれ、変色して中身が見えないようなありさまになっている。汚くて誰も触りたがらないから電柱に残っているというのだが、この時点からすでに北村みつこは「汚れ」と重ねて語られているのである。さらに、「子供は<エッチなこと>と<汚いこと>の区別がつかない」という一文から、「汚れ」のイメージが性的なものと結びついていることが示唆される。太郎と名乗る犬のような男が唐突に現れみつこがレイプされる場面がこの段階でほのめかされているのである。
 太郎が登場する場面は、ユーモアを基調とするこの作品のなかでも特にユーモラスに描かれており、出来事の悲惨さとは無縁に並外れて明るい。つまり、悲壮な現実を克服して別の世界をつくり上げることに成功している。男はみつこを襲った後でもやしを炒めて料理をつくり、床に雑巾をかけて部屋を掃除する。リズミカルに動く尻の筋肉を見てみつこは思わず笑ってしまう。この笑いが強い。この笑いによって微かに緊張を孕んでいた場面は一気にモードを変え、ユーモアによって、現実を変容させていく。太郎によってもたらされたこの変容はみつこの身にも影響を及ぼす。朝は寝て夕に起きて料理をつくり、掃除をして、日が暮れてからは長い散歩に出かける太郎は、帰宅すると一晩中みつこと交わることを求めてきたので、次第に生活リズムが彼に支配され、朝起きれなくなり、顔を整える暇もなくなって、生まれて初めて自分の顔を醜く感じる。しかし、太郎は顔には一向に頓着しない。太郎が執着するのはみつこの臭いで、膝に顔を埋めては一時間でも二時間でも臭いを嗅いで過ごすのである。太郎に感化され、みつこは自分が驚いているときや喜んでいるときに違う体臭を発していることに気づくようになり、臭いに敏感になっていく。というより、臭いで判断しないと自分の感情が正確にはわからないような体質に変貌してしまう。
 みつこに変化をもたらした太郎は、もともと会社員で、フルネームを飯沼太郎といい、塾生の一人の母親である折田さんの夫と同じ会社に勤めており、職場で知り合った良子という女性と結婚していたのだという。それがしばらく前に失踪してしまい、いなくなった夫をいまも妻が探しているのだという。折田さんの提案を断れず、みつこは良子の訪問を受ける約束を取りつけられてしまうのだが、現れた良子は夫には一切の関心を示さず、その日は特に話の進展もないまま引き取る。帰り際に一人で良子の部屋に来るように言われたみつこは、断る機会を逸して言われるまま部屋を訪れ、そこで太郎がいまのようになった経緯を聞かされる。
 小狐を思わせる良子の部屋からはあぶらあげの臭いが絶えず漂い、それが夫を苦しめていた。良子の方でも気弱な太郎に苛立ちを感じており、いずれにせよ遠からず離婚していた二人だった。ある日曜日の午後、夫婦が町にあたらしくできたレストランに足を運んだ帰りに、林道を歩いていたところを太郎だけが野犬の群れに襲われてしまう。潔癖症で気の弱かった太郎が変貌したのはその事件からで、身体中を噛まれた彼は意識を取り戻すと言葉を話さなくなり、苛立ってちなじる良子の元を去る。それからは近くの公園に出没しながら、徐々に身体が逞しくなり、動物めいた生態を手に入れていったのだった。良子は「あの人、もう、わたしの夫の飯沼太郎ではないんです」とみつこに告げる。野犬に襲われた一件を機に、飯沼太郎だった人物は死を遂げ、犬のような男・太郎として再生したのである。このような復活が可能となるのは、作中人物を上から俯瞰する、超自我のような語り手によるところが大きい。語り手のユーモラスな語り口によって、この奇想は実現するのである。

昼さがりの光が縦横に並ぶ洗濯物にまっしろく張りついて、公営住宅の風のない七月の息苦しい湿気の中をたったひとり歩いていた年寄りも、道の真ん中でふいに立ち止まり、斜め後ろを振り返ったその姿勢のまま動かなくなり、それに続いて団地の敷地を走り抜けようとしていた煉瓦色の車も力果てたように郵便ポストの隣に止まり、中から人が降りてくるわけでもなく、死にかけた蟬の声が、給食センターの機械の音が、遠くから低いうなりが聞こえてくる他は静まりかえった午後二時。

 注意深く観察すれば、語り手の奇妙さはこの冒頭の一文から如実に現れている。「昼さがりの光」が洗濯物だけでなく長いセンテンスのなかにあるすべてを等しく照らす様からこの作品ははじまるのだが、この長い一文は公営住宅を含んだ平凡な町の一画を描写しつつも、蛇のようにうねる異様な文によって、平凡な光景を一種の異界に化かしている。作者の手つきをみると、長い形容詞の後に名詞が来る文、一つの主語に対して二つの動詞が来る文、三つの名詞が一つの動詞にかかる文、これらの連なりによって冒頭の長い一文を構成しており、常識的な構文を崩していくことによって、平凡なものの異様さを浮き彫りにするレンブラントの照明のような「昼さがりの光」が作品世界に射すことを企てている。この光は一種の超自我として作品世界を操作する。冒頭の情景をみてみると、老人は歩みを止め、車は停車し、風は吹かず、洗濯物も揺れることをやめ、すべての動作が停止した七月の気怠さのなかに物音だけが響く世界が展開している。動作がないとは時間の流れの停留を意味しており、語りが恣意的に時を止めてしまっているのである。そうかと思うと、団地に住む女たちの様子が、常識的には考えられない視点で、俯瞰的に描かれはじめ、女たちの動きに少し遅れる形で時間が流れはじめる。北村みつこの手による道端の貼り紙を足がかりに時間は過去へ遡り出し、話の主題となる<キタムラ塾>と北村みつこが登場する。このような手つきからわかるのは、この語り手が童話作者が童話のなかの登場人物を操作するように、あるいは大人が子供を眺めるようにして、作中人物に関係しているという点である。しかもその関わり方の基調はユーモアなのである。

 北村みつこは最後、シングルファザーに育てられ、家庭環境が原因でいじめを受けている扶希子という少女を連れて夜逃げする。太郎を捨て、唐突に<キタムラ塾>を閉鎖してしまうこの行動は一種の死を連想させるものであるが、死につきまとう悲壮さとはどこまでも無縁であり、人間の運命に対して人をくったような威厳を示している。民話的なこの結末はフロイトが引いた死刑囚のユーモアにどこか通じ、このような民話的感覚で死に対処することができれば、宗教とは別のかたちで人間の悲壮な運命を受け入れることができるようになるかもしれない。この作品は読者にとってユーモラスな死の演習なのである。