いえばよかった日記

書評と創作のブログです。

批評の課題——柿木伸之『燃エガラからの思考──記憶の交差路としての広島へ』書評

 この文章は柿木伸之『燃エガラからの思考──記憶の交差路としての広島へ』の書評として、ある媒体のために2022年9月に書かれたが、相談の上で没としたものである。時事や政治を語る準備が不足している状態でベンヤミンを応用した専門家の思考にふれたとき、対象の強度に自分がついていけていないと判断したためだった。あれから一年が経ち、一巡りした季節が自分を柿木の思考の強度に追いつかせたとはまったく感じられないが、当時を見直すために公開する。
 2022年9月当時は殺害された元首相をめぐり、法的根拠の曖昧さが指摘される中で国葬が強行されたことで議論になっていた。この書評は当時のそのような時事を背景としている。

 石原吉郎パウル・ツィラーン、原民喜、殿敷侃、そしてベンヤミン。本書において引用されるのは、みな歴史的経験によって生存を脅かされ、多くは自死に至った者たちである。各々の経験は第二次世界大戦中のものだという共通点を挙げられるものの、それぞれにまったく質の異なる出来事だった。本書が示す批評の力は、それらに布置を見出し、まったく質の異なるものの連帯を描き出す点にある。

 星の一つひとつは小さな光でしかない。それらが結び合わさって星座を描いたとしても、けっして大きな光になるわけではない。それでも、人は星座を媒体として無数の物語を紡いできた。物語を意味するドイツ語「Geschichte」は同時に歴史をも指し示す。芸術でもあるような優れた物語は、途方もない彼方にある歴史を今ここに蘇らせ、質において無限に差異があるものの間に布置を見出す。あるいは逆に、時間の瓦礫の中から犠牲となり忘却された死者の歴史を掘り起こすことで、過去と現在が物語のように地続きに連続している事実に気づくことができる。

 たとえば、一九三九年、植民地主義の横行を背景に列強へ連なろうとしていた日本が行った中国空爆には、国葬を強引に推し進めた現在の権力と同じ心性がある。吉見俊哉空爆論』によれば、一九三九年の日本軍の空爆は無差別的である一方、決して中国都市内にある欧米各国の施設へ被害が出ないよう慎重に調整されていた。それは損害を出すことで欧米各国から「野蛮人」との誹りを受ける事態を避けたかったからである。

 

日本は、その「文明」をもって「野蛮」の側に位置づけていた中国人社会を平気で蹂躙したが、しかし自分たち以上に「文明」の側にいることが明白だった欧米社会から「野蛮」の側に位置づけられることを怖れ続けたのである。

吉見俊哉空爆論』、岩波書店、ニ〇ニニ年、62頁

 

 「文明」と「野蛮」の間に引かれた恣意的な線は、そのまま宗主国と植民地との分断線に重なる。自分を「文明」の側に位置づけそのことをなんとしてでも強者に認めてもらおうとする日本の心性は、植民地主義の産物以外の何物でもない。良心のある人にとっては灼熱の羞恥で頬を焼け爛れさせるような心性だが、前述の通り、これは戦中の遥か昔にだけあったものではない。現在にも地続きに連続しているものである。それは、明確な規定のないまま恣意的な忖度によって特定の政治家の国葬を決定し、海外から招いた要人の社交辞令による賛辞を間に受けてみせることで、その政治家が築いた長期政権下に没していった、無数の、無名の人々を忘却する側に自身を位置づけようとする現在の心性と重なるだろう。その心性は、空爆を行った上空からの視線に自身のそれを重ね合わせようとする姿勢だとも言える。中国空爆において日本軍が見せた卑屈さと同じものが、現代日本の各地でグロテスクに再演されているのだ。本書において、柿木はこのような姿勢を「大勢順応主義(コンフォーミズム)」として批判の俎上に上げている。

 柿木の「大勢順応主義(コンフォーミズム)」批判は、まず、それが石原吉郎のいう「計量的発想」と同根の思考によって成されている点を指摘するところから始まる。

 

私は、広島告発の背後に『一人や二人が死んだのではない。それも一瞬のうち』という発想があることに、つよい反撥と危惧をもつ。一人や二人ならいいのか。時間をかけて死んだ者はかまわないというのか。戦争が私たちをすこしでも真実に近づけたのは、このような計量的発想から私たちがかろうじて抜け出したことにおいてではなかったのか。

石原吉郎『海を流れる河』花神社、一九七四年、11頁

 

 「計量的発想」を広島に関する文脈から切り離して敷衍するなら、アメリカを含めた欧米各国を恣意的に「文明」の側に置いた上で、彼ら強者からのお墨付きをもらおうとする心性もまた「計量的発想」にもとづいたものである。そうである限り、現代には石原がいう「広島を『数において』告発する人びと」のいる光景が広がっているのだ。あるいは、強者からのお墨付きを求めてしまう気持ちがどこかにある限り、僕たちは誰もがいくらか「広島を『数において』告発する人びと」と同じ顔つきをしているのかもしれない。そして、「広島を『数において』告発する人びとが、広島に原爆を投下した人とまさに同罪であると断定することに、私はなんの躊躇もない」(注1)。

 石原の厳しい告発は僕たち全員の顔に照準を合わせている。本書において、柿木は栗原貞子やテオドール・W・アドルノらに共鳴しながら、このような石原へ応答を試みている。その際に参照されるのはベンヤミンのテクストである。

 「大勢順応主義」によって権力の座を占めた「支配階級」は、権力の犠牲となった人々を捨象した上で、「原爆を投下した上空」からの視線に自身のそれを重ね合わせつつ「神話としての歴史」を書き散らしていく。ベンヤミンはこれに対し、時系列に沿うような整頓されたものではあり得ない死者一人ひとりの生きた出来事を刻んだ「伝統としての歴史」を対置しようとした(注2)。「支配階級」は「伝統としての歴史」に介入を試み、死者たちの記憶を受け継ぐことそれ自体が「支配階級に加担してその道具となってしまう危機」をもたらすことでこれを弾圧しようとする(注3)。よって、「伝承されてきたものを抑圧しようとしている大勢順応主義の手からそれを新たに奪取すること」で、「支配階級」の暴力によって「抑圧された者たち」一人ひとりが経験した出来事の記憶が呼び覚まされなければならない(注4)。そうでなければ「死者たちまでもが安全ではない」のだ(注5)。

 「死者たちまでもが安全ではない」窮地に追いやられる支配階級の暴力は法において顕現する。国葬はその端的な例である。法的に明確な規定がないまま強行された国葬は、特定の個人を神話化することで、権力の犠牲になった死者を忘却の淵に落とし込む。同時にそれは、新自由主義的な価値観を推し進め人々の生存を脅かした政治を検討することなく、今後もそれを維持していくためのセレモニーなのだ。思えば、<このまま何も変わらないこと>こそが破局であると断じたのもベンヤミンだった(注6)。ベンヤミンは、このような法において現れる暴力を、法そのものを立ち上げる一撃(法措定的暴力)と法を維持する暴力(法維持的暴力)として分析した末、それらを「神話的暴力」と呼んで検討していく。この「神話的暴力」に抗い、暴力の停止を命じる力を、ベンヤミンは翻訳、および引用に見出していくことになる。具体的にみていこう。

ベンヤミンにとって翻訳とはけっして二次的に「外国語」を知らない読者を補助する手続きではなく、言語自体の生成の運動である」と柿木は宣言する(注7)。ベンヤミンにおける言語は、本来「日本語」や「ドイツ語」のように一個の言語として硬直するものではなく、他の言語との応答関係の中で生成し続ける。「このとき人間は、遭遇する事物の一つひとつの言語に呼応し、それを名づけていく。ここに人間の言語が生まれる。翻訳とは、世界との照応のなかから一つの言葉が発せられる出来事なのである」(注8)。この出来事において、死者のように異質な他者の言語に沈潜し、その細部に寄り添うことで、自明に用いてきた自国語を内部崩壊させるような「字句どおり」の翻訳が可能となる。「字句どおり」の翻訳は言語を円滑な情報伝達の手段であることから解放し、異質で破壊的な言葉遣いを編み出していく。そうして、人を組み込み整備していく銃器としての法の言葉に対し、内部に宿した芽をのばしてそれを機能不全に陥らせることができるのが「字句どおり」の翻訳なのである。

 引用もまたこれと別のものではない。「カール・クラウス」において、ベンヤミンは、一つの言葉をもとの文脈から引き剥がすことで、その言葉自身を響かせるクラウスの引用に注目する。このような「引用のうちには天使の言語が映し出されている」(注9)。ベンヤミンにとって歴史哲学を体現するものである「天使」とは、死者たちを一人ひとりその名で呼び、過ぎ去った出来事を瓦礫のなかから一つひとつ拾い上げていく存在である。「引用」とは、死者をその名において呼び、今ここに召喚することである。「引用」の中で、その名と共に呼び覚まされた死者の言葉は、死者の記憶を宿した舞台となる。引用者を含め、その言葉にふれた者は、PTSDの患者がフラッシュバックに襲われるようにして記憶の光に刺し貫かれるのである。このとき、言語は公的で整頓された「日本語」ではありえないものとして、死者の閃光によって破壊される。ここでは、法を含めた権力による神話こそが危機に陥れられるのだ。

 柿木は、原民喜をはじめ、石原吉郎栗原貞子パウル・ツィラーン、そして殿敷侃らを引用し、死者たちと共にある言葉を丁寧に綴っていき、神話にとっては破壊的なそのような言葉を植民地主義に寄生された人々へ突きつけている。これはベンヤミンのいう神的暴力を目指して実践された批評でもあるだろう。同時に本書は、植民地主義を内包する「大勢順応主義」に飲み込まれ生存を脅かされている僕たちに、死者たちとの連帯こそが生き延びる術となることを示す試みでもある。詩を含めた文学に限らず、美術や音楽といった諸芸術には、神的暴力でもあるような死者たちの記憶が刻まれている。死者たちの「強い沈黙としても現われうるこのような力を、芸術作品を成り立たせる内実として構成し、伝えるのが、言説としての批評の課題である」(注10)。

 批評は、失われてしまった文脈や作品背景を解きほぐし、芸術における根本的な生の肯定を噛みしめる。批評は、人間の生存を脅かすものに抗うような芸術作品を分かち合い、人々を生きることに踏みとどめる活動でもある。批評の仕事は、芸術との緊密な恊働により、作品と人々との架け橋になることで、歴史の裂傷を抱えつつも本質において生に引かれた文化を樹立する。このような営みに連なることを今の僕は求めている。

 

 

 

(注1)石原吉郎『海を流れる河』花神社、一九七四年、13頁
(注2)「神話としての歴史」と「伝統としての歴史」については柿木伸之『パット剥ギトッテシマッタ後の世界へ』インパクト出版会、ニ〇一五年を参照
(注3)ヴァルター・ベンヤミン「歴史の概念について」、山口裕之編訳『ベンヤミン・アンソロジー』、ニ〇一一年、364頁
(注4)前同
(注5)前同
(注6)ヴァルター・ベンヤミン「セントラルパーク」、浅井健二郎編訳『ベンヤミン・コレクション1』筑摩書房、一九九五年、403頁
(注7)柿木伸之『燃エガラからの思考』インパクト出版会、ニ〇ニニ年、115頁
(注8)前同
(注9)ヴァルター・ベンヤミンカール・クラウス」、山口裕之編訳『ベンヤミン・アンソロジー』、ニ〇一一年、163頁
(注10)柿木伸之『燃エガラからの思考』インパクト出版会、ニ〇ニニ年、99頁