いえばよかった日記

書評と創作のブログです。

シスターフッド


    1

 

 文藝2020年秋号に掲載された高島鈴のエッセイによれば「シスターフッド」とは勝つための政治的戦略なのだという(「蜂起せよ、<姉妹>たち シスターフッドアジテーション」)。なるほど、構造的に分断を強いられてきた女性たちに連帯と団結を呼びかけたこのエッセイはアジテーションたりえているが、一方で高島が掲げる「sisterhood」という言葉に含まれる「hood」とは「覆い」のことにほかならず、「シスターフッド」とはなにか決定的なものに覆いをかけたところで成り立っている概念なのではないかという疑問を抱いた。その決定的なものとなんであろうか。具体的にみていきたい。
 高島は前述のエッセイの最後で「他ならぬあなた」と読者に対して信念の共有を呼びかけているのだが、男性や、女性であっても自分の論に賛同しない者がこの「他ならぬあなた」に含まれているようには見えない。実際、高島は自分が呼びかける読者の条件として「あなたがこの戦略を信じてくれるなら」というものをつけている。僕はここに違和感を抱いた。高島の手は「シスターフッド」という信念を受け入れた読者の「胸ぐら」を掴むことはできているが、信念に共感できてもそこからはみ出てしまう読者は素通りしてしまっている。後者の例としてたとえばこのエッセイには男性のフェミニズムの可能性が決定的に欠けているし、フェミニズムに参加することができないトランスジェンダーの微妙な葛藤が考慮されていない。身体的には女性だが性自認は男性であるような人物はこのエッセイをどう読めばいいのだろうか。そういう疑問を持ってエッセイを読み返すと、高島の「他ならぬあなた」には他者としての「あなた」が欠けていることに気づく。反論する者は「シスター」にあらずと暗に宣言しているように読めるのである。しかし、むしろこのエッセイに反論を企てるような「あなた」を「シスター」として包括するときにこそ、「シスターフッド」という政治的戦略は勝利を収めることができるのではないだろうか。
 以前このブログで論じたため詳細を省くが、ヴァージニア・ウルフは『ダロウェイ夫人』のなかで特異な手法によって個々人の感覚の差を描いている。(拙論「偏在する「私」——ヴァージニア・ウルフ『ダロウェイ夫人』について」https://iebayokatta.hatenablog.com/entry/VirginiaWoolf/MrsDalloway)。ここでいう「個々人」には当然女性同士も含まれており、むしろ階級や境遇に差のある女性同士にこそ感覚や価値観に違いがあり、確執があることが描かれていた。つまり女性である「私」が女性である「あなた」に対して暴力的であることがありうるのである。たとえばそれは作中でダロウェイ夫人が結婚したことでかつての魅力を失ってしまった幼馴染みのサリーに抱く視線や、何より容姿が醜いという自覚のために結婚を諦めそのかわり学者顔負けの知識を得た自立した女性である家庭教師のミス・キルマンに対して持つ敵愾心によってありありと明かされている。一方でサリーやミス・キルマンの内的独白を介して富を好み貧を蔑むダロウェイ夫人の俗物さも批判的に描かれており、彼女たちが同盟を結ぶことの難しさを伺わせる。それではウルフはフェミニズムに否定的だったのだろうか。そうではないことは史実が明らかにしている。むしろウルフこそ第一波における代表的なフェミニストだった。『三ギニー』や『自分ひとりの部屋』を読めばそのことは明らかである。ウルフは『ダロウェイ夫人』において「シスター」になれずにぶつかり合うような人々の間にこそ人生の美しい瞬間が訪れることを描いており、どのような価値観もありのまま内包する視点にこそフェミニズムがあると考えていた。
 こうして書かれた『ダロウェイ夫人』には女性だけでなく戦争で負った精神的外傷がもとでPDSDを患い周縁に追いやられた男性をも包括する視点を持った作品となり得ている。多様な価値観の間で「私」が意見も立場も異にする「あなた」と隣り合う世界を肯定しているのである。個々人において感覚も立場も異なる世界ではぶつかり合いや諍いが絶えないかもしれないが、それでも一つの価値観を強行して「あなた」を許容しない世界には存在しない美しさがある。僕はウルフが描いてみせたような異論や反論を内包してしまうような豊かな視線をこそ「フェミニズム」だと考えたい。高島はラディカルという言葉を「過激」と解釈することを退けているが、僕が考える「フェミニズム」はむしろ「フェミニストでなければ人にあらず」といった過激さを肯定している。その過激さが宿す暴力性を自覚し、具体的な身近な他者との関係において自分が暴力でありうるとおののいたときに本当の勝利が訪れると信じるからだ。大事なのは「あなた」との具体的な関係において「私」が暴力であるという痛みを伴った自覚が生じるか否かであり、痛みのないところで成立するどんなフェミニズムにも僕は興味を抱けない。「他者との関係において痛みを恐れるな」というメッセージこそが女性以外をも含んだ本当のアジテーションとなりうるのではないだろうか。

 

    2

 

 しかし、僕が示した程度の認識なら文藝2020年秋号に掲載された作品のなかだけでも小澤英実や王谷晶がより深く省察しており、高島鈴のエッセイにしても僕がしたような批判など百も承知で書かれているのかもしれない。男性である自分が余計な嘴を挟む余地はないのではないだろうか。また、男性の目線から「シスターフッド」を語るという点ではTVODによる「シスターフッドについて語るわれわれというブラザーフッドについて」で十分に記述されており、彼らの認識は概ね頷けるものとなっている。それゆえこの原稿は没にしてさっさと忘れてしまおうかとも考えたのだが、そうするには小骨が喉に刺さっているような違和感がどうしても拭えないのである。なにかが引っかかっているようだ。この引っかかりがなにに起因しているのか考えるにあたって、足がかりになりそうなのは何人かの執筆者が「シスターフッド」というテーマに対して困惑したという事実を書きとめていることである。彼女たちは何に困惑したのだろうか。
 この点についてもっとも率直に語っていると思われるのが秋元才加のエッセイ「手を取り合い、最短の道を行く」である。彼女がそこで挙げている理由は「シスターフッド」という言葉を知らなかったからというものだ。正直に告白すれば僕自身も文藝で特集が組まれるまで「シスターフッド」という言葉を知らなかった。しかし、これは本質的な理由ではないだろう。もっと重要なことを小澤英実が「抗体としてのシスターフッド ともにあることの認識論」で示している。小澤はそれを高島鈴の論考から引いて「ホモソーシャルゾンビ」と表現している。「女が三人集まると、大抵ほかの二人が仲良くなって自分が余計な存在に思えたし、集団では輪に入れない劣等感があった」。僕は女性ではないがこの感覚はよくわかる。僕自身「ホモソーシャルゾンビ」にほかならないのだろうが、それはともかく、連帯を掲げれば孤立する人が出てくるのは避けられない事態なのだ。「シスターフッド」が女性たちの連帯を目指す以上、その輪に入り切れない「ホモソーシャルゾンビ」は一定数あらわれる。彼女たちのなかには「シスターフッド」を公然と批判する者もいた。小澤が挙げた代表的な例としてはスーザン・ソンダクやハンナ・アーレントといった思想家がそうである。彼女たちのような連帯できなかった女性は切り捨ててしまえばいいのかというと話はそう簡単ではなく、彼女たちのような思想家こそが女性の権利拡張に貢献してきた。この事実は無視できないものである。
 何人かの執筆者が「シスターフッド」という言葉に困惑したのは、小澤と同様に自分が「ホモソーシャルゾンビ」だったという感覚があるからではないだろうか。人々を一定の方向に仕向けたときに多かれ少なかれそれに乗れない個々人の感覚差が出てくるのは当たり前で、そうであれば表面的には連帯しているように見える人々の間にも差異が生じてくるのは必然である。「シスターフッド」という一つの方向は個々人の感覚差を押し殺したところで成り立っており、特集に書かれた各論からはその軋みが微かに聞こえてくる。小骨のような引っかかりとはこの軋みにほかならない。この小骨を抜く方法は一つであり、それはたとえ一定の方向のもとに各人が団結することを目指す場合であっても、個々人の差異を許容し、「私」にとっての「あなた」が生じるような関係性を殺してはならないというものである。「シスターフッド」による連帯とは全体性ではないはずだ。
 「シスターフッド」が意見を異にする「あなた」を許容し全体性から逃れるためにはどうすればよいのだろうか。そのヒントは小林秀雄の「表現について」に書かれている。音楽を歯切りにした芸術一般の表現について語ったこの論考のなかで、小林は小説家が扱っているのは言葉ではなく描写の対象となる事物であると主張する。言葉ではなく事物を扱って思考することを仮に「小説的思考」と呼ぶことにするが、「小説的思考」の代表的な機能は隠喩ということになる。なぜなら彼の扱う言葉はすべて思考の対象となった事物のメタファーであるととれるからである。また隠喩とは事物Aと事物Bを並置することで第三の意味を産出する技法であり、意味を生み出す能力であるということができる。さらにこの能力を分析してみると、隠喩は事物Aである「喩えたもの」と事物Bである「喩えられたもの」に分解して考えることができる。この場合、一方で「喩えたもの」は「喩えたもの」ならざるものと化し、「喩えられたもの」は「喩えられたもの」ならざるものと化す。たとえば「彼は犬のような男だった」という一文を考えてみよう。この文のなかでは事物Bの「喩えたもの」である「犬」は単なる「犬」を意味するのではなく、卑屈さや隷属のニュアンスとなって更新され、一方で事物Aの「喩えられたもの」である「男」は人間のなかの男一般を指すものではなく「犬」の性格を付与された者となり、男一般とは区別される。このような隠喩的関係が成立した状態で「犬」という言葉を使ったとき、それが指すのはもはや犬ではなく人間である。犬としての「犬」という言葉はこのとき空洞化されているのである。意味を産出する隠喩は裏の顔として意味を剥奪する側面を持っている。

 

    3

 

 小林秀雄は「様々なる意匠」で〜主義という視点で文学を見つめることを批判した。「意匠」とは上述で分析したような隠喩が産出する「意味」である。これは「意匠(=〜主義)」もまた意味を生み出す裏で意味を空洞化していることを示している。小林秀雄はだからこそ「意匠」を批判した。彼の批判もあってか現代において「意匠」はもはや滅びたと思っていたが、立ち止まってみるといま現在にこそ「意匠」は亡霊のように跋扈しているのではないかと思われてくる。しかも現在の「意匠」は〜主義というかたちを取らないだけに幽霊の如く捉えにくくなっているのではないだろうか。たとえばその例として「ジェンダー」が挙げられる。現在の文学の潮流において「ジェンダー」は主要なテーマの一つとなっており、まさに一つの「意匠」の体をなしているが、現代の文学において「小説的思考」を介して描かれた「ジェンダー」という隠喩的テーマは今まで不当な扱いを受けてきた社会における女性の存在に光を当てたが、一方その陰で生身の女性を生きづらくしている側面もある。専業主婦としてパートをしながら働くこと、夫に扶養されることに安らぎを覚える女性は一部の「フェミニズム」を自分に対する批判だと思うだろうし、「女性専用車」のような公正なふりをしていてその実差別的な奇妙な存在がまかり通ってしまっている。これらが陰の例証である。これらの陰は、たとえば文藝における「シスターフッド」特集のような、執筆者全員がある程度おなじ一定の方向性を持つために多様性が失われている状態にもありありと痕跡を示している。「意匠」としての隠喩がある意味に焦点を合わせることであるとするなら、合わせられた焦点を横へズラすものとして換喩というものが考えられる。詳細は後述するが、換喩は小説においては文体の工夫というかたちを取り、小説の外では批評というかたちを取る。そのため仮に換喩による思考を「批評的思考」と呼ぶことにするが、この「換喩的思考」が蔑ろにされてしまったせいで隠喩的作品に満ちた一部の文芸誌において全体性のごときものが生じてしまっていると考えることができる。「小説的思考」の光によって焦点を当てられた「意匠」に対し、「批評的思考」は換喩的にその焦点をずらし、光によって見えなくなった陰を明るみに出すことができる。それが「批評的思考」の役割なのである。
 そのような「批評的思考」を有した作品として『ダロウェイ夫人』を読み返してみよう。この作品は第一波のフェミニズム運動の最中に書かれており、その意味では「フェミニズム」という「意匠」を有したものだと言えるのだが、ウルフは意識の流れと内的独白を駆使した実験的文体を創造することにより「意匠」による焦点の一点集中を防いでいる。その実例が前述したPDSD(シェルショック)を患った男であるセプティマスの視点であり、セプティマスの混乱した意識とダロウェイ夫人の端正な意識とが部分的に重ね合わせられ、二人を一種の分身のような関係として描くことで「フェミニズム」という一つの視点では括れない多様性を作品に付与することに成功している。これは従来の小説を批評的に検証し、その結果を文体に込めたウルフの「批評的思考」の成果である。「批評的思考」はこのように一つのテーマで全体を支配することから作品を解放し、換喩的なズレを生じさせている。
 文体に工夫を凝らしているために反面では読みにくくなってしまっている『ダロウェイ夫人』と文藝のシスターフッド特集に収録されている王谷晶の『ババヤガの夜』を対比してみると、まず目につくのは文章の読みやすさである。『ババヤガの夜』は『ダロウェイ夫人』と比べれば立ち止まることなくスムーズに物語を追っていくことができる。その物語についてなのだが、冒頭でまだ固有名詞が明かされる前の主人公である女が男の集団を打ちのめすという場面が描かれている。僕はこの場面になにかルサンチマンの解消のようなドロッとしたものを感じた。実際、女が男たちをなぎ倒していく展開は倒される男たちの一人が口にした「ひでえブスだな」という台詞の直後であり、ルッキズムに対する女の復讐がなされたように読めるのである。もちろん、だからダメだと言いたいわけではない。復讐は復讐を生むというありふれた台詞を吐くつもりはないし、ルッキズムの問題はそれとして解決されるべきものに違いないからである。ただしおなじ問題を扱うのであってもウルフなら違うように書いただろうとは言える。少なくとも文体の工夫という換喩的な要素が前面に出ていたであろうことは想像に難くない。そしてウルフとのこの差異は王谷晶個人の資質による問題ではなく、時代の潮流が関わっている。
 隠喩的な「小説的思考」と換喩的な文体への志向は努力のベクトルがまったく違う。古井由吉大江健三郎といった、いまとなっては前時代の作家には換喩的に振る舞うことが許されていたが、それというのも「戦争」という大きな物語が時の流れとともに解体された時代、文学が何を描くべきかが模索されていたときに「書くべきものは何もないがそれでも書く」という姿勢が許容されていたからこそ有効だったものであり、10年代も終わりを迎え、「戦争」の代替品として「ジェンダー」や「人種」が拵えられるようになった現在には受け入れられないものとなっている。隠喩的に一つのテーマに焦点を合わせて掘り下げるのが現代の潮流なのである。

 

    4

 

 現代のフェミニズムの運動が主張するのは「女性が虐げられてきた」という社会構造が孕む問題である。なるほど、「女性が虐げられてきた」というのも「トランスジェンダーが不当に差別されてきた」というのも事実にほかならない。しかし、こういう批判には自分こそが彼女らを虐げたという暴力的な自己認識が欠けており、そのために単独者として真の正義を成す機会からは遠ざかっている。男性として、女性として、生まれてきた時点で他の性のあり方に対して暴力的にならざるを得ない、関係が強いるこのような構造をどれだけ意識できるかが大事であり、この意識のないところでなされた批判はどれだけ鋭いものであっても意味をなさない。なぜならそこには自分が正しいというケチな傲慢さがあるからだ。具体的な身近な人との関係において、自分はこの人にとって暴力になっているかもしれないと反省した末に紡がれた言葉が、かろうじてジェンダーに対する批判になりうる。僕は安易に「ジェンダー」を扱った作品にその反省があるとは思わない。ジェンダーを考えるとはそれだけ難しいものであるはずなのだ。
 僕はたとえば『ババヤガの夜』を批判したくてこのような文章を書いているわけではない。こう書いている僕自身がジェンダーの難しさに打たれていないではないかと思うからこそ、それについてもっと深く考えたいと願っているのだ。そういう意味では『ババヤガの夜』は僕にきっかけを与えてくれた恩のある作品なのだが、一方でこの作品が構造的に抱えている問題を無視することはできなかった。それは端的には次の点、『ババヤガの夜』における主人公新道の腕っ節の強さはハリウッドによくあるような男の主人公をそのまま女に反転させただけのように読めてしまうという点にある。この反転は王谷の批評的思考によって工夫されたもので、たとえばハリウッドが描く男性性の象徴のようなヒーローが彼女の視点には問題を孕んだ存在、極端を恐れずにいえば悪魔のような存在に見えていたからこそ、それを反転して「腕っ節の強い女主人公」という存在を打ち出し、英雄と言えば男性性の象徴であるといった先入観に閉ざされた目にショックを与え、ハリウッド的な英雄が持つ問題を浮き彫りにしようと企図したものであるはずなのだ。「男(ここ)」では英雄だったものがまったくおなじ姿のまま「女(そこ)」の視点では悪魔になる、男女の構図を反転させることで王谷はこの事実を浮き彫りにしようとしたのである。
 ハリウッド的男性性の象徴はたとえ多くの人にとっては「英雄」だったとしても一部の人にとっては間違いなく悪魔であり、人を抑圧し暴力をふるう存在にほかならない。「シスターフッド」はこのような悪魔と戦うための戦略であるはずであり、だからこそ彼女たちはおおいに戦い、そして勝利すべきなのだが、このときに失念してはならないのが単純に男女を反転させたとしても今度は別の悪魔を生み出すだけになってしまうという点である。「女(ここ)」にとっての英雄が「男(そこ)」にとって悪魔になるのだとしてら、構図を反転させただけで問題はなにも解決していない。高島鈴のエッセイに対しても王谷晶の小説に対しても僕が喉に小骨が刺さったような違和感を抱くのは、両氏の作品にこのような危険性が潜んでいるような気がしてならないからである。大事なのは「私(ここ)」と「あなた(そこ)」の差異を無視したところで生じる連帯は結局のところ「シスターフッド」が敵とするものとおなじ構図を反復することにしかならないという点である。たとえ連帯が崩れる可能性があっても「あなた」をありのまま描き受け止めることが大切なのだ。この点を忘れたときに固く結ばれていた「シスターフッド」の連帯は氷解するだろう。僕の小骨はこの危機感を抱いたことによって生じた余計なお節介の結果である。
 残念ながら男性である僕が「シスターフッド」に連帯することには限界がある。もちろん「シスターフッド」が直面している問題に関しては男性こそが当事者であり、男性こそが「私=男性=ここ」が「あなた=女性=そこ」に自分がどう見えるかを自覚すべきなのだが、それは「シスターフッド」とは別の問題になるためここでは深く立ち入らない。僕にできるのはただ文藝が灯した小さな火がこの機会に少しずつでも広まり、「あなた」をありのまま見つめることのできる真の連帯が生じるよう願うのみである。

 

    5

 

 ここで筆を置いてもかまわないはずなのだが、そうするにはなにか物足りない感じが拭えない。これでは急いで結論を出しているだけで、自分にとって大切な問題を本当に深く考えられているかが疑問なのだ。自分の身を切って本当に考えるということができていないのではないか。深く考えれば僕にとって大事なのはジェンダーではない。フェミニズムでもない。シスターフッドですらないだろう。僕にとって本当に大事なのは身を切って身近な人との関係性を考えられるか否かだけなのだ。その身近な人のなかには女性も含まれており、その関係は性の差が持つ構造的な対立に必然的に囚われてしまっている。レヴィナスは暴力を封じるような「顔」を生起させる他者とは端的には女性であると言った。しかし、デリダを持ち出すまでもなくこれには反論が可能であり、「顔」が暴力を封じることができるのは「顔」こそが暴力を生起するからなのだ。言い換えると、ヘテロセクシャルの男性にとって女性という存在があればこそ愛が生じるのだが、同時に女性があればこそDVやレイプのような暴力が生じるのである。性の差が持つ構造的な対立とはこの暴力の可能性にほかならない。
 ナチスをはじめとした全体主義国家の盛衰を見届けたレヴィナスは、歴史において一つの思想、一つの理念、一つの理想に人々が融合することを目的としたコミュニケーションはいずれ砕け散る運命にあることを洞察した。仮にそのようなコミュニケーションが成功したとしても、それは自分とはちがう異邦人のような他者、つまり「あなた」が本来持っていた多様性を廃棄したところに成立するコミュニケーションであり、他者の他者性が無視されている。全体主義の歴史が証明しているように、このようなコミュニケーションはいずれ挫折する。愛についても同様のことが言える。愛が相手を所有することを指すなら、たとえばダロウェイ夫人は作中では誰も愛していない。夫のリチャードであれ、元恋人のピーター・ウォルシュであれ、思春期に同性愛的関係にあったサリーであれ、ダロウェイ夫人にとって彼らは所有不可能であり、共通の理想や理念をもつことなど望むべくもない存在である。彼らへの愛は必然的に彼女に孤独を強いる。だが、このように挫折の文字が刻まれたコミュニケーションこそが他者の神秘を生かし、絶望を希望に転化しうるものであるとしたら、どうだろうか。
 コミュニケーションが挫折したときにこそ「私」とは異なる「あなた」の存在が確かな手応えをもって感じられる。「シスターフッド」における連帯とは、男女だけでなく女性同士においても生じる構造的な対立や暴力の可能性のなかで、挫折し連帯に失敗した瞬間に生じる「私」が「あなた」にとって暴力になるという暴力的な自己認識によって「あなた」の存在を確かな手応えとして感じ、多様な価値観を垣間みて自分自身を更新することで生じるものなのではないだろうか。個々人の価値観の差を捉えた『ダロウェイ夫人』に連帯が描かれているとすれば、それはこのようなかたちの連帯である。この連帯がひらける可能性はコミュニケーションが挫折した瞬間に自分自身を更新しうるか否かにかかっている。高島がいう「他ならぬあなた」とは「私」を更新する可能性を秘めた「あなた」、自分とは意見を異にし共通の信念も理想も持ちえない、しかし共に生きることはできるような「あなた」であるべきなのだ。「シスターフッド」というものが僕自身が真に関心を持つことができる概念であり、政治的戦略に勝利を収める可能性を持ったものであるとすれば、「私」にとって他者であるような「あなた」を「シスター」として包括するときにこそである。以上を踏まえ、「他者との関係において痛みを恐れるな」というメッセージを提示した上で、僕は他ならぬあなたに対して蜂起せよと呼びかけたい。