いえばよかった日記

書評と創作のブログです。

兄弟に寄せるふたこと


    1

 

 実家を出てひとり暮らしをはじめてからしばらく経つが、我を失った寝起きの頭が、かつて部屋にあった子供用の二段ベッドにいると錯覚し、弟の気配が下にないのをあやしむときがある。そういう朝にはホームシックとまではいかないが、感傷的な気持ちで胸がいっぱいになって、赤子の頃に母のおっぱいをあてがわれたような満足を覚え、母が好きだった荒井由実をかけてみたり、音楽のやさしさに誘われて微睡みに引き戻されたり、つかの間に覚醒を取り戻し垂れていた頭を起こしたりする。こういう様を船を漕ぐというが、眠りと目覚めで振り子を描く当人に意識がないわけでもないものらしく、黒い海に浮かぶ船の中、曲がりくねった細い通路に立つ自分と出会った。そこには彼の他に、夢特有の理論から殺人犯だとわかる男がいて、目の前に立ち塞がっていた。刈り上げの頭に残った毛先を金に染め、目尻の下がった一重の瞳でこちらを待ち構えている。
 逃げなければ殺されるかもしれないのに、筑井和人は対峙した相手に兄弟へ向けるような視線を与えている自分に気がついた。これから彼はこの男と揉み合い、汗と血にまみれることになる。荒い息の交差が頂点に達し、格闘の末、死ではなく何かあたらしいものが生まれるのではないか、そんな予感が恐怖から和人を解放してくれていた。さあ、来るんだ、と彼はつぶやく。男の影が彼に覆い被さり、いつの間にか、外から二人を眺めている彼は小さな子どもになっていて、乱闘の中にある兄弟から目を逸らすと、そこは母方の祖父母の家で、闘いとはほど遠く、祖父の寝室に布団を敷いて横になっていた。お父さんお母さんに用事があって預けられたんだ、と和人は思った。お母さんの方のじいじとばあばのお家に泊まらなくちゃいけないんだって。用事っていうのはね、三つ年の小さな弟のシュッサンだった。シュッサンて、お母さんのお腹から生まれてくることなんだって。人間がお腹から出てくるなんて、変なの! じいじの部屋では梁に掛かった七福神のお面が和人を見下ろしていた。右手の梁の下で窓が月に明らみ、お面に微かな陰影をつくり、不気味な表情を浮かべさせている。幼い和人の目には七福神は鬼だった。
 怯えを孕んだ連想からだろうか、彼の意識は枕の先の障子へと向けられていた。障子の奥は書斎になっていて、祖父の机と資料や本が棚に並んでいる。そのどこかに出刃包丁が隠れていて、ぼくが寝ているあいだに誰かがそれを取りにくる。ぼくは喘息で身体が弱いから、間引きするためにここへ来るんだろう。弟の方ができる子だから、間引かれて当然なんだろう。心失者には育てる価値がないそうだ。ほら、足音が聴こえてくる。きっと鬼の仲間だ。廊下の板を鳴らして、左手の襖を開けて、ここへやって来るんだろう。いや、もうすぐそこまで来ているんだろうか。足音は徐々に徐々に近づき、間もなく部屋の襖を開いて、暗闇を背後に従えた鬼の面がぬうっと現れる……
 たわいもない夢にようやく別れを告げた和人は、眠りに引きずられた目を辺りに彷徨わせ、布団で寝ていた割にはずいぶん天井が近いと思ったり、茶色いはずの畳がどうも白っぽいなと感じたり、簡素な祖父の部屋にしては物が多すぎると訝しんだりして、親しんだ部屋にいる自分を見出すまで愉快な混乱を味わった。つかの間とはいえ、この瞬間の彼は子供でも成人でもなく、ベッドとフローリングの我が家にいながら同時に祖父の元にいた。事物AはAでしかないという確固たる現実にヒビを入れていたのである。こういう体験の後では現在という揺るぎない概念はあやしくなって、眠る前と起きた後でも世界が地続きであり、身を起こした途端に別の人間になったり、中世や原始の時代を生きていたり、過去のどこかで訪れた民家や宿が立ち現れてくるようなことはないと確信できなくなる。そういえば、プルーストの小説にも似たようなことが書いてあった。事物の不変性は、われわれが事物の不変性へ向けた根拠のない信頼によって成り立っているのではないだろうかというようなことが。何かの拍子にそれを信じられなくなり、ついに信頼を取り戻せないようなことがあれば、世界はアメーバーのように掴みどころのない変幻自在な姿を現すかもしれない。
 起きあがった彼は親しんだ部屋に自分がいることをまだどこか納得できない気分のまま、日常の家事に取り組んだ。昨晩の洗い物を片づけ、溜まった洗濯物を回し、掃除機をかけるかどうか迷いながら寝起きの混乱を振り返り、あの夢がなんだったのかとフロイトの真似事をはじめる。どうにも気がかりな夢だったのである。もう半ば内容を忘れてしまっているが、あの夢は錨のように僕を夜の意識へ留めようとする。出刃包丁が出てきたという記憶の残滓が朧げに脳裡に浮かび、最近、硬いカボチャを切ろうとしたら包丁の刃が欠けたので新しいものを買った、そのことと何か関係があるのだろうかと疑った。古い包丁はなんとなく捨てにず取ってあり、台所の棚に眠っている。少し錆びた安物のこの包丁には、もう価値がない。そもそも使い出した当初から切りにくいと愚痴ばかり溢していたくらいで、愛着のある道具というわけでもない。それを無能な自分になぞらえて親近感を持つ趣味も和人にはなかった。それなのに捨てずにいるのがなぜなのか、自分でもよくわからない。
 新しい包丁は安いのによく切れた。ステンレス製で錆びることもない。柄の部分と刃とが一体で、銀一色の見映えもいい。カボチャの皮も平気で通り抜ける。勢い余って小指の端に赤い線まで走らせた。深い怪我ではないが地味につづく意地の悪い痛みが残った。和人は小指に絆創膏を巻き、前のやつなら手に当てたとしても無傷で済んだのにと思った。価値があることも考えものだ。
 掃除機を断念した彼は紅茶を淹れ、焼いたパンをカップに浸しながら考えた。今朝の夢は今年の正月に祖父母の家で行われた親戚の集まりを元にしたもので、祖父母のところへ向かう前に実家に帰っていた僕は、今みたいに紅茶を飲みながら本を読んでいた。居間の炬燵に寝転び、長大さで知られる小説の一巻目を楽しんでいると、出かける準備をしなさいという母親の声に読書を遮ぎられた。
——おじいちゃんのところに行くんだから、そんなだらしない格好じゃダメよ。早く着替えてきて。
 しぶしぶ本を置いて立ちあがり、クローゼットのある二階へと階段を登った。母には逆らえない。踊り場でくの字に曲がり、パジャマを脱ぎながら一年ぶりに会う祖父のことを考える。九十を迎えた祖父は去年のあいだに大きな手術と親しい友人の死とをいっぺんに経験していて、気力も体力も衰えをみせているらしい。そういえば、踊り場の小窓にかかっていたレースのカーテン、花柄の上品なあれは祖父から贈られたものだと聞いている。カーテンに濾過された夕陽が木漏れ日のような模様を持ち、何かを求めて踊り場の床を彷徨っていた。光はゆらゆらと儚げに泳ぎ、右に迷っては左へ傾き、僕が通り過ぎても小波ひとつ立てることなく漂いつづけた。着替えを済ませて再び踊り場に差しかかると、木漏れ日はついに何かを見つけたのか、そっと姿を消していた。暮れになって日が沈んだのである。
 一階では夕飯の約束に間に合わくなるという母の声を号令に、父と弟がバタバタしはじめていた。父はエンジンの調子が悪い車を調教するために先に出て、せっかちな弟がそれにつづく。先ほどまでだらだらしていたのが嘘のようである。残った和人と母が荷物をまとめて玄関に差しかかると、靴を履いているときに母に呼び止められた。
——病気のこと、おじいちゃんに言わないでね。友達が亡くなったってナーバスになってるのに、孫がパニック障害で休職してるなんて聞いたら、おじいちゃん卒倒しかねないわよ。
——わかってるよ、と彼は答え、母と共に車へ乗り込んだ。


 免許を持たない和人にとっては久しぶりの乗り物だった。四角い鉄の塊に閉じ込められて過ごす到着までの四十分を耐えられるかどうか、彼には確証がなかったが、幸いにも父の運転に身を委ねることは身構えていたほどの苦痛にはならなかった。むしろそのとき彼が感じていたのは懐かしさだった。家族のお喋りを離れ、発作を起こさないようひとりでじっとしていた彼は、夢に出てきた幼かった頃にも同じような姿勢で窓にもたれ、テールランプの赤い尾を長く溶かしていく対向車線の残像たち、順に背後へ飛んでいく等間隔に並んだ街灯、遠くに見えるショッピングセンターの宇宙船のような輝き、ネオンの煌めき、そんな光景を眺めては幼い空想を逞しくさせていた。あの頃の僕にとって車に乗るとはワクワクした冒険の予感に飛び込むことだった。ところがそんな記憶と重なるようにして、現在の僕の瞼には大学を出た後に入った会社での仄暗い場面がこびりついている。たとえば深夜の一時に椅子を蹴られたときの衝撃や、上司の罵声や、帰りの電車で肩をぶつけてきたサラリーマンと喧嘩したことや、相手も僕も青白い疲れた顔をしていて、頬を二度も殴られたにも関わらず最後には相手への同情だけが残ったことや、その一件以来プラットホームに立つと激しい動悸に襲われるようになり、奈落を覗いて身が竦むときのような感覚が治まらなくなったこと、こういう諸々の苦い味が喜色に染まった過去を浮かべるあいだも舌の上に居坐るせいで、とてもではないが家族に交じって思い出話に興じる余裕はなかった。
 今の和人には、無表情で不気味な人混みが虫の群生めいた稼働をくり広げる駅は巨大な暴力だった。血管のように路線を張り巡らせた東京全体はひとつの獰猛な獣だった。心療内科に通うようになって悟ったのだが、彼のような症状に苦しむ患者はそれこそ虫の数ほどおり、彼らの存在そのものが行き過ぎた資本主義の加速に軋む人間の悲鳴のように聞こえてならなかった。もちろんこの社会を構成している大多数は健康で、世のスピードについていける者たちであり、そういう彼らは日本の首都に福を見るだろう。一方で同じ場所を鬼と見る者もありふれるほどおり、パニック障害の発症はたまたま後者の日陰に入ってしまったというだけのことなのだが、そのおかけで敬愛する祖父に余計な隠し事をせねばならないのがやりきれなかった。できれば祖父には嘘をつきたくなかったのである。
 祖父母の家には叔父一家が先に来ていた。新年の挨拶もそこそこに、叔母さんと祖母が立っていた台所に母が加わり、九人分の夕飯を用意しはじめる。もたもたしていた我が家の到着は夕方の五時を過ぎていて、七時に出前を頼んだという寿司までに時間がなかったのである。そんな様子をよそに叔父と従兄弟のヒカルと弟は和室に入って炬燵を囲み、父はタバコを持って外に出ていた。父は家の中で吸おうとして母に睨まれ、肩身が狭いと祖母に愚痴りながらたった今通り過ぎてきたばかりの玄関に向かったのだが、妻の親とそんなに気安く話せる立場のどこに肩身の狭さがあるのかと、喘息のある和人は思う。いずれにせよ、結果的には女性だけが台所で働いている。誰もそのことに異議を立てない違和感から手伝いに行こうとすると、背中から祖父に呼び止められた。
——かずくんは最近、何してるの?
 思わず祖父の顔を見た。知っているのだろうか? あくまで紳士然とした祖父からは何も窺い知ることはできず、細い顔から真意を汲もうとするのは壁のシワからものの輪郭を読み取ろうとするようなものだった。微かな模様をその気になって見つめれば、なんでも描くことができてしまう。
 彼は辛うじて語学の勉強をしていると答えることができた。幸い、それは嘘ではなかった。復職が叶わない場合に備え、資格を取ろうとしていたのだ。祖父には状況だけ省いてそのことを伝えた。
——何かの役に立つかもしれないし、本が好きだから原文を読めるようになりたいんだ。
——そう、それはいいね。私もね、若い頃はずいぶん勉強したよ。銃後はやっぱりアメリカが強かったし、技術の仕事に就いていたから英語ができないと話にならなかったんだ。それで、かずくんからしたら曽祖父にあたる私の父に頼んで、参考書をどっさり買ってもらってね。当時はそういう本は高かったけど、高い本を買う気前の良さもみんな持っていたんだね。今は異口同音に節約節約だけど。
 祖父は饒舌に語る言葉で背を押して、台所に向かおうとしていた和人をリビングに引き戻し、そのまま和室の集まりに引き込んだ。
 すりガラスの引戸を開けると、和室では長方形の炬燵を隅に立てかけて、中央の空いたスペースに左から叔父さん、いとこのヒカル、弟の順で並び座禅を組んでいた。
——何やってるの? と祖父が呆気に取られる。
——おとうさん、マインドフルネスですよ。シリコンバレーではこれが大流行しているんです。脳が活性化して仕事の効率が上がるんだそうですよ。
——よくわからないけれど、とりあえず炬燵を戻しなさい。
 三人は言われた通りにして、新参者二人を迎え入れた。
 あらためて炬燵を囲む。祖父と和人は和室の入口から一番近い辺に並んで腰を下ろし、和人から見て右に弟、対面に叔父さんとヒカルが座った。
——おとうさん、お酒でも飲みますか? と誘われた祖父は、身体に障るからと言って断った。叔父さんは——そうですか。ではテレビでもつけますか、とリモコンに手を伸ばす。夕方のワイドショーが東名高速帰省ラッシュがはじまったと告げていた。
——無事に名古屋に帰れるか不安になってきた、とヒカル。——おとうさん一人の運転だからね。早く免許を取ればよかった。
 ヒカルはたしかようやく今年、成人式を迎えるはずだった。薬学部に通っていて、六年制の大学だからあと四年は学生でいられた。そんないとこが和人には羨ましかった。
——勉強で講習場に通う余裕なんてないだろう。大学の学費は高いんだ。四年制の倍はかかる。ちゃんと卒業して薬剤師になってもらわなきゃ困るんだからな。
——わかってるよ。卒業してちゃんと稼いで、車でも家でも買ってあけるよ。
——別にそんなものいらないさ。ただちゃんとやってもらいたいだけだよ。
 親子の会話をよそに、テレビは次のニュースに移った。
 相模原殺傷事件の犯人が法廷に立つ姿が絵になって画面に提示されている。傍らのアナウンサーがはじまった裁判についての説明をした。相模原にある障がい者福祉施設で、元職員の男が深夜、施設に侵入し、寝入っている入居者を次々と殺害したこの事件、大和市で一人暮らしをしている和人にとっては目と鼻の先の出来事で、酸鼻を極めた血腥さが部屋まで届いてきそうに思えた。喘息だった和人には気になっている事件だ。
——新聞は毎日欠かさず読んでいるんだけど、私の歳になるとどうにも世間に疎くなってねえ、どうしてこんな事件が起こるのかまるでわからなくなる。犯行は許されるものではないけれど、犯人の考え方に共感できる部分がまったくないわけでもないという声もあるそうじゃないか。私にはそれが信じられない。
 祖父がそう言うと、
——「障がい者には生産性がないから」というのが動機だとか言ってましたね、と叔父さんが応えた。
——生産性というのが私にはわからないんだ。大戦前は生産性なんて誰も考えなかった。生産性というのは私には戦中のスローガンみたいに聞こえるよ。誰ひとり怠ることなくひとつの目的に向かおうというのは、それが誤った目的のためならとんでもないものになる。でも一部とはいえ、昔は老人の知恵や経験が間違いへのブレーキになった。大戦に勝つためにも彼らの言葉は必要だったけれど、その言葉の中に世の中の流れを止めようと抗うものもあったんだ。老人は武器になったんだよ。今じゃあたらしい技術や文化が盛んに生まれて、ついていけない年寄りには立場がない。生産性がないから標的にされるなら、私みたいなおじいちゃんも殺されなきゃならんね。
——介護の現場はそれこそ戦場めいているそうじゃないですか。ストレスと疲労のあまり頭のネジがどうにかなるっていうことはあり得ないわけじゃないんでしょう。そういう意味では犯人にも同情すべき点があるのかもしれないと僕は思いますよ。もちろん殺人を肯定するわけじゃないですけど。それに擁護するわけじゃないですけど、僕は少なくとも子供たちには健康でいてほしいですよ。生産性だろうとなんだろうと、ないよりはあった方がいいに決まっている。元気で働けるのはいいことですからね。
 つづけて叔父さんは薬学部に通う隣の息子に顔を向け、
——それに薬剤師になろうってやつが不健康じゃ困る。ヒカルには頑張ってもらわないと、と言った。
 わかってるよといういとこの声を聞きながら、和人の脳裡に浮かんでいたのは、「生産性」というなら僕も祖父と一緒に殺される側の人間に入っているということだった。喘息に苦しんでいた頃、自分には価値がないと、僕自身がそう思っていた。母の顔と思い出したくない記憶が浮かびかけ、彼は慌てて意識を逸らした。
——かずくんはどう思うの?
 と、祖父がまっすぐな目をこちらに向けてきた。彼はぎくりとした。秘密を脅かされる不安が風船のように膨らんでいき、破裂する瞬間を思って余計に大きくなり、脇の下に気持ちの悪い汗が滲んできた。この場で発作を起こしたらどうなるだろう。事件について僕にも意見がないわけではなかったが、自分を守るためにも曖昧に口をもごもごさせる以上のことはできなかった。


    2

 

 和人の口振りが曖昧だったために、話題は自然と次に流れ、卒業を控えた弟の就職先が俎上に乗せられていた。この四月から弟は不動産管理を請け負う会社へ通うことになっていたが、下り坂と化しつつある不動産業に祖父の不安が転がり出し、資本金、業績、社員数といった細々とした質問がはじまった。祖父の心配は自分の身よりも孫の将来なのである。
 弟が助けを求める視線をこちらに送り出した頃になって、ようやくニコチンの臭いをまとった父が上着を脱ぎながら和室に入ってきた。空席にドシンと腰を落とし、はあと長く息をつき、冬は寒い、と当たり前のことを言い放った。そうかと思うと出し抜けに、父は斜めから和人を刺す話題を出してきた。
——最近、俺は仕事が忙しいんですけど、こいつは暇してるから、免許でも取ってくれたら買い物の足役を交代してもらえるんだけどねえ、身体を考えたらそうもいかないから困ったもんですよ。
 父がこちらを指してそう言うものだから、祖父が驚いた顔をした。
——あれ、かずくん何か病気なの?
 IT系の会社で忙しくしていることになっているから、過労を心配したのであろう祖父は、すぐ右隣に座っているにも関わらず答えを聞くために身を乗り出した。
——いや、大丈夫だよ。病気じゃないから、そう言いながら炬燵の中で父の太い脛を蹴った。
——ブラック企業ってよく聞くじゃない。かずくんのところがそうなんじゃないかって心配なんだよ。
——ぜんぜんそんなことはないよ。今は閑散期で、有給が貯まってたから休んでいる日が多いだけ。病気なんかじゃないよ。
——もし時間があるなら、と叔父さんが割って入った。——名古屋まで遊びにおいでよ。最近は僕も仕事が落ち着いてて、家に一人でいることが多いんだ。ヒカルは大学だし、エリも帰りが遅いうえに夜勤があるからね。
 看護師をしている叔母さんは滅多に休みが取れないらしい。和人が都合がついたら是非、と答えていると、
——それより本当に病気じゃないんだね、と祖父が話を戻した。
——本当に大丈夫。
——もう去年になるけど、大きな手術をするために一月も入院したんだけどね、病院ってやっぱり嫌なものだよ。エリさんには悪いけど、私はできるならもう行きたくないね。通院は仕方ないにしても入院は嫌だ。だからかずくんが大丈夫ならいいけど、本当に、身体には気をつけてください。
 うん、ありがとうと答えている横で、入院するような病気じゃないのはよかったよな、と父がまた嘴を挟む。幸い和人を挟んだ先にいる祖父の耳には届いていないようだったが、どういうつもりなのかと左を睨むと、しまったという顔にぶつかった。わざとではないらしいが、どうしても僕の病気を話題にしたいらしい。
——ねえ、寿司まだかなあ。お腹すいてきちゃったよ。
 ヒカルがそう言うと、弟が聞いてこようか? と膝を立てる。いいよいいよ、そんなつもりじゃなかったんだからといとこが気を遣ったので、好機とばかりに和人が立つと、祖父に引き止められた。慌てなくてもじきに来ますよ、と言うので、それをおしてまで台所に行くわけにはいかなくなった。どうやら父のつくった窮地からは簡単には脱せないようだ。がっちり鎖で繋がれているみたいだと和人は思った。
——ところで、俺が戻るまでみんなでなんの話をしてたの?
 誰にともなく父がそう尋ねたので、血腥い話題が戻ってきた。
——ぜんぜん関係ない話かもしれないけど、と父が言った。——その話を聞くと地元の話を連想しましたね。
——地元というと、高知でしたか、と叔父さんが確かめ、父がうなずく。
——ガキの頃ですがね、田舎の風習なのか知りませんけど、十から十八の男子は青少年消防団というのに入れられるんですよ。なにしろ四国でも特に外れにある町でしたから、火事が起きてもすぐには消防車が来ない。そこで自治体の中で火が上がったとき、消防士が到着するまで応急処置の消化活動をするために若い野郎どもが駆り出されるんです。消火活動といっても川からのバケツリレーでこれっぽっちの水を引っかけるだけですから、どれほど効果があるのかって話ではあるんですが、参加する当人はけっこう真剣なんですわ。これができて初めて一人前の男だと認められる、というような感覚があったんですね。
——イニシエーションってやつだね、と和人が言うと、——また難しいことを言う、と弟が釘を刺した。
——なにしろ狭い田舎のことだから、消防団の中には俺みたいなその辺のガキから地主の息子だったり市長の甥だったりといった面々がいっしょくたになっていたんです。そういうやつらはふだんは偉そうにしているんですが、消防団の中には独特の雰囲気があって、ここでは誰もが一団員でしかないわけなんですね。俺が所属していたときに火事は一度だけしか起きなかったんですけど、実際、いざとなると地主だろうが市長だろうが運べるバケツの数は変わらないわけです。むしろそういうやつらより屈強な漁師の息子なんかの方が重宝された。つまり、実力で評価される平等な環境だったんですよ。しかし一度その環境を出てしまえば、貧しい家の子は貧しいまま、大半は職に就けずにフラフラするだけで、それが嫌で俺は東京の大学に進んだんだ。消防団を卒業する頃につくづく感じたんだけど、人間が平等っていうのはバケツを運ぶときの人数としての話であって、本当の意味でも平等なんて世の中にはないんだってことだよ。
——その話が事件とどう関係するの? とヒカルが訊いた。
——犯人は「障がい者には生産性がない」から殺したって言うんだろ。それで思い出したんだけど、消防団には当時、デク坊って呼ばれてる男の子がいてね、今ならたぶん自閉症かなにかと診断されてたと思うんだけど、なんというか、ちょっと頭の弱いやつだったんだ。誰が考えても無理だとわかるのに、地元のルールだから、差別はよくないっていうんでデク坊も無理やり消防団に入れられていた。でも、自分ではなにも判断できないようなありさまだったから、はっきり言って足手まといにしかならなかったんだ。根気強く言葉で説明する寛容さが誰か一人にでもあればよかったんだが、あいにく田舎にそんなものを持ち合わせているやつはいなかった。どうも言葉を放棄したとき、人間は暴力に走るらしい。殴る蹴るからはじまって、みんなで脚と腕を掴んではずた袋を放り投げるみたいに川に突き落としたり、生のザリガニを食わせたり、そりゃあ酷かったね。いぬみたいな扱いだったよ。それなのにデク坊は消防団の集まりには必ず顔を出したから、やっぱりちょっと頭が弱かったんだな。そんなやつの傍で、俺たちはふだんの身分の壁を越えて団結していった。あるいはデク坊をいじめることで一つになったのかもしれない。消防団では働きさえすれば平等に扱ってもらえるわけだ。逆に言えば働けないやつには平等がない。事件の犯人の発想はこれと同じだなってと思ったんだよ。田舎のガキのルールと一緒だなって。
——障がい者の方が交通事故で亡くなった事故の裁判で、その人が生涯稼ぐはずだったお金を賠償金として算出したら、ゼロだったという話を聞いたことがあります、と叔父さんに言い、——そういうことです。ひどい話ですよ、と父がうなずいた。
——なんか、暗い話ばっかりじゃなくてもうちょっと明るいことを話そうよ、とヒカルが根をあげる。
——おお、悪かった悪かった。じゃあ野生のイルカの話はどうだ。
——野生のイルカ? なにそれ?
——話してやれよ、と父は和人にバトンを投げたので、まだ父方の祖父が生きていた頃に連れて行ってもらった、高知の波止場を思い出した。
——僕が中学生のときだから、もう十年は前になるのかな。高知の海岸に野生のイルカが現れるって話題になったことがあるんだよ。テレビでも取り上げられたりして。それで四国に里帰りしたとき、向こうのおじいちゃんに連れていってもらったことがあったの。行ってみたら、あれはどういう人だったのかな、波止場の手前にアロハシャツのおじさんがいてね、イルカを見ようとする人たちを整列させてたんだ。そのおじさんが縁日みたいに声を張り上げて、イルカは呼べば波止場までやってきて、運がよければ頭を撫でられるって前口上みたいなことを言うんだよ。本当かなあと僕は思ったんだけど、やっぱりワクワクもした。それで並んで、イルカの頭を撫でにいったんだ。野生のイルカって見たことある? とヒカルに問うと、首を振られた。——野生のイルカってね、岩にぶつかったり他の生き物と喧嘩したりするからなのか、勇ましい傷が至るところにあって、ヤクザみたいなんんだよ。頭の表面は柔らかいんだけど、芯は堅くて、見た目は厳ついのに撫でるとキュウキュウ鳴くんだ。僕はなんだか変な気分になって岸辺から引き返した。そうしたら例のアロハシャツがどうだったって陽気に訊いてくるから、僕は「うん」なんて答えてそのおじさんを見た。そのときになってようやく気づいたんだけど、そのおじさん、右手に小指がなくて、びっくりして「おじさんその指どうしたの?」って訊いたら、「イルカに喰いちぎられたんだ」って言ってワハハと豪快に笑うんだよ。向こうのおじいちゃんもそれを聞いて大笑いするんだけど、僕は単純に怖かったね。
——それはおもしろい体験をしたね、と叔父さん。
——実はこの話にはつづきがあるんです。イルカで有名になった波止場なんですけどね、どこぞの企業がそこにホテルを建てるって言って、土地を買い占めたんです。僕が行った次の年にはもう工事をはじめて、地元の岸を波止場だけを残してそっくり観光施設に入れ替えてしまおうっていう計画だったみたいなんですね。イルカで話題になったチャンスに、過疎化した地域の活性化のためホテルをつくるというのが名目だったんですけど、結果的には工事のせいでイルカは現れなくなって、イルカを目当てにしていた観光客もいなくなり、風船に穴を空けたみたいにあっという間に賑わいが消えたんです。結果としては町にシャッター街と空き家が増えただけだったんですけど、ホテル自体も数年で撤退されて、その土地は今は巨大な駐車場になっているんです。ほとんど車のない伽藍堂です。その伽藍堂から波止場だけが不自然に突き出している。なんだかすごく象徴的で、自然を商品のように消費することには根本的な矛盾があるっていうのがよくわかりますよね。人間もまた自然だ。
——また難しい話になってきた、とヒカルが不安げな顔をし、——お兄ちゃんに話を振ったおとうさんが悪い、と弟が小言を言った。そこに祖父が割って入って、——それじゃあ気を取り直して、写真でも撮りましょうか、と切り出した。
 みんなの応えを聞くより早く、祖父は膝をバネにして立ち上がっていた。


 号令がかかり、キッチンから女性陣三人が無理に呼び出され、和室は八人を詰め込んでギュウギュウになった。祖父はカメラを取ってくると言い残し、居間を出て廊下の板を軋ませた。ギシギシ鳴る足音を耳にすると、残された八人は仕方ないとあきらめ、アサヒと叔父が並んでいた辺りに整列し、全員で二列になって祖父の帰りに備えた。——またはじまった、と祖母から洩れる。それを皮切りに、——好きにさせてあげましょう、と叔父が言い、母が——化粧を直しておけばよかった、と嘆き、父がポケットを弄って——あ、ライターがない! と騒ぎはじめた。
 家族写真を撮ることは、毎年の祖父の使命になっているようで、ふだん寛容な祖父であっても、このときばかりは誰にもカメラにふれさせない。昔の人はカメラが命を奪うと信じていたというが、黎明期からカメラに接してきたであろう祖父にはデジカメの操作すらお手の物で、一家の中で一番のカメラマンだったから、シャッターを人に任せないのは賢明でもあった。命を奪うどころか逆に生きいきしている。
 三脚を脇に抱えて戻ってきた祖父は、急ごしらえの整列をフレームに収まるように調整して、シャッターのタイマーを設定し、和室の入り口に拵えた撮影所から、小走りに前列の端に加わった。フラッシュが三度焚かれ、その度に祖父はカメラと列とを行き来した。振り子のように滑らかな動きはとても九十の老人には見えない。急な撮影というつかの間の緊張から解放された面々が計らずも上気するのを他所に、あとはよろしく、と言い残して、健脚を見せながら祖父は自室に引きあげた。これから写真を現像するつもりなのである。
——じっとしていたら立ち眩みがしてきちゃった。
 一座の隅にいた母が額を抑えた。
——大丈夫ですか? エリさんがそう言って母を座らせる。——貧血かもしれませんね。
——ええ、ちょっと安静にしたら治ります。最近、こういうことが何度かあるんです。でも大事には至らないから、気にしないでください。
——何かある前に、一度病院で診てもらったほうがいいですよ。
 わかりましたと母は応えたが、たぶん病院へは行かないだろうと思った。変なところで気丈というか、強情なのである。
 座り込む母を前にしていると、なぜか和人も車酔いがしてきたような気持ち悪さに襲われた。貧血は伝染するのだろうか。居間に移り、寿司を待っているダイニングテーブルに座ると、ほどなくして症状は治まった。和人の後ろで引き戸が開き、和室から叔父さん、ヒカル、祖母が出てきた。あまり部屋の密度を増やしても母の身体に障るということで、何人かが引き揚げてきたのである。
——ヒカルは嫌がるかもしれないけれど、さっきの和弘さんの話を聞いて思い出したことがあるんだ。
 和人は父の名前が口にされる新鮮さを耳にしながら、——どんなことですか? と合いの手を入れた。母に釣られた体調不良を誤魔化す気持ちからのことだった。
——もう去年のことになるけれど、僕の会社である社員が休日に交通事故に遭ったことがあったんだ。よそ見運転に巻き込まれたもらい事故だったらしい。四十過ぎで僕より一回り近く若い彼は、その事故のせいで一月ほど休みを取ることになった。仕事の埋め合わせは僕たち周りのメンバーがやることになったんだけど、一ヶ月後に復帰した彼は何事もなかったような顔をしていて、チームに負担をかけたことに対しては一言もなかったんだ。僕自身はそれに対してなんとも思わなかったけれど、チームのメンバー、特に派遣で来ていた人たちは違ったようだった。彼はふだんから少し気遣いが足りないところがあったし、仕事ができるとも言いかねる人物だったけど、だからといって特別目に余るような悪い人でもなかった。少なくとも周囲から無視されたり、忘年会の通知を回してもらえなかったりするような人ではなかったはずなんだ。でも、復帰直後に今までのフォローが一言もないまま彼がミスを連発したから、思わず強い口調で叱責してしまったんだ。そうしたら僕の言葉を歯切りに、周囲のメンバー、特に派遣社員が一気に同調して、いじめと言えるような状態になっていった。正社員と派遣のあいだに隔てがないようにという方針を社長が厳命していたから、上司部下の関係はあっても正社員が否かは人間関係に影響しない、単に給料の出所がちがう以上の違いはない、そういう風土の職場だったことを僕は好ましく思っていたんだけど、このときばかりはそれが逆に仇となって、標的となった社員は容赦のない陰口の嵐に晒されるようになってしまった。不手際こそあるものの真面目に働いて妻子を育てている常識的な人だったのに、カッとなった僕の言葉が原因で忌み嫌われ、みんなから頭に足を置かれるような存在になってしまったんだ。最近、社員の不祥事が原因で賃貸管理会社の株価が暴落する事件があったけど、彼の話はあの事件に似ていると思う。事故という不祥事によって彼の株価は底値をついたんだ。理不尽に聞こえるかな? けれど今や会社で生きるとはこういう株式競争を生きることで、どうやつまて自分の株価を上げるか、どの株を見捨てて、どの株を買うか、刻一刻と変化する状況に合わせながら的確に判断するしかない。失敗した者が失落するのは、哀れを誘いはしても当然のことだ。ふつうに生きている僕たちには競争の中にしか生きる道がないんだよ。
 だからヒカルも気を抜くなよ、と叔父さんが話を結ぶと、玄関のチャイムが鳴った。ようやくお待ちかねの桶が届いたのである。


    3

 

 祖父の家は駅を見下ろす高台にあり、京急線の路線が街明かりに揺れて夜の底で川のように波打っている。街灯の投げる小豆色のけばけばしい明かりが飴のように川面に薄く滲み、夜空の星と奇妙なほど調和した黄色になって溶けていた。川上では街と夜との境界が曖昧で、視線を上に辿ると濃紺とも紫ともつかない遠景に迷い込む。そこでは近視の目には月なのか星なのか判別のつかない、大小様々な同色の点が際立っていた。そのままじっと見つめると空に凹凸があるような錯覚が生じ、誰かがさっと走らせた毛筆の痕跡が浮き上がってくるようだった。うつくしい夜だ。こんな夜に祖父と散歩するのはいつぶりだろう? 子どもの頃はよくこうして一緒に歩いたものだ。健康は足からというのが祖父のモットーで、孫のぜん息に効くかもしれないと短い距離をよく歩いた。食後に散歩する習慣はそのときにできたものらしく、和人の歳を考えるともう二十年以上つづけていることになる。当時ですら祖父は七十だった。
——寒いね、おじいちゃん大丈夫?
——そのために着込んできたからね。
 橙色のマフラーと同色の手袋、白いニット帽という姿の祖父は、確かに本人の言う通り防寒面での心配はなさそうだった。桶が空になって少しすると、自室に戻った祖父がこの防寒着姿で現れ、集合写真のときと同じ唐突さで和人を食後の習慣に誘ったのだった。急だったせいで薄着に上着を羽織っただけの、マフラーすらない格好で出てきてしまったから、和人は背中に鳥肌が浮いているのを感じていた。けれど冬の澄んだ空気は嫌いではなかった。湿度のない空気の清々しさに何かから解放されたような気がして心が休まるのである。ふだんの和人は空気の重みを肩に受け、無自覚のうちに身体を強張らせており、乾いた外気にはその強張りを浮き彫りにする力があるらしい。
 リラックスした和人の歩調は自然と柔らかなものとなった。和人には歩く速度と不幸の度合いは一致するという自説があり、その対象は年齢に関係なく、老人であっても無意味に速足な人もいて、そういう人は例外なく一人だし、目つき顔つきに剣がある。この自説に照らし合わせると、祖父は一貫して自分のペースを保つ人で、少なくとも不幸からは遠かった。
——これからは貴方たちが世間をつくっていくんだよ。
 なんでもないことのように祖父がそうつぶやいたから、思考の中に篭りつつあった和人は驚いた。
——世間がつくれるものって、そんなふうに考えたこともなかった。
——つくれますよ。貴方たちは若いんだ。力がある。自分で思っているよりずっと力があるんです。
——そうなのかな。
——そう、若いというのはそれだけで価値があるんです。いや、若くなくたってそうだ。こんなだらだらした散歩につきあってもらったのも、ありふれた言葉だけどね、「人間にはお金に換えられない価値がある」っていう一言が言いたかっただけなんですよ。知ってるかもしれないけれど、かずくんの名前は私が決めたんだ。そして誰にでも名前があるのは、誰かがその人を産んだからですよ。ハンデを持って産まれる可能性も、生きていく上でハンデを負う可能性も承知で、誰かに生まれさせられたから名前があるんです。その誰かは、たとえ社会には無価値でも、お金に換えられない価値を無条件に見出したから、貴方をこの世に生んだ。それはかずくんに限らず、誰ひとり例外じゃない。世間ができるのに先立って、子供を名づけるという最初の言葉があったんです。ちょっと前にフランスの難しい人の本を読んだら書いてあったんだけど、すべての言語はそういう最初の言葉への応答なんだそうですよ。言語を使うとは最初の言葉を肯定することであり、最初の言葉とはすべての人にお金には換えられない価値を無条件に認め肯定する言葉なんです。言語は命を肯定している。どれだけ命を否定しても、否定するためのその言葉がすでに命を肯定しているんです。
 祖父の言葉は白くなって冷えた夜気に溶けていった。そのあとを追うようにどこかから犬の遠吠えが聞こえ、車のエンジン音が一度だけ響き、かすかに味噌汁の匂いがしていた。いい夜だねと祖父がつぶやき、うん、と答える。これも命を肯定する言葉なのだろうか。
——そろそろ帰りましょうか、と祖父が言ったので、二人は短い散歩を切り上げることにした。
 外から戻ると祖母が玄関で待っていて、
——寒いのに物好きねえ、と呆れた顔を見せた。和人と祖父が顔を見合わせると、
——温かいお茶を淹れたから飲んでくださいね。風邪でもひかれたら看病するこっちが保たないんですから、と早く居間に行くよう促された。
 寿司が広がっていたテーブルに湯呑みが二つ、湯気をあげて二人を迎えてくれていた。温かいものを喉に落としてはじめて気づいたが、のんびり歩いてきた身体は知らないうちに冷え切っていた。


 陶器の湯呑みはガラスのコップとは似ても似つかない。和人は部屋の冷蔵庫から出したペットボトルのお茶をキッチンで飲みながら、あのときとは正反対の冷たさを喉に受け、過去に祖母が淹れてくれた熱いほうじ茶と現在の既製品の麦茶の味とが頭の中で混乱し、奇妙な感覚に襲われながら頭痛がし出したのを感じていた。キッチンから七畳の部屋に戻ると、奥の窓際にあるベッドと手前のソファとで悩み、結局ソファを選んで寝転がった。少し熱があるのかもしれない。パニック発作と併発して自律神経を病んでいたから、軽微な発熱や動悸が不規則に身体を叩いてくる。一月の末だというのに早すぎる春の陽気がやってきたり、そうかと思えば急に雪が降ったりと、ここのところ気候が安定しない。そのせいで体調が悪化しているのかもしれない。
——いったいどこまで行ってきたんですか?
 ぼんやりする和人の耳は、この場にいないはずの祖母の声を確かに聞いていた。
——家の前の通りを往復してきただけだよ、と祖父が答え、そうだよね、と目で同意を促されたから、うん、と答えた。同時に和人はくしゃみを二回した。部屋の暖房を入れた方がいいかもしれない。
——そこにヒーターがあるから、椅子を持ってきて温まりなさい、と祖母が和室に通じる引き戸の前を指す。暖炉のような灯りが引き戸の曇りガラスを下から照らすせいで、和室の中で火が揺らめいているように見えた。父は食後の一服のために庭に出ており、叔母さんは台所で洗い物をしていたから、和室の中では残りの四人が炬燵を囲んでいることだろう。どんな話をしているのか和人にはわからなかったが、正月のありふれた話題に加わる気にもなれず、祖母に言われるまましばらくヒーターの前に座り込むことにした。
 祖父はプリントが終わっているはずだという写真を取りに自室へ向かい、食事の片づけを終えた祖母がテーブルの椅子に腰を下ろした。自分のための湯呑みを両手で包み、居間とひとつづきになっている背後の台所へ、——エリさんもそのぐらいで切りあげて少し休みましょうよ、と言った。
——かずくん、少し痩せた?
 布巾を手にあてがいながらエリさんがやってきた。そうですかと答えると、頬の辺りが少しシャープになったと言われた。看護師の目は誤魔化せないな、と和人は少し警戒する。エリさんの言葉を聞いた祖母に
——ちゃんと食べてるの? と心配された。
——料理してるから大丈夫だよ。自炊するのけっこう好きみたいで、毎日なにかつくってる。
——生野菜は食べてる? とエリさん。——ひとり暮らしだとついつい自分の好きなものに偏りがちだから。
——どうかな、そう言われると自信がないけど、と言いながら、和人はこの一ヶ月欠かさず食事に野菜を取り入れていた。正月を迎える前も同じ食生活をつづけていたから、痩せたのはたぶん食事のせいじゃないよ、と和人は誰もいない部屋で天井に向かって呟いた。病気のせいで僕はこうなったんだ。
 引き戸が急に開いて、母が顔を出した。
——もうちょっとしたら帰るから、支度しなさい。
——貧血はもう大丈夫なの?
——食事のときには治まってたわよ。
——わかった。用意する。
 ほうじ茶とヒーターのおかげで十分に温まっていた和人は、言われた通り和室に鞄を取りに行った。叔父といとこが名残惜しいねと口々に言うのに曖昧に頷きながら居間に戻ると、父がニコチンの臭いを撒き散らして和人が座っていた椅子にドシンと腰を落とすところに出くわした。ようやくタバコを吸い終えたようである。
——なに、もう帰るの? と母に訊ねている。
——あんまり遅くなっても困るから。
——また来年ですかね、とエリさんが座りながら挨拶する。我が家も挨拶を返していると、叔父さんにつづいて弟とヒカルが和室から出てきて、居間が急に賑わった。
 じゃあまた来年、と姉に呼びかける叔父さんの声を聞きながら、来年の僕はどうなっているだろうかと、あのとき思ったことを何もない部屋の天井に訊ねてみた。部屋はしんとしていて、冷蔵庫がうるさく感じるほどだった。あのあと自室から出てきた祖父がプリントした写真を全員に一枚ずつ配っていて、それは今、棚の中で本のあいだに置いたファイルに収まっている。重い身体をソファから起こし、ファイルを開くと、何かを喋ろうとしてか、梅干しのようなしわを下唇のあたりに浮かべて写っている自分と対面した。和人とは対照的に祖父は大きく口を開けて笑っている。
——かずくん、ちょっといい?
 帰り支度も終えて玄関に出たとき、見送るためについてきた祖父に背中から呼び止められた。ついて来て、と言われ、七福神の面が並ぶ祖父の部屋に招かれる。すたすたと先を歩いていた祖父が入り口から右手にある襖を引くと、よく整理された書斎が現れた。夢の中でここに出刃庖丁が隠されていると恐れていたことを思い出し、和人は思わず苦笑した。幼い頃はこの部屋で祖父に相手してもらうのが大好きで、あそぼ! あそぼ! と弟と一緒に連呼して祖父を草臥させたものだったというのに。
 祖父は棚に並んだ本から一冊を手に取り、書斎の入り口で待っていた和人に言った。
——最近、天文学の勉強をはじめたんです。かずくんは英語でしょう? かずくんが資格を取るのと私が学び終えるのと、どっちが早いか競走しようよ。
 手渡されたのは使い込まれてボロボロになった英語の参考書だった。
——あのさ、おじいちゃん、と言いかけたが、そこから言葉を継ぐことができなかった。その様子を見て祖父は、
——無理に言わなくていいよ。かずくん、今日はなんだか黙しがちで元気がないようだから、何かあったのかなとは思いましたけど、貴方の歳になれば誰にも言えないことの一つや二つあるものです。健康に気をつけてくれれば、私はそれで満足ですよ。
 新年初頭の自分がボロボロになった参考書を開く動きに合わせて、僕はソファの上で同じ本を広げる。記憶の船を降りて今現在に集中し、競争に負けないよう単語の暗記に勤しむことにする。そうやって昼まで孤独な時間を過ごしていると、不意に弟から電話がかかってきた。
——おにいちゃん、母さんが倒れてる!


 弟の話を整理するとこうだった。夕方、大学から帰ると玄関で母親が倒れており、驚いて声をかけると意識はあったので、救急車を呼ぼうか聞いたのだが大丈夫だと言ってゆずらない。大事にしたくないのだというが、何らかの問題が身体に起きているのは明らかで、病院に連れていった方がいいと思う。
——どうしたらいい? と訊かれたので、今からそっちに行くと答えて、兄は上着を羽織った。勇しく答えて電話を切ったまではよかったものの、懐には冷たいものが流れていた。急いで行かなければならない。でも、どうやって? 横浜市にある実家へは電車を乗り継げば四十分ほどだが、その移動に身体が耐えられる自信がなかった。かと言って休職中の身にタクシーを呼ぶ余裕はなく、自分で運転できる車もない。葛藤に腹部を抑えた彼はトイレに逃げ、便座に落ち着き、大便をしながら方策を考えることにした。とりあえずタクシーを呼ぼう。金のことは着いてからどうにかすればいい。横浜までどれぐらいの額になるか知らないが、クレジットが使えるはずだから、その場しのぎの支払いはどうにかなるはずだ。
 こんな病気になったのは自分のせいではないと思っていた。都心に通勤して毎日働くという世間の当たり前が僕に障害を強いたのであって、自分のせい、自分の弱さのせいだと受け取ったのでは己れの尾を噛む蛇のように徐々に徐々に自らを喰い潰してしまう。けれどいざというときにはクレジットが使えるかを気にして、働く誰かの運転するタクシーで母親の元に駆けつけようといしている僕は矛盾しているのではないだろうか? 結局は金に頼るのじゃないか。金のために病気になったというのに。こんなときに臀部を晒している滑稽な姿が僕のすべてを物語っているんだ。
 和人はもうどこにも行きたくないような気持ちに襲われたが、一方でこんな場所でいつまでもグズグズしているわけにもいかないという焦りに駆られ、トイレを出るために視線を上げた。手元にあるペーパーホルダーに芯の露出した紙がある。頭の上に備えつけられた棚を開けて常備しているはずの予備を確認すると、中は空っぽになっていた。いつの間にかトイレットペーパーが切れていたのだ。これまでの生活でそれはすべて巻きあげられてしまったのである。和人の耳は心臓がカランと空虚な音を立てて空回りするのを聞いた。
 ズボンを下ろしたままトイレを出て、風呂場に入り、臀部を洗って外出できる格好に着替えると、和人は身重の鳥のようにバタバタと部屋に戻り、電話をかけた。コールセンターによるとタクシーは十分程度でこちらに来るとのことだった。
 ところが十分待っても二十分待ってもそれらしき車が現れない。部屋を出てアパートの前に立っていた和人は再びコールセンターに電話をかけ、最初とは別の声に問い合わせると、どうやら運転手が間違えたらしいとのことだった。確認してみますと言われ、保留音に切り替わり、『小さな世界』のメロディがオルゴールの音で流れ出した。たっぷりワン・コーラス聞かされたあと、先ほどの声がようやく戻ってきて、確かに伝えられた住所に向かったと運転手は言い張っているのだという。最初に対応したスタッフが間違えたのかもしれませんが、そのスタッフは別の電話に出ているため、確認までもう少しお待ちいただけないでしょうかと言われ、和人はもう結構ですと応えて通話を終わらせた。最初のスタッフとやらも自分は間違えていないと言い出しかねないと思ったからだ。アパートは住宅街の中に建っており、いくつか連なる周りの民家のうち、斜向かいの玄関から老婆が出てきてあからさまに不審げな目で和人をじろじろと眺めはじめた。和人はいったん部屋に引き返してから電車に乗る覚悟を決めた。
 プラットホームの待ち時間と車両に乗り込んだ最初の十分が分かれ目だった。最も発作は起こしやすいそのタイミングを越えてしまえば、平日の昼過ぎ、私鉄の急行はそれほど混んでいない。もっともそれでも座席が埋まる程度には乗客がおり、和人はその一人ひとりに圧迫を感じていた。人間に囲われているという恐怖は、丸と長方形の立体とで形成された物体が自分を空間から追い出そうと迫ってくるような、物理的な脅威として彼の精神を突いてくるのである。ドアの横にもたれかかり、気を紛らわせるために先ほどのコールセンターとのやりとりを思い返してみることにした。内容がバラバラだった彼らの言い分は、自分は悪くないという一点では共通していた。申し訳ありませんがこういう制度なんです、と免罪符のようにくり返されたことを和人は思い出す。まるでシステムという実体のない番人に各人が守られているかのようだった。あるいは制度という実態のないものを輪に囲んで、ドーナツのように空洞を守っているかのようだった。和人は休職する前にもよくこんなやりとりに出会したことに思い当たった。その経験に照らして考えれば、誰も責任を取りたくないのではなく、責任の所在が本当にわからなくなっているのである。事態を辿ろうとすると堂々めぐりに陥り、いつまで経っても終わりが見えない。その一方であたらしい仕事は絶えずやってくるから、最初は真相を解明しようと意気込んでいた者も次第に諦念の泥に志を沈めていく…………。
 もしかしたら、今ではとても乗ることのできない満員電車が解消されない理由も、案外おなじようなところにあるのかもしれない。システムの中で諦念に飲み込まれていくうちに、朝八時の新宿行き上り電車で確実に座席につけるような日常は想像することすらできなくなってしまった。混雑が悪化する光景はイメージできても、その逆は思い浮かべることすらできない。緩和の方策すら想像の埒外にある。しかし満員電車の原因は単に都市部に会社が集中しているだけのことで、それらの会社が都心を離れて各地へ一斉に散れば、蜘蛛の子のように解消するはずなのである。そう言いながら、やはりこうやって考える僕自身がこのアイディアを荒唐無稽で実現不可能なものだと思ってしまうのはなぜなのだろうか? 満員電車という現実は様々な形があり得た中からたまたま実現したもの、弾んだボールが偶然に着地した地点に過ぎないはずであるのに。
 和人は車内を見渡した。揺れに合わせて吊革と共に微動する立方体の群れは、何の疑問も抱かず自分の位置を守っている。うつむきがちにして影を帽子のように被ったそれらは企み事を秘めているようにも見えた。深呼吸をくり返して冷静になると、歪んでいた視界が常識を取り戻し、角の席に座る目の前の男が緑色のコートを着たまま、携帯も本も持たずに爪先を凝視している様が明瞭になった。対岸の列に座る女は組んだ脚の先で緑のスニーカーを踊らせ、その三つ隣、視界の端にいる老婆は何かを包んだ緑色の風呂敷を大事そうに抱えている。座席の赤いシートが妙に目にぎらつき、車両全体が不穏だった。自分のいる空間がまだ歪んでいるように思えてならない。さっきから動悸が激しくなっている。脇からは嫌な臭いのする汗が滲み出した。誰のものともいえない恐ろしい情念が今にもこちらに襲いかかってきそうな気がした。もしも今、誰かに肩でもぶつけられたら僕は呆気なく壊れてしまうだろう。心臓が痛み、次第に速まる鼓動が胸を深く打ち、呼吸は浅く、視界は段々と四隅から白っぽく霞んでいった。風呂敷の老婆が白紙になり、スニーカーの女が白く塗り潰され、コートの男が見えなくなった。ついには呼吸すらままならなくなり、僕はこのまま死ぬのだろうかという思いが突然に降ってきて、目を瞑ると死のようにすべてが暗くなった。瞼の暗闇に何かの残像が浮かび、一瞬、それが鬼の面のように見えたあと、和人は次の駅で電車を降り、空いていたベンチに座り込んだ。


    4

 

 生まれて来なければよかった。プラットフォームのベンチに座った姿勢でそんな言葉が脳裡を過ぎったとき、幼かった頃にも同じことを一人で感じていたことを思い出した。同時に、深夜に喘息の発作を起こした夜の、月明かりでぼんやり青くなった天井の薄暗さが浮かんでくる。弟を下にした二段ベットでその光景とひとり対峙していた和人は、そのとき八つか九つだった。深夜の発作はもう十日あまりもつづいており、薬の用意を強いて親の目元に深々とくまを刻んだ自覚があったから、その日はとうとう気後れして、発作が起きたことを誰にも言えなくなっていた。
 仰向けになった背中から弟の寝息が聞こえてくる。山羊が草をはむ音のような安らいだ息と、自分が発する気管支炎の荒い呼吸とが重なりつつずれて、不協和音が鼓膜というより耳の骨に直接ひびいた。その振動に頭を揺さぶられるのか、身体が気怠く鈍り、それでいて意識だけは冴えざえとしていた。間欠的にくり返される烈しい咳が関節の節々に痛みを走らせ、酸素を求めて喘ぎあえぎすると、喉から血の匂いが昇る。どこを傷つけたのかと舌先で赤い味の出どころを探すと、生のザリガニを食べさせられたような臭みに襲われた。咳の発作で滲んだ涙に視界がたゆたい、子供部屋は青味を強めつつも彩度を落として、エアー・ポンプの止まった水槽か流れのない川の中のようになっていた。この苦境から出口を求めて枕元にある窓を開け、透明な夜の空気を胸に吸い込む。和人は理科の授業で教師が言っていたこと——貴方たちの身体は貴方たちが食べたものでできているんです——を思い出した。そうだとしたら僕の身体は紺色の夜でできているんだ。でも夜の空気は冷たいのに、この身体は熱い。夜は平気なすまし顔なのに、僕は眉をギュッと寄せてヒューヒュー喘いでいる。早く朝にならないかな。夜は嫌いだ。一人で辛いから。夜に価値なんてないんだ。
 何度か意識が途絶えながらも、ほとんど一睡もできないまま明け方が近づいてきた。和人にはもう時間の感覚もわからない。日中の明るい部屋で母や弟と遊んでいたときの記憶を夢のように見ながら、むしろ苦しみはこれからやってくるんだと思っていた。今はまだ昼で、これから本当の夜がやってくる。外は夕暮れなんだ。だからあんなに真っ赤なお日様が地平線から半分だけ顔を覗かせているんだ。夕陽をじっと睨むと、神様が見えたりしないだろうか。もし神様がいるなら、どうしてこんな目に遭わせるんだろう。まだ生まれてすらいない子供にひどいことをするのはいったいどうしてなんだろう。神様は悪いやつなんだろうか。でも悪いやつがあんなにきれいな夕陽をつくれるなんておかしな話だな。夜は僕に似ているから嫌い、でも夕陽はきれいだから好きだ。夕陽はおかあさんに似ている。夕陽には価値がある。昼には活気がある。でも夜にはなんにもない。夜に価値なんてないんだ。
——ああ、夕陽が昇っていく。
 息を吸うのもやっとだというのに、和人は思わず声に出していた。開いた窓の先、町の先にある地平線から今、それとわかるほどの速さで夕陽が空に昇ろうとしている。世の中にはこんな夕陽を毎日みている子もいるんだろうな、と和人は思い、そのまま気を失った。
 翌朝、発作に気づいた母は車を出し、三ツ境にある病院へ急いだ。その病院は長男を出産した場所でもあり、かかりつけの信頼できる先生がいることもあって、有事の際は必ず駆け込む場所だった。診察室のパイプ椅子に座らさせれ、目の前で先生に母が病状を説明するのを眺めながら、和人は首にさげた聴診器を指先で弄ぶ先生の癖が気になって仕方なかった。先生の机には銀の清潔なトレイの上に先の尖ったピンセットや針、メスのようなものや何に使うのかわからない管が整然と並べられている。シャツを脱ぐように言われ、上半身裸になると、部屋に篭る薬品の臭いが急に鼻をついた。聴診器の冷たい感触が胸と腹の間を何度も弄る。ドキドキしているのがバレてしまわないだろうかと不安になった。男の子なのに怯えていると知られたら恥ずかしい。
——今も少し息苦しいでしょう、と先生は笑顔を見せてから、——気管支炎が悪化しているのかもしれません。入院して点滴を打てば止められますが、と母に言った。
——入院、ですか?
——はい。たぶん一晩で済みますよ。
——嫌だ!
 二人の会話を聞いて、堪えきれずに叫んだ。入院なんかしたら二度と家に帰れなくなってしまう。当時の和人はなぜかそんなふうに思い込んでいたから、叫ばずにはいられなかったのである。——入院は嫌!
 大人二人は困り顔を見合わせた。
——無理にとは言わないよ。
 先生はあくまでも優しい。
——先生、入院せずに済む方法はないのでしょうか。
——お母さん、心配しないでくださいね。それでは、まず吸入をやってみて、それで発作が治ったら薬を出して今日は終わりにしましょう。それでいいね?
 最後は僕に確認してから、先生は吸入器の準備にとりかかった。看護師さんを呼んで、ドライアイスみたいな煙が出てくるマスクを僕に被せさせる。手術で死ぬ人が空気を吸うためにこんなマスクをするのをドラマで知っていたから、本当はこの吸入器が嫌だった。でも煙の薬で深呼吸をしないと発作が止まらないから、仕方がない。
——深刻に捉えちゃダメよ。思っているより大したことないんだから。
 と母が言った。このどこが深刻じゃないんだと言い返したかったが、吸入器を着けているせいで何も声に出せなかった。
 その後、別室に移されてから三十分の吸入が終わるまで、和人は一人にされた。母はこの時間、和人を置いてどこかに行ってしまう。いつもそうだった。僕は狭い処置室に置き去りにされ、夜と同じように母が来るのを待つしかない。
 幸い、吸入が終わると発作が落ちついたため、薬だけもらって帰ることになった。会計を済ませた母は駐車場に向かい、和人を助手席に乗せ、シートベルトを締めてから、——大したことなくてよかったね、と言った。
 車が走り出してからほどなくして、とうとう母に詰め寄った。
——ねえ、なんでおかあさんはいつも僕のこと「大したことない」って言うの。苦しんでるのに。
——貴方よりひどい病気の子があそこにはいっぱいいるの。そういう子と比べたら貴方は平気なのよ。私の息子なんだから、ふつうなの。
——ふつうじゃないよ。こんなのふつうじゃない!
 母から返事はない。ただ前を見て車を走らせている。横顔は至って冷静だ。そのことに腹が立った。和人はシートベルトを外した。
——何してるの? 危ないでしょう。
——僕はふつうじゃないよ。
 和人がドアに手をかけると、ようやく慌てた表情で母は——やめなさい! と声を張った。道は直進する国道で、前後を一定の幅を空けて別の車が走っていた。和人はドアにてをかけたまま言った。
——じゃあちゃんと話を聞いて。
——わかったから、シートベルトをして席に戻りなさい。
——体育の授業で先生が休めっていうから休むのに、休んだらあいつは卑怯だってみんなから言われるんだよ。これから行く修学旅行だって、僕だけ泊まる部屋が別にされるって決まってるんだ。他の子と一緒だと埃が舞うのを吸ってしまうからって説明されたけれど、違うんだよ。僕がみんなより劣っているから区別されるんだよ。そうでしょう?
 いつの間にか両目から涙が溢れていた。男の子なのに情けないと思ったが、もう自分では止めることができなくなっていた。ドアにかけた手と一緒だ。一度勢いがついたらもうどうにもできないことがある。その勢いで母を睨むと、母はこちらを向いてこう言った。
——貴方の病気はそんなに大したものじゃないのよ。
 和人はドアを開け、車の外に飛び出した。


 母は和人の襟首を掴み、車道に転がるのを辛うじて防いだが、そのあいだにハンドルを離してしまい、コントロールを失った車は路傍の電柱に衝突した。鉄が潰れる音と悲鳴が同時に湧き上がり、耳がキーンとした。身体が外に投げ出され、道脇の雑草の上に転がる。グルグル転がるから目が回り、何が起きているのかよくわからなくなった。近くに人が来る気配がしたあと、サイレンが聞こえて、救急車に乗せられたのは覚えている。おかかさんも一緒だった。おかあさんは担架に乗せられて、死ぬ人がつけられるマスクを被せられていた。救急隊員はその名前を呼んだから、ようやく酸素マスクという名前がわかった。酸素って、知っている、空気のことだ。おかあさんは空気が吸えなくなってしまったんだ。きっと苦しい。その苦しさはよくわかる。これでおかあさんも僕のこと大したことないって言わなくなるかな。
 和人は草地に投げ出されたことが幸いして軽傷で済んでいたが、母は左腕をひどく折っていた。かかりつけとは別の病院に搬送され、手術が行われたが、軽い麻痺が一生遺ると告げられた。すべて僕のせいだ、と和人は思った。命に別状はなかったものの、病院を退院したあとも母は二度と車のハンドルを握れなくなった。

   ※※※

 めまいがするとはいうものの、母はすでに自力で起きあがっており、急を要する事態は脱したらしいことがはっきりした。予定より二時間も遅れて実家に到着した和人は、背中の強張りをほぐしながら、今回は大事に至らなかったからよかったものの、もしも次にまた何かあったらと思ってゾッとした。今の自分ではその場に立ちあうことすらできない事実を突きつけられたからである。今は歩いて病院に行くと言い張る母を止める力もなく、乱れた呼吸を整えるのが精一杯なのだ。母につき添うことになった弟に出してもらったお茶を飲み、二人を見送ってから、一人居間に残りどうすれば発作を起こさずに済んだろうかと振り返った。和人は電車に乗り合わせた客を一人ひとり思い出そうと試み、すでに朧げな顔の中から原因を探ろうとした。同乗した人というのはすぐに忘れてしまうようでいて、思いのほか記憶に尾を引いている。普段は用を足さない記憶だからすぐに脳が省いてしまうだけで、覚えていないわけではないようである。しかし誰の顔からも何も得られなかったから、お茶を飲み干し、ため息をついた。二人が帰ってくるまでどう過ごせばいいのかわからなかった。
 ひさしぶりの実家の居間は人がいないせいもあってかひどく静かで、懐かしさよりは不気味さが空気を支配していた。発作ばかり起こしていた夜々を過ごしたのは二階にある子供部屋だが、その真下にあたる居間にも、夕陽が空に昇るのを見たあの景色が残響としてまだ残っているのではないか。和人は気を紛らわせるためにコップを台所に持っていき、ついでに洗い物をやってしまおうと思い立った。流しにはなぜか使い込まれた三徳包丁だけが洗い残してあったので、和人はそれをスポンジで磨きながら、この包丁が母と一緒に過ごした長い時間を考えた。左手が少し不自由ながら母はよく料理をした。弟がはじめて離乳食を卒業したときに食べた人参も、僕が小学校を卒業したときの記念のステーキも、この包丁で母がつくったものだった。人間が食べたものでできているなら、二十年余り二人の息子と夫の身体をつくってきたのは母である。我が家には外食の文化がなかったから、なおさら母の手が三人の身体を手がけたことになる。
 和人は部屋の包丁が欠けてしまったのであたらしいものを買ったが、まだ旧い包丁を捨てていなかったことを思い出した。台所の棚に眠ったままだ。少し錆びた安物のあの包丁には、もう価値がない。それでも捨てられずにいるのは、どこかでそういう道具を自分になぞらえてしまうからなのかもしれない。あの事故は包丁で刺したようなものだった。突発的な行動が不幸な事故を招いたのではなく、明確な意図でドアから飛び出したのではなかったか。
 苦味に満ちた時間は幸いにもそれほど長くはつづかなかった。四十分ほどで戻ってきた母は三半規管に腫れがあったことが原因だと和人に伝え、常に目が回っているような状態だから少し横になりたいと言い、二階の一室に布団を敷いてそのまま眠り込んでしまった。階下の息子たちはこれからどうするか話し合ったが、疲労で頭が寝てしまっているのか、結論といえるほどのものは何も出せず、ひとまず父の帰りを待つことになった。しかしこの時点で和人には一つ決めていることがあった。
——しばらくこっちに戻るよ。何かあってもすぐには来られないし。それにおまえたちどうせ家事できないだろう。
——できるよそれぐらい、と弟は反射的に応えたが、——え、やってくれるの? とすぐに期待の目を向けてきた。就職すると同時に一人暮らしをはじめた和人は一通りのことはできたが、四人分の家の仕事となると未知の領域ではあった。僕たちの意識しないところで母は毎日それをこなしてきたんだ。休職中に料理も洗濯もずいぶん手際がよくなっていた和人は、せめて母が寝ているあいだだけでも代わりを務めようと決めた。
 その日の夜、八時過ぎに父が帰ってきた。父はまず台所に立つ長男に驚き、次いで母の病状を聞いて仰天した。和人は構わず調理をつづけようとしたが、唐突な電話がそれを遮ったので、手の空いている父に出てくれるよう頼んだ。夜の闖入者を任せてしまうと台所に意識を戻して集中しようとしたのだが、包丁を握りキャベツのマリネをつくろうとしていた耳に会話の断片が流れ込んできた。
——帰ったら倒れていたらしいんですよ。大したことではなかったらしいんですけど、しばらくは動けないみたいで…………いや、私たちは大丈夫です、はい…………今は上で寝ているみたいです…………
 はい、はい、という声がしばらくつづいたあと、父は受話器を置いたようだった。和人はいったん手を止めて、
——誰からだったの? と訊いた。
——お祖父ちゃんからだよ。正月に撮った写真がもう一パターンあって、渡し忘れたから取りに来ないかっていう話だったから、こっちの状況を伝えたんだ。
——え、言っちゃったの?
——そうだけど、何か悪かったか?
 友人の死と入院をいっぺんに経験した祖父をあまり刺激するなと、おそらくは今祖父に衝撃を与えたであろう母から正月に忠告されたのを思い出していた。今さら言ってもはじまらないが、父の口が軽率なのはどうにかならないものかと和人は頭を抱えたくなった。
——お祖父ちゃんだけど、看病したいからしばらくこっちに来るって。
——え、いつから?
——明日から。
 和人は文字通り本当に頭を抱えることになった。


    5

 

——とりあえず重症じゃないみたいでよかった。
 二階に伏せている母の顔を見た祖父がそう言った。こちらに来るときいつも持ってきてくれるお土産のシュークリームを和人に渡すと、祖父は真っ先に娘の様子を覗きに行ったのだった。一階の居間に降りて腰を下ろした祖父は、電車とはいえ市営地下鉄で五駅の距離を移動し、休みも挟まずに階段を上り下りしたにも関わらず息ひとつ切れていない。和人は相変わらずの健脚に目を見張らされた。母は起きてはいたが吐き気があるせいで喋ることができない状態だった。幸いその他は熱があるわけでも身体のどこかが痛むわけでもなく、薬を飲んで数日安静にしていれば治るというのが医者の診断だった。
 時刻は午後の一時。平日だったため本来なら和人は出勤していることになっていたが、祖父には看病のために一週間ほど休みを取ったのだと説明した。まるで他人の話をしているかのような違和感を飲み込みながら、和人は祖父が来るなら一人暮らしの部屋に戻ってもよかったのだと改めて思った。迷った末に何かあってもすぐには駆けつけられないという思いが勝ち、祖父を迎えることに決めたのだった。
 問題は部屋の割り当てである。二階建ての我が家は一階に台所を兼ねた居間と和室が一室ずつ、二階に仕切りを取って二つだったものを大きな一部屋にした子供部屋兼母の寝室、そして父の部屋という間取りで、五人で暮らすには手狭だった。祖父には和室を使ってもらうとしても、母が伏せている子供部屋に成人した兄弟が肩を詰めて居座るのも問題だったから、昨晩のジャンケンで負けた和人が居間を寝室代わりにして眠ることになっていた。
——急にごめんなさいね。倒れたって聞いていても立ってもいられなくて。
 もらったシュークリームにコーヒーを添えて出し、大丈夫、来てくれてありがとうと応えたが、内心は複雑だった。祖父の心配は当然だったが、一方で本当の自分を忍んでいる身としては、慕っている相手をの前に嘘を堆積して不要な山を築くことを憂いてもいた。いつかその山が明るみに出て祖父との関係を遮ってしまうことになりはしないかと恐れていたからである。大学に行った弟は少なくとも夕の五時までは戻ってこない。二人きりの時間をどう乗り越えるか、和人は今から気が重かった。
——かずくんは文学部の出身でしたね。
 シュークリームを食べ終えると祖父からそう訊かれたので、うんと答えた。
——釈迦に説法かもしれませんが、おもしろい記事を読んだんです。「忍ぶ」という言葉があるでしょう。忍者の「忍」ですけど、あれと人をしのぶの「偲ぶ」はもともと同じ言葉で、奈良時代には混合して使われていたそうなんです。人を偲ぶのとその気持ちを忍ばせるのは昔からある日本的な美徳なのかもしれないね。漱石がアイ・ラヴ・ユーを「今宵は月がきれいですね」と訳した有名な逸話がありますけど、あれも何事もはっきりさせたがる外国語をものをしのぶ日本的感覚に翻訳した必然なのかもしれないね。
——漱石は僕も好きだよ。お金で人が変わることを真剣に書いた日本で最初の作家だと思う。
 最近の教科書には『こころ』が載らなくなるそうだ、子どもが文化から離れていくのは由々しいと祖父は嘆いた。
 一息ついたところで祖父を和室に案内し、一人で母の様子を見に行ったあと、和人は洗濯や掃除といった雑事に逃げ込んだ。祖父と母と他の家族の家事を負担している自分はいわば一家の介護士である。和室でしばらくくつろいでいた祖父が出会い頭に——偉いね、かずくん、と言ったが、今は家事ぐらいでしか働いていないことを知られても「偉いね」と言ってくれるのだろうかと和人は思った。
 六時前に弟が帰宅してほどなくすると、和人は夕飯の準備をはじめた。今のところ家事を負担とは感じていなかったが、祖父の視線を背中に意識して過ごす一日は居心地が悪く、台所でスポンジを握り皿を洗いながら、一人の部屋を切望している自分に気がついた。もっとも、たとえ祖父がいなくて和室をあてがわれていたとしても、不在の母の視線がこびりついた汚れのように家のあちこちに残っているから、ここにはプライベートというものがない。この窮屈さが僕を実家から追い出したのだ。流し場の仕事を終えた和人が母に出すお粥をつくっていると、玄関に父が現れ、いつもより賑やかな晩がはじまった。父は祖父と同時におじぎをし、台所に立つ長男をもの珍しそうに眺めてから——腹が減った、と言った。和人にはそんな光景に母が頬笑んでいるように思えてならなかった。
 しかし、盆に茶碗を乗せて二階に上がると、実際の母は泥のように深く眠っており、起こすのもしのびないので料理を持ったまま下に降りた。粥を鍋に戻し、自分たちの夕飯をつくりはじめる。台所に立つと、背中から聞こえてくる男たち三人のとりとめのない会話とテレビの音に緩慢に包まれ、和人は眠気をもよおした。本当は隙をみて家族の耳が届かない場所で恋人に電話をかけたいのに、今日はご飯のあとには横になってしまいそうだった。のんちゃんと話せるのはいつになるだろう。もう三日は連絡を取っていない。和人の恋人は二つ下の大学の後輩で、卒業してからはアルバイトをしながらカメラの専門学校に通っていた。将来のために前進していく彼女と躓いている自分が明確な明暗を描いているように思えるときがあり、僻んでしまう醜い己れに出会う怯えと声を聞いて励まされたいという甘えが混在して、和人は身体がまっ二つに割れてしまいそうな気持ちに襲われるのだった。
 食事のあと、温かく緩んでいく意識と戦いながら、和人は散歩をしてくると言って家を出た。玄関で祖父が同行を申し出たが、母を見ていてほしいと頼んで一人を勝ち取ることができた。
 八時過ぎの住宅街は思いのほか様々な音に満ちていた。笑い声をあげる幼い子ども、吠える犬、遠くの国道を流れる車のエンジン音。紺色の空にヘリコプターが通りかかると、降り注ぐ羽音でそれらが掻き消され、機影が離れるに連れて町の音が耳に戻ってきた。和人は五分ほど歩いた末に携帯を取り出し、登録された番号の中から恋人のものをタップした。
——もしもし、ずっちゃん? どうしたの、ひさしぶりじゃない。
——うん、特に用はないんだけど、声が聞きたくて。今、電話大丈夫?
——ごめん、学校が終わって、これから電車で帰るところなの。明日こっちからかけ直すよ。
——うん、わかった。ありがとう。
 こうして五分もかからずに通話は切れた。和人は最寄りのコンビニに足を向けてから家に帰った。


 翌日の昼下がり、和人は最寄りにあるファミレスを一人で訪れていた。休職中の彼には会社から課されている義務が二つだけあり、一つは指定の病院へ定期的に通うこと、もう一つは産業医を交えた場での電話による面談だった。後者の義務は月に一度、産業医が会社を訪れる第二火曜日と決まっていて、恋人との連絡を取る前に和人がこなさなければならないものだった。
 盗み聞きをするような人ではないとわかってはいたが、万が一に備えて、祖父の耳に電話の内容が入らないように和人はここにいた。ランチ・タイムが終わったばかりのファミレスにはほとんど人がおらず、窓際にある四人がけテーブルに通された和人の位置からは他の客の姿を認めることができなかった。窓からは店の駐車場とその先にある国道が見晴らせ、疎らな車と人の通行を好きなだけ観察することができた。
 人混みも慌ただしさもないリラックスした風景に自分はいる、と和人は思った。会社との連絡は緊張を彼に強いたが、この環境でなら乗り切れるかもしれない。
 二時ちょうどに着信が鳴った。人事部の課長と産業医が携帯越しにあいさつしてくる。会社との会話は録音した音声をなぞるように同じ内容のくり返しで、和人が病状を報告し、復帰の目処について質問されるというパターンを演じることになる。飽きあきした話をしながらふと店内に視線を向けると、ウェイトレスの一人と目があった。彼女は咄嗟に顔を下に伏せて厨房の方に逃げていったが、残された和人の意識には店員の存在が迫ってきた。何名様ですかと問われて指を一本立て、席につくなりコーヒーを注文し、あとは携帯を耳にあてがい何やら込み入った話をしているこの客が、フロアを行き来する彼女たちにはどんなふうに映るのだろうか。平日のこんな時間にスーツ姿でもない男がやってきて、どんなふうに思うのだろうか。あたかも自分の社会的価値が彼女たちに決められるかのような錯覚に陥り、和人は落ち着いていることができなくなった。
——筑井さん、今日は一つ報告があります。あくまで暫定的な処置ですが、筑井さんのデスクを空けて他の方に使ってもらうことになりました。場所の節約が目的なので私物などは保管してありますから、復職された際にはいつでも元通りにできるので安心してください。
 今さら後悔しても手遅れだが、これなら危険を犯してでも家にいるべきだった。和人の鼓膜は薄情な紺色の制服を着たウェイトレスたちが陰で自分を笑う声を拾いはじめた。それは声というより雑音といった方が近いもので、人の声なのかも定かではなかったが、自分を嘲笑っていることだけは確かだと思えた。
——筑井さん、大丈夫ですか? 聞こえますか?
——あ、はい。聞こえています。了解しました。
 気の重い会話が終わって通話が切れると、発作の前兆を感じた和人は胸を抑えた。ここを出るべきか思案したが、無理に動くのも賢明ではないと判断し、深呼吸でやり過ごすことを自分に課した。手元のカップに目を注ぎ、苦味のある黒から温かい湯気があがるのをじっと眺める。その頃になってようやく、和人は実質的に帰る場所がなくなったことに気づき、コーヒーに口をつけた。
 おそらく会社はもう復帰できるとは思っていないし、自分自身同じ判断をしてしまっている。戻りたいと強くは望んでいない以上、正式に退職になるのを待ってあたらしい生き方を探すしかない。和人は会社にいた頃の場面を思い返してみたが、別れを惜しみたくなるようなものが脳裡に蘇ることはなかった。和人の印象に最も残っていたのは、新入社員を募集するための就活サイトをつくるといって、素材となる画像のためにカメラマンを呼んだときのことだった。ITの会社で見習いプログラマとして働いていた和人は、ふだんは仕事の効率が悪いと途端に不機嫌になる会社が、プログラマの手を止めてまで広報用の写真撮影を重視する姿勢に遭遇し、本当に大事なのはイメージなのだと理解した。仕事に追いつけるようにそれまで昼休みや終業後の時間を費やして技術の勉強をしていたが、それは会社に見えるところでアピールのためにやるのでなければ価値がないと気づいたのである。社員の評価とは日常的な動作の総体であるイメージなのだ。そうしてそう意識しはじめると、就業中の一挙手一動が監視されているように感じ出し、和人は居心地の悪さに襲われるようになった。ところが考えてみれば、会社自体も世間に対してアピールするために写真撮影に躍起になったわけで、会社自体が世間という得体の知れないものに監視されている。そらにその世間もまた、たとえば国民性といったイメージを介して世界から監視されている。しかもその世界とは、凝視してみれば個々の集まりを漠然とそう呼んでいるに過ぎず、実体は何もない。中心がどこにもないのである。ただなんとなくの雰囲気と曖昧なイメージによって自己監視にがんじがらめにされること、これが和人にとっての「会社で働くこと」の意味だった。正月に叔父さんが生きていくにはこれしかないと言っていた道は、こんなにも悪路なのである。
 コーヒーを飲みながらそんなことを考えていると、切ったはずの電話が再び鳴った。和人は驚いて胸に手をあてた。発信元を見ると恋人ののんちゃんの名前が表示されていたので、会社のことが念頭にあった和人は身構えた自分を思わず笑い、通話のボタンにふれた。
——もしもし、ずっちゃん? 今、実家にいるんだったよね。実は近くまで来てるんだけど、これから会えないかな?
 和人は喜んで自分のいるファミレスの場所を伝えた。
 その直後のことである。店員の一人が和人の元に来て、お連れ様をお待ちではないですか、と訊くので、ずいぶん近くにいたんだなと思いながらうなずき店の入り口の方を見ると、祖父がこちらに向かって歩いてくるところだった。
——散歩の途中で窓際にいるかずくんを見かけたものだから、と祖父はどこか言い訳らしくそんなことを言ってから、——何をしているんですけ? と訊いた。
 こんなこともあろうかと英語の教材を備えてきた和人は、鞄からそれを出して祖父に見せ、——勉強しようと思ったんだ。家だと集中できないから、と用意していた答えを口にした。そうですかと祖父はうなずき、ここいいですか? と和人の向かいの椅子を指した。
——こんなところにファミレスがあるなんて知らなかった。ちょっと歩いてから休むにはいい場所ですね。
 コーヒーを注文してから祖父はそう言った。カップが空だったので、和人もおかわりを頼んだ。ファミレスは家から十五分ほど、駅からも十分程度の場所にあるため、確かに祖父の言う通り少し歩いてから休むにはちょうといい立地だった。しかし、だからといってたまたま僕を見つけることがあるだろうか、と和人は思った。祖父は確実に疑いを持っている。
——ところでかずくん、さっき貴方は英語の勉強をしていると言ったけれど、コーヒー一杯を飲み切るまで教科書も出さずにどうやって勉強していたんですか。
 じっと見つめられ、和人は返答に窮した。口籠る彼に、——私に何か隠していませんか? と祖父が追い討ちをかける。時間稼ぎを求めて厨房に視線を送ったが、頼みの綱は呆気なく切れた。店員が出てくる気配はまるでない。和人は九十の老人の鋭さを前にすべてを諦めようとしたが、そのとき客の入店を告げるベルの音と共に、
——ずっちゃんお待たせ、という恋人の声が響いた。
 のんちゃんは和人の対面に座る祖父を見ると、こんにちはとあいさつしてから首にさげていたフィルムカメラを持ちあげ、——ちょっといいですか、と言った。問われた祖父がなんのことかわからず、はあと空返事をすると、カシャリ、カシャリとカメラが鳴った。
——かわいいですね、いい表情ですねえ、グッドです!
 写真を学んでいるのんちゃんには好みの老人を見つけるとシャッターを切らずにはいられない癖があった。
——こちら、交際しているノゾミさん、と和人は祖父に紹介した。——隠してて悪かったんだけど、実は今日彼女と待ち合わせてたんだ。
——そうだったんですか。それじゃあ私はお邪魔かな。
——私は構いませんよ。一緒にお茶しましょう。
——いや、ちょうどいい時間だし私は失礼します。ノゾミさん、かずくんのことよろしくね。
 そう言い残して祖父は店を出た。残念とつぶやいてのんちゃんはその背中を見送り、和人はほっとすると同時に大事な機会を逃してしまったような気持ちになった。
 店員が二杯のコーヒーを持ってきたので、祖父の代わりにのんちゃんが受け取り、フーと息を吹きかけてから和人の方を窺った。写真の構図でも考えているのだろうかと思っていると、
——ずっちゃん、発作起こした? 大丈夫? と言った。顔色から和人が発作を起こしかけたことを察したらしい。
——なんとか。
——パニック発作ってどんな感じなの。
 考えてみれば、発作のことを面と向かって訊かれたのはこれがはじめてかもしれない。どう伝えればいいのか、和人は少し悩んだ。
——パニック発作を起こすと現実が姿を変える。なんでもない光景や人の群像が禍々しく脅迫的な鬼のようなものに変貌する。発作が治まって日常に帰ってきたとき、しばらくはまだ発作の余韻があって、電車が去ったあとの閑散としたプラットホームに杖をつく老人や鳩が残っている、そんな長閑な光景にすら怯えてしまうことがあるんだ。獰猛な角や鋭利な牙がまだどこかに隠れているように思えてしまうんだよ。老人から杖で殴られたり、ヒッチコックの映画みたいに鳩が僕の目をくり抜こうと襲いかかってきたりする可能性が物理的にゼロにならない限り落ち着けない。こんなものは荒唐無稽な想像なのかもしれないけれど、僕は想像の中で実際に襲われていて、恐怖や痛みを現に感じているんだ。それが発作のあいだの一時的なものだとしても、他人には見えなくても、僕にとってはこれが現実なんだ。だんだん冷静になって動悸が治っても、その現実の余韻が元に戻ったはずの日常を変えてしまっている。だって冷静に考えたら、荒唐無稽な想像じゃなくても、突然の事故や突発的な犯罪に巻き込まれる可能性は常にあって、僕たちが毎日無事に生きていられるのはまったくの偶然でしかないんじゃないか? 僕には自分たちの命がたまたま風が吹かないから消えずにいる灯火みたいなものに思えてならないんだ。
——でも、そんなふうに思っていたら生きていけないじゃない。まさか自殺を考えているの?
——違うよ。僕は絶対に生きていたい。死にたくなんかないよ。ただ、怖いんだ。僕だけじゃなくてのんちゃんや親に何かあったらと思うとさ。
——ちょっと考えさせて。今はなんとも答えられそうにないから。
 話を保留したのんちゃんは、このあと用事があると言って店を出た。一人残された和人は、今度こそ本当に英語の勉強をはじめた。


    6

 

 母の静養も三日目に入り、症状はかなり引いてきていた。峠を越すと登りより下りの方が歩速が増すもので、立つのがやっとだった病人は三日目にして目を見張る回復の兆しを示して家族を安堵させた。長時間立ち働くわけにはまだいかなかったが、復帰がようやく見えてきたところである。麓を視界に捉えた登山の終わりといった状態で、地上への復帰にはあと少しかかりそうだったが、軽く動く分には問題ないとのことだった。この場合の地上とは家事の主戦場である一階のことだったが、たまにそこに降りてきては自分の状態をバッテリーの短いロボットのようなものだと言って笑う余裕が当人にはあり、周囲はそんな姿に安堵しつつも、早く復帰してもらえないだろうかと不安がってもいた。というのも、思わぬ形で兄弟ゲンカが勃発したからである。弟のひとことをきっかけに、食卓はささやかな戦場と化していた。
——おにいちゃんの料理ってさ、気持ち悪い。
 和人はテーブル越しの弟に、——どういう意味だよ、と凄んだ。
——おかあさんの味に似ているのに微妙に違うから、食べてると変な感じがするんだよ。
——嫌なら自分でつくれよ。
 じゃあそうするとと応えると、弟は和人の料理を流しに捨てにいった。食べ物がシンクを叩くボトンという音が爆撃のように耳を襲ってくる。腹の虫が騒ぎ出した和人は、——どうせつくれないくせに、とテーブルに戻ってきた敵を迎え撃った。
——つくれるって言ってるじゃん。
——まあまあ、と祖父が仲裁役を買って出る。
——は俺は食えるなら誰がつくってもいいぞ。
 父親を無視して兄弟は睨み合った。
——おにいちゃんは本当はわざとやってるんじゃないの? 確信犯なんだよ。
——わざとそんなことできるかよ。なに言ってるんだよ。
——嘘だね。おかあさんにはわかるはずだし、おにいちゃんだって薄々は自分のことを疑っているはずだよ。
——なんの話だよ。僕はなにも疑ってなんかない。
 ドン、という大きな音が台所の方で響いた。なにかが床に落ちたようである。和人が見に行くと、コンロの上に鎮座していたはずのフライパンが下に転がっていた。念力で吹き飛ばされたように仰向けになって裏面を天井に晒している。拾おうとすると、——僕がやるからいいよ、と後ろを尾けてきた弟に背中から言われた。勝手にしろと兄が引くと、弟は珍事を起こした品を流しで洗い、自分の料理をはじめた。和人はテーブルに戻り、成り行きを見守っている二人に——ちょっと外を歩いてくる、と言い残して散歩に出た。
 フライパンが床を叩いた衝撃音は、一瞬だけ和人に事故の衝撃を思い出させた。車が電柱にぶつかる不快な音とドンという音とが重なって聞こえたのである。どうしてフライパンが落ちたのだろう? コンロの上に傾けて置いてしまったのだろうか。それともただの偶然だろうか。偶然と言えば、あの事故だって偶然の産物ではないか。本当は僕一人が怪我をして終わるはずだったのに、そうなっていた可能性の方が高かったはずなのに、現実は気まぐれを起こして母に向かった。和人は住宅街を抜け、誰かに導かれるようにコンビニの方角へ足を向けていたが、本人はそのことを意識していなかった。確信犯、と弟は言った。突発的な行動で母の身が危険に曝されることを、自分は知っていてあんな行動に出たのではないだろうか? いや、そんなはずはない。あの事故だって、風に任せて歩いている今の散歩がどこに行き当たろうと、それが偶然に他ならないのと一緒ではないか。しかし、本当にそうなのだろうか……。
 突き当たりの角を曲がれば出会い頭にコンビニが構えているという通りまで来たとき、和人はアパートなのか雑居ビルなのか判然としない建物の前を通りかかった。そこではちょうど、黒いニット帽にマスクという出で立ちの男が立ち止まって、鍵で建物の裏口を開き、濃い影になった中の空間にその身を踊らせたかと思うと、ドン、と大きな音を立てて扉を閉めたところだった。嫌な場面に出会した、と和人は思った。格好のせいで男の印象は殺人犯のようだった。人の耳も憚らず、大きな音を立ててドアから施設に侵入する殺人犯。気にしないようにしようと心がけながらも、コンビニ店のうるさい音楽に出会うまで、和人は頭の中で何度もドンという音を反響させた。
 特に必要なものなどなにもなかったから、適当なお菓子を二つほど籠に入れ、持て余した時間を雑誌コーナーに費やすことにした。週刊誌の一冊を手に取り、表紙も見ずにパラパラとめくってみると、相模原殺傷事件を特集したページに目が止まった。記事には犯人の生い立ちがセンセーショナルに書き連ねられていたが、和人の興味はそこにはなく、掲載されていた写真の、肩の刺青をカメラに誇示する犯人だけに向いていた。装いの厳つさとは正反対に、男の目には弱々しい光が宿っている。まるで自分を疑い、自分には価値がないと怯えているかのようなその目に自分の目を合わせることがやめられなくなった。この目にはどこかで見覚えがある。この犯人のものではなく、もっと身近な、誰か別の人間の目……。
 お菓子を入れた袋をさげて家に戻った和人は、玄関を開けた途端に立ち構える母親と出会い、犯行を目撃された犯罪者のように思わずギョッとしてしまった。
——どこに行ってたの。
——ちょっとコンビニ。それより、起きあがってて大丈夫なの?
——もうだいぶめまいも引いてきたわ。おじいちゃんには明日帰ってもらうことにしたよ。おばあちゃんをいつまでも一人にさせておくわけにもいかないし。明日からは家事も私がやるけど、あんたはどうするの?
 ちょっと考えると応えると、母は和人の先を歩いて居間に入っていった。
 ただいま、と言いながら母につづくと、弟の存在を無視しつつ、——明日帰るんだってね、と祖父に声をかけた。
——ええ、お世話になりました、とおじぎされたので、こちらも頭を下げていると、——コップ忘れたから取ってくる、と母が二階に向かった。その隙をつくかのように祖父が、
——ノゾミさんによろしくね、と悪戯っぽく言った。
——ノゾミさんって、おまえ、カノジョか。おまえカノジョいるのか。
 妙な察しのよさを見せた父が鼻息も荒く問い詰めてくるので、和人は、——いるけど、そのカノジョって言い方やめてよ、と言った。——カノジョって、本来ならただの三人称で、文脈がないと誰のことかわからないじゃん。この場合の文脈って「おまえの」カノジョとか「俺の」カノジョってことになるわけだけど、それだと人のことをまるで所有物にしているみたいで嫌なんだよ。
 父はまた小難しいことを、とつぶやきはしたが、ひとまずカノジョとは言わなくなった。——で、そのノゾミさんってどんな娘なんだよ。
——どうでもいいだろ、と突っぱねていると、——かずくん、ちょっと荷造りを手伝ってもらえませんか、と祖父が助け舟を出してくれた。
 和室に行ってみると、祖父の荷物はすでにほとんど整頓されており、あとは壁際に並べた服をボストンバックに詰めれば済むだけの状態だった。祖父がその最後の仕上げに取りかかるので、和人は手を持て余し、手持ちぶさたにてきぱきとした九十の老人を眺めているしかなかった。
——あの事故以来、貴方たち兄弟の仲をずいぶん心配したものです。言ってみれば貴方は、弟から母親を奪いかけた兄なのですから。
 作業の手を休めず、祖父はつづけて、——でも、今日の貴方たちを見て安心しましたよ。ケンカするほど仲がいいと言いますよね。世の中にはケンカもできないほど険悪な関係の兄弟が五万といますから。けれど、私が帰ったら仲直りしてくださいね。
——むこうが謝ってきたらね。
——兄弟というのは不思議なものです。親の関係ともちょっと違う。ふつうに生きていれば親とはいつか死別しますが、兄弟はなかなかそうはいきません。貴方たちの関係が一生つづくんです。そのことをよく考えて振る舞ってください。
 和人は曖昧にうなずき、お茶でも持ってくるよと言い置いて居間に戻った。そこにはいつの間にか母がいて、——カノジョいるんだってね、聞いたよ、と言われた。
——まあ、いるけど。
——「まあ、いるけど」じゃないわよ。今度、そのカノジョに会わせなさいよ。
——そのうち訊いてみるよ。
——そう言ってなあなあにしないでよ。こういうのは早い方がいいんだから。
 母はもう十分元気になっていた。


 翌日、母が回復したため和人はひさしぶりに自分のベットで目を覚ますことができた。枕元の時計に目をやると、針はすでに昼前の時刻を指している。大きく息を吐いた和人は気怠く身を起こし、階下へ降りることにした。一月にしてはめずらしい陽気な陽射しが家中の窓を明るくしている。居間に入ると、帽子を被った祖父が立ちあがろうとしているところだった。
——おじいちゃん、もう帰るの?
——ええ、そろそろ行こうかと思います。
 平日だったため、父と弟は朝には家を出ており、念のためもう一日安静にしていることになっていた母は家を離れられなかった。祖父を見送るために、和人は慌てて外出できる格好に着替えた。
 玄関の外では、活発な朝を終えた住宅街が暖かい陽射しの元で微睡んでいた。明け方に新聞配達が通った道を今はゴミ収集車がのろのろと這い、家々の戸口の一つからゴミ袋を抱えた女性が慌てて飛び出してきた。和人と祖父はそんな住宅街をゆっくりと歩いた。
 平坦な道で並んでみると改めてわかったのだが、祖父の足は昔と比べて明らかに衰えを見せていた。去年の大きな手術が場合によっては命に関わっていたことを思い、祖父が歩速を気にしないで済むよう、祖父よりもゆっくり歩こうと心がけた。駅まで十分の道のりが十五分になった。
——ここまでで大丈夫ですよ。
 駅前に来たところで祖父が言った。
——わかった、気をつけてね。
——今日までお世話になりました。ありがとう。
 祖父が握手のために手を差し出してくる。握ると、シワを意識せざるを得ないカサカサした皮膚が不思議と和人の手よりも温かかった。
——去年は自分が見舞われる方ばかりだったからわかりませんでしたが、見舞う方というのもなかなか辛いものですね。娘が目の前で苦しんでいるのに、本当のところそれがどんな苦しみなのかわかってあげることも、代わって苦しんであげることもできないんですから。私にできるのはただ回復を待つことだけでした。私みたいな老人にこんな思いをさせないように、かずくんはくれぐれも身体に気をつけてくださいね。では。
 そう言い残して祖父は帰っていった。
 家に引き返す道々、なぜか和人は無償に恋人に会いたくなっていた。今日の夕方、部屋に来ない? 泊まっていっていいから、というメールをのんちゃんに送り、午後には実家を出てアパートに戻ろうと決める。パニック発作は電車に乗ることを契機に起きることが多かったが、帰宅ラッシュがはじまる前の人の少ない平日の午後なら、なんとか自力で帰れるはずだった。
 玄関を潜り、居間にいた母に昼過ぎにはアパートに戻ると告げると、——あんた、その前に手を洗ってきた方がいいんじゃない? 左の手首に刺青みたいな汚れがついてるよ。
 確かに母の言う通りだった。左手首に十字ともバツ印ともとれる黒い汚れがついていた。短い外出のどこでこんなものがついたのだろう? 居間を抜けて洗面所に行き、冷たい水に手首を晒して念入りにこすってみたが、汚れはなかなか落ちなかった。諦めてふと顔をあげると、鏡の中で弱々しい光を目に宿した自分と出会った。
 約束の時間になって荷物をまとめた和人は、母を一人残して駅へと向かった。電車に乗る前から軽い動悸と迫り上がってくるような恐怖心が湧いていたが、それはいつものことだった。移動時間の四十分、この症状が叙々に増していくのに耐えなければのんちゃんに会うことができないのだ。和人は意を決して改札を潜った。
 アパートの前に着くと、夕方の約束だったのにすでに来ていたのんちゃんが、——ちょうどよかった。今、電話しようと思ってたところだったの。早く来ちゃったから急いでって、と言った。もう十分ほど和人の到着を待っていたというのんちゃんを早く部屋にあげようと、リュックを下ろして鍵を探していると、アパートの向かいにある家から老婆が出てきて、じっとこちらを眺めはじめた。
——あのおばあさんいつもああやって見てくるよね。監視カメラみたい。
 のんちゃんに急かされながら部屋に入る。身体が冷えてしまったという彼女をソファに座らせ、和人はコーヒーの用意をした。暖房を入れ、隣に座りながら他愛もない話をする。和人は自分が欲望を感じていることを意識した。手を握り、軽くキスをすると、和人の行為を遮るようにのんちゃんが切り出した。
——あのね、この前のことなんだけど。
——この前のことって?
——ファミレスで発作が起きたらどんな感じなのか訊いたでしょ。あのときから、ずっちゃんの話を聞いてずっと考えてたんだけど、やっぱりどれだけ説明してもらってもずっちゃんの苦しさとか痛みが私にはわからない。自分が似たような経験をしていれば、その経験から照らし合わせて想像することもできるかもしれないけれど、それだって想像であってずっちゃんが感じているまさにその痛みではないもの。それに、こうやって他人の痛みについて考えつづけていると、いったい自分がなにに悩んでいるのかだんだんわからなくなってくるの。ずっちゃんが感じている「まさにその痛み」という言い方を私はしたけれど、「まさにその痛み」が生じているまさにその瞬間、私がやるべきことは痛みについて考えることではなくてずっちゃんを落ち着ける場所に連れて行くことだよね。他人の痛みがわかるとかわからないとか言っている余裕はないはずなの。だとしたら、ずっちゃんが発作を起こしたという具体的な<場>を離れたところでいくら痛みについて考えても仕方ないと思う。大事なのは抽象的な問題じゃなくていざそのときに私が行動できるかなんだから。
 そこまで言うとのんちゃんはコーヒーに口をつけ、先をつづけた。
——そもそも「痛い」という言葉は、まだ言葉を持たないくらい幼かった頃、転んだ拍子に膝を擦りむいて泣いたときに親から「痛いね、痛いね」と言われて身についたものだと思うの。大人は赤ちゃんが泣き叫ぶ代わりに「痛い」と口にする。「痛い」っていうのは周りにそれを知らせて助けを求める声であって、「痛み」と形を変えても事情は一緒。泣き叫ぶことの代替行為なんだよ。「痛い」を聞く他人がいなければ痛みは存在できないの。だから「痛み」という言葉そのものが厳密には痛みの感覚それ自体を指していない。大事なのはそれを聞いたときに行動できるかであって、他人の痛みそのものを感じられるかという抽象的な問題じゃない。ずっちゃんは発作が起きても隠そうとするから、私が気づいてあげられるかが問題なの。
 のんちゃんの長い話を聞き終えると欲望はすでに引いていて、和人はここまで自分のことを考えてくれる恋人に感謝した。二人はその後もお喋りをつづけ、並んで座ったまま夜を迎えた。


    7

 

 真夜中に通知を知らせる携帯のバイブレーションが鳴り、眠りの浅い和人は目を覚ました。隣で寝息を立てている裸ののんちゃんを起こさないように気をつけて頭をあげると、枕元でのんちゃんの携帯が光っている。青白いディスプレイの輝きが天井に向かって放射状に放たれ、和人の目を冷たく刺激した。霞む視界にこらえながら携帯を手に取ってみると、「マコト」という人物から——昨日は会えなくて淋しかった。愛しているよ、という短いメッセージが送られてきていた。
 女友達がふざけてやったことかもしれない。「マコト」という名前から男なのか女なのかを判別するのは難しいから、その可能性はゼロではない。しかしいずれにせよのんちゃんからそんな名前の友達がいるとは聞いたことがなかった。隠していたのだろうか。和人にはベットを共有している恋人が突然得体の知れない女になったように思えた。一方でのんちゃんが自分を裏切るはずがないという気持ちはまだ捨てていない。彼女のことをすべて知っているわけではないが、多くのことが自分の元で明るみに出ているはずだった。いや、ほとんどのことを僕は知っている。僕たちはふつうの恋人とはちがう結ばれ方をしているのだから。
 その事件はのんちゃんとつきあい出して一年が過ぎた頃に起きた。当時はまだ会社で働いていた和人の元に、唐突にかかってきた一本の電話がすべてのはじまりだった。
——和人さん、私もう駄目かもしれない。
——のんちゃん? いったいどうしたの?
——私になにがあっても、これだけは覚えていて。私はあなたのことが本当に好きだった。
 これだけ言うと、かかってきたのと同じ唐突さで電話は切れた。
 和人が事態を理解したのは半日後、仕事を終えてアパートに帰宅した際、改めて彼女と連絡を取ったときのことだった。昼のあれはなんだったのか訊ねると、のんちゃんは次のように答えた。
——今まで隠していてごめんなさい。実はうちのおとうさん、お酒を飲むと人が変わってみたいに暴れるの。今までも私やおかあさんに手を出すことはあったんだけど、今日はそれがエスカレートして、包丁を持ち出して暴れたから、私、もう駄目かもって思って。
——怪我はない?
 かろうじて和人はそれだけのことを言えた。
——うん、大丈夫。もし今日、またおとうさんがなにかしたら警察を呼ぶつもり。だから和人さんは心配しないで。
 こう言われて心配しない恋人がいるだろうか。和人はスーツを脱いで身軽な格好に着替え、以前教えられていた住所を頼りに彼女の実家へ向かった。
 横浜市の外れにあるその場所は、夜も深いというのにパトカーのランプに照らされ赤々と明るんでいた。家の前に警察の車が三台も並んでいる。戸口の前では警官に囲われた男が——離せ、離せ、と叫んでいた。あれがのんちゃんの父親だろうか。
——和人さん?
 一台のパトカーの後ろから人影が現れ、近づくに連れてのんちゃんの姿になった。赤い光の中で顔がやつれている。
——大丈夫?
——私はなんとか。来てくれたんだね。
 和人がうなずくと、のんちゃんは手を握ってきた。そのタイミングで救急車がやってくるのが見えた。
——誰か怪我したの?
——おかあさんが腕を切られたの。
 和人の意識はだんだんと現実に追いつけなくなっていた。目の前でたくさんの警察がうごめいていることにも、包丁で人が切られることにも現実感がなかった。ワイドショーの中に迷い込んでしまったのだろうか。
——おかあさんが連れていかれたら、私、ここで一人になっちゃう。お願い、和人さん、私を連れて逃げて。
 つないだ手に力が込められる。和人は自分がなにをしようとしているのかわからないまま——うん、と言い、今夜身を寄せられるホテルを探した。
 横浜駅からほど近い場所に泊まることのできるビジネスホテルを見つけた和人は、のんちゃんを連れて部屋に入るなり固くドアを閉めた。落ち着いた茶色の絨毯に肌色の壁、西向きに大きな窓があり、窓の手前にソファセットとフロアライトがあった。ミッドセンチュリーというのだろうか。泣けなしの選択肢だったことを考えれば十分に快適な部屋だった。和人はもう大丈夫と声をかけるが、のんちゃんはベットの端に体育座りするなり顔を伏せて震えている。——おとうさんが追いかけてくる気がするの、と言って動こうとしない。大丈夫だよと励まそうとした和人は、なにが大丈夫なのか自分でもわからなくなって口を閉ざした。
 無言の重い時間がつづく。テレビを点けて沈黙をかき消そうとしたが、すぐに——消して、と言われてしまった。話しかけても反応はない。一度だけ、——おかあさんは大丈夫かな、と口にしたときに顔をあげたが、それ切り彼女はいっそう深く顔を膝のあいだに埋めてしまった。耐えきれなくなった和人はシャワーを浴びてくると告げて浴室に入った。清潔なユニットバスと大きな鏡が迎えてくれる。気分が落ち着くかもしれないとお湯を浴び出したが、目を瞑ると途端に不安が襲ってきた。すぐ近くに誰かがいるような気配がする。気のせいだと首を振り、頭を洗っていると、肩の辺りを誰かが触れたような気がした。——のんちゃん? と和人は呼びかけるが、返事はない。怖くなった。たとえすぐ近くにいなくとも、なにかが自分たちに迫ってきている。
 急いで身体を拭き、和人は浴室を出た。のんちゃんは相変わらずの姿勢でうずくまっている。少し冷静になろう、と和人は自分に言い聞かせた。僕まで取り乱してどうするんだ。
——ここは安全だよ。おとうさんは今ごろ警察だろうし、誰も追いかけてきたりしないよ。
——わかってる。けど、誰かの足音がさっきからずっと聴こえてるの。それがちょっとずつこっちに近づいているような気がして……和人さんには聴こえないの?
——なにも聴こえないよ。
 嘘だった。和人の耳にも、微かにではあるが足音がする。硬く冷たい靴が床を叩きながらゆっくりこちらにやってくる音だ。こんなものは幻聴だ、ただの気のせいだと胸の中で何度も言い聞かせているが、音はいっこうに止もうとしない。身体を洗ったばかりなのに、額に汗が滲んだ。
——仮になにかが近づいてきているんだとしても、それはおとうさんじゃないよ。のんちゃんにはなにもしない。
——わかってる、そうじゃないの。私は和人さんが心配なの。和人さんがいなくなったら、私、本当に一人になってしまうから。
 恋人の言葉に和人はたじろいだ。のんちゃんは僕を心配しているからうずくまっているというのか。なら、こちらに向かってくるあの足音はなんなんだ。靴は先ほどより荒々しく廊下を叩き、攻撃的な反響が部屋の壁を抜けて和人の鼓膜を襲っていた。もはや幻聴とは言えないほどはっきりとした音だった。廊下のなにかは確実にこの部屋の階にいて、廊下を歩いて今にもここへやってこようとしている。また足音が近づいた。のんちゃんは両耳を塞いで頭を抱えるようにしている。——怖い、とその口から漏れた。恐怖が和人にも伝染した。そしてドアノブが下がり、そっと扉が開いく……


 眠りかけていたことに気づき、和人はベットから抜け出してソファに座った。記憶と混濁した嫌な夢を気持ちから振り払う。今は冷静にならなければいけない。のんちゃんが起きてくるのを待って、自分が抱いている惨めな疑いがつかの間の亡霊であることを証明してもらおう。それまでは寝ずにいると決めたのだ。
 右を見る。布団を被ったのんちゃんが安らいでいる。和人はソファの縁に頬杖をつき、彼女のもつれた髪と開き加減の口を憤りもなくしばし見つめる。たぶん、すべてを打ち明けたわけではないのだろう。あのとき、ビジネスホテルの一室で彼女は長い時間をかけて自分の人生を詳らかに語ったが、まだ話していない出来事が話したことと同じくらい多く存在しているのだ。その影の部分に「マコト」は含まれている。不意打ちに現れた彼は一人の人間をすべて知った気になっていたことへの罰なのかもしれない。少し頭を冷やした方がいい。和人は洗面所で顔に水をかけ、それでも飽き足らず、上着を羽織って部屋を出た。雪が降っていた。ドアの前にある柵にもたれかかり、アパートの二階から無人の通りを眺める。明け方にも満たない時刻、向かいの家の監視カメラも今は寝入っているようだった。家々の窓をかさかさと雪が一撫でしていく。和人はこの景色の中に溶けてしまいたいと思ったが、それものんちゃんが目を覚ましてからにしようと自分に言い聞かせた。今は朝を待つんだと決めてしまうと、急に眠気と寒気に襲われた。和人は部屋の中に引き返すことにした。
 ぜん息の発作を深夜に経験したときもこんな気持ちだったろうか。のんちゃんはまだ眠っている。その顔を眺めていると永遠に朝が来ないような気がしてくる。このまますべてを曖昧にして、時を止めてしまうこともできるのだ。のんちゃんが目覚めてもなにも訊ねず、なにも見ずに今日をやり過ごしてしまう。そうすれば垣間見た深淵と無縁に彼女との生活をつづけていくことができる。幼かった頃にはこんな選択権はなかった。病気の子どもはずっと親を待つ他にはなにもできない。それと比べれば今は幸せですらある。和人は上着のままソファに寝そべった。
 頬を焼く陽射しを感じ、いつの間にかうたた寝していたことに気づく。変な姿勢でよこになっていたために首や肩が痛い。伸びをしながら部屋を見渡すと、のんちゃんがいなくなっていた。
 慌てた和人は誰もいないベットやトイレを確認し、本当にいなくなってしまったのだと理解した末、テーブルの上の書き置きに気がついた。そこには「用事があるので帰ります。愛しているよ」と書かれていた。書き置きを手にしたまま、和人は恋人の名前をつぶやいた。のんちゃんは「マコト」のところに行ったのだろうか、それとも言葉通りなにか用事があったのだろうか。しかし、用事とはいったいなんだろう。和人は渦のような思考に飲み込まれていった。そのせいで、電話で直接訊いてしまえばいいという単純な解決策を思いつくのにしばらく時間がかかった。彼女がこの場にいなくとも連絡を取ることはできるのだ。和人が携帯を手に取り、通話用の画面を表示していると、そのタイミングで誰かから電話がかかってきた。携帯を操作しているところだったせいで、発信元を見る間もなく電話がつながった。
——もしもし、という母の声である。——今ちょっと大丈夫?
——うん。
——おじいちゃんのことなんだけどね、あんたの状態、全部話しちゃった。
 え、と和人は声をあげた。ショックを与えないよう隠せと言ったのは他ならぬ母だったはずだ。——どうして? と和人は言った。
——あんたのことでいろいろ考えたんだけどね、もし仮によ、もし仮に生まれたときからあんたが今の病気になるとわかっていたら、どうしただろうって。最近は妊娠中に子どもの障がいを検査できるそうじゃない。親によってはわかった段階で中絶を選ぶ人もいるんだってね。パニック障害は生前にはわからないだろうけど、もしわかったとしたら、あんたを中絶していたかなって、自分に訊いてみたの。答えはノー。そんなことはしなかった。負担を強いられてもかまわないと思ったから。でももっと考えると、たとえ子供への愛情が間違いのないものであっても、具体的な毎日の負担は人を消耗させるものだから、追い詰められたときに普段なら想像もしないような行動に出たりすることもあるかもしれない。あんたを殴って病気のきっかけをつくったっていう男も、きっと何かに疲れ切っていたんでしょう。子育てをすれば、誰しも子供に怒りを覚える瞬間があるものだから、咄嗟に我を失うということはわからなくもない。もちろんだから人に暴力をふるっていい理由にはならないけどね。今は女性も働くのが当たり前の時代でしょう。もし、その男と同じような精神状態の女性がいたとして、その人が妊娠して、ストレスの後遺症が抜けきらないまま子どもの障がいを知らされたら、「この子には価値がない」と思ってしまっても不思議ではないのかもしれない。でも、それは愛情がなくなったからでも、ましてや本当にその子供に価値がないからでもない。母親を助けるための手を誰も伸ばさない、そんな周囲の環境に問題があるのよ。病人はその子ではなくて私たちの方なんだろうなって考えたの。きちんと話をきいてあげて、きちんと話してあげることが必要なのよ。あんたを病気にした男と同じように暴力に訴えるんじゃなくてね。人っていうのは、話すことをやめたときに手を振るうようになるのよ。だから、おじいちゃんに黙っていることは、あんたに対してもおじいちゃんに対しても暴力なんだって気づいたの。だから話したの。おじいちゃん、辛いだろうけど頑張れって言ってたよ。ショックで倒れるなんてことはなかった。そんなに弱い人じゃないのよ。
 母の長いひとことのあとに、和人は——うん、と応えた。
 電話を切った和人は、のんちゃんと会って話し合おうと決めた。どんな答えが返ってきても、きちんと言葉で彼女と向き合おう。ケンカになったって構わない。不安を抱いている今の状態に絶望して、黙って嫉妬だけを膨らませていけば、きっとあの男と同じになってしまう。人は表現することを放棄したときに最悪の暴力に手を出すものなんだ。たとえケンカになったとしても、不安にながら自分の言葉が相手に届くことを願うしかない。和人はのんちゃんと連絡を取り、会う約束を取りつけた。