いえばよかった日記

書評と創作のブログです。

明るい部屋 2/3


 和人の口振りが曖昧だったために、話題は自然と次に流れ、卒業を控えた弟の就職先が俎上に乗せられていた。この四月から弟は不動産管理を請け負う会社へ通うことになっていたが、下り坂と化しつつある不動産業に祖父の不安が転がり出し、資本金、業績、社員数といった細々とした質問がはじまった。祖父の心配は自分の身よりも孫の将来なのである。
 弟が助けを求める視線をこちらに送り出した頃になって、ようやくニコチンの臭いをまとった父が上着を脱ぎながら和室に入ってきた。空席にドシンと腰を落とし、はあと長く息をつき、冬は寒い、と当たり前のことを言い放った。
——庭から玄関までは迷わずに済みましたか。
 侮蔑になりかねない酔いまかせの冗談を叔父さんが軽快に飛ばすと、父は真剣に大丈夫でしたと答え、この距離なら道は確かだと言った。父の方向音痴は親族の中でも有名で、父方の祖父や父の兄にあたる伯父さんに至っては、父をあの方向音痴と呼ぶほどである。和人は伯父さんもなかなかのものだと思っているのだけれど、父に関しては折り紙つきで、それが初めて行く場所なら徒歩十分で済む距離でも車で一時間かかるといったありさまだった。そういえば昔、確かまだ僕が中学生になりたてだった頃、四国にある伯父さんの家まで車で向かったことがあったのだが、あのときも鳴海大橋を渡って目的地に近づいたところまではよかったのだが、目的地付近になって完全に道を見失った。そこは瓦屋根が時おり交じる他は関東とさほど変わらないありふれた住宅街だったが、父にとっては巨大な迷宮以外のなにものでもない。伯父の家には何年かに一度訪れる習慣があったが、このときは二年ぶりだったこともあり、頼みの綱の土地勘は時間に流されてしまっていた。
 路肩に車を停めた父は、携帯電話で伯父さんに電話をかけた。僕たち一家にとってはこの通話がアリアドネの糸だったわけだが、それは呆気なく切れることになる。住宅街にいて、右手に駐車場があって、目の前にどうやら工事中らしい家がある、父が見えるものを手当たり次第に挙げていくと、伯父さんは——どこだよそれ、とにべもない。——うちの近くにそんな場所はない、とまで言い切るので、地図をしつこいほど確かめて近くに来ていることを確信していた父とちょっとした口喧嘩になった。荒々しいものを嫌う父が喧嘩する姿が倦み疲れていた僕には新鮮だったが、陽も落ちていてこのままでは今夜は一家で車中泊かもしれないと心配していたところでもあったので、あたらしい父の顔を鑑賞している余裕はなかった。
——とりあえずそこを動くなよ。仕方ないからこれから探しにいってやるから。あと電話は切らないでくれよ。見つけるまで長くなりそうだからな。
 助手席の母がまだ長くなりそうだとため息を吐くと、息で微かに曇ったフロントガラスの向こうで、工事中の家の玄関が開いた。出てきたのは電話を耳に当てた伯父さんだった……
 我が家の笑い話といえば今では定番となっているエピソードである。久しぶりにそれを思い出した和人は、しかし笑うこともできず、半ば聞き流していた炬燵の談笑に意識を取り戻した。というのも、出し抜けに父が切り出した話題が次のようなものだったからである。
——最近、私は仕事が忙しいんですけど、こいつは暇してるから、免許でも取ってくれたら買い物の足役を交代してもらえるんだけどねえ、身体を考えたらそうもいかないから困ったもんですよ。
 父がこちらを指してそう言うものだから、祖父が驚いた顔をした。
——あれ、かずくん何か病気なの?
 IT系の会社で忙しくしていることになっているから、過労を心配したのであろう祖父は、すぐ右隣に座っているにも関わらず答えを聞くために身を乗り出した。
——いや、大丈夫だよ。病気じゃないから、そう言いながら炬燵の中で父の太い脛を蹴った。
——ブラック企業ってよく聞くじゃない。かずくんのところがそうなんじゃないかって心配なんだよ。
——ぜんぜんそんなことはないよ。今は閑散期で、有給が貯まってたから休んでいる日が多いだけ。病気なんかじゃないよ。
——もし時間があるなら、と叔父さんが割って入った。——名古屋まで遊びにおいでよ。最近は僕も仕事が落ち着いてて、家に一人でいることが多いんだ。アサヒは大学だし、リエも帰りが遅いうえに夜勤があるからね。
 看護師をしている叔母さんは滅多に休みが取れないらしい。和人が都合がついたら是非、と答えていると、
——それより本当に病気じゃないんだね、と祖父が話を戻した。
——本当に大丈夫。
——もう去年になるけど、大きな手術をするために一月も入院したんだけどね、病院ってやっぱり嫌なものだよ。リエさんには悪いけど、私はできるならもう行きたくないね。通院は仕方ないにしても入院は嫌だ。だからかずくんが大丈夫ならいいけど、本当に、身体には気をつけてください。
 うん、ありがとうと答えている横で、入院するような病気じゃないのはよかったよな、と父がまた嘴を挟む。幸い和人を挟んだ先にいる祖父の耳には届いていないようだったが、どういうつもりなのかと左を睨むと、しまったという顔にぶつかった。わざとではないらしいが、どうしても僕の病気を話題にしたいらしい。
——ねえ、寿司まだかなあ。お腹すいてきちゃったよ。
 アサヒがそう言うと、弟が聞いてこようか? と膝を立てる。いいよいいよ、そんなつもりじゃなかったんだからといとこが気を遣ったので、好機とばかりに和人が立つと、祖父に引き止められた。慌てなくても次期に来ますよ、と言うので、それをおしてまで台所に行くわけにはいかなくなった。どうやら父のつくった窮地からは簡単には脱せないようだ。がっちり鎖で繋がれているみたいだと和人は思った。四国の伯父の家から車で二時間程度の海辺の田舎町に父方の祖父が住んでいたが、あそこの庭にも鎖で繋がれた犬がいた。誰もその犬を家族だとかペットだとかいうふうには思っていず、野良犬だったのが勝手に庭に住みついたから世話をしているだけらしい。最低限の餌と水をやる他はつき合いというほどのものはなく、向こうでも人間どもに親しみや媚をみせるようなことはない。そこにはペットと飼い主といったわかりやすい関係はなく、ただ野性的な生き物同士が共存しているだけなのだった。和人にはそれが新鮮だった。洗練された母方の実家とはかけ離れた世界ではあるが、どこかしら心和む世界でもある。少なくともあの場所でなら「平等に値しない」などといった理由で事件が起きることはないだろう。もちろん四国にも殺人やそれに類することはあり、この心理が植民地にエキゾチズムを抱くような暴力的な感慨に過ぎないことはわかっているが、都心の暴力を知っている身には周縁の世界が魅力的に思えてならないのだった。父方の祖父はもう何年も前に亡くなっている。
 ふと右隣を盗み見る。祖父は「去年の正月もお寿司だったね」と一年前をアサヒが話題にしているのを穏やかに聞いていた。その姿にとつぜん愛おしさのようなものが湧いてくるのを感じ、すべて言ってしまおうかという衝動に襲われた。病気のことも休職している現状も、洗いざらい吐いてしまおう。このまま秘密を抱えていたらきっと後悔するのだから。
 和人が腹の中をどう切り出そうか思案していると、
——そうだ、今のうちに写真を撮ろう。
 と祖父が立ちあがった。

 



 キッチンから三人を無理に呼び、八人を詰め込んだギュウギュウの和室を後に、祖父はカメラを取ってくると言い残し、廊下の板を軋ませた。ギシギシ鳴る足音を耳にすると、残された八人は仕方ないとあきらめ、アサヒと叔父が並んでいた辺りに整列し、全員で二列になって祖父の帰りに備えた。またはじまったと祖母から洩れる。それを皮切りに、好きにさせてあげましょうと叔父が言い、母が化粧を直しておけばよかったと嘆き、父がポケットを弄ってライターがないと騒ぎはじめた。和人は肩透かしをくらった気分で棒立ちになった。祖父もいないし、このざわざわした空気の中、話があるんだなどと切り出すのは、とてもじゃないが僕にできることではなかった。
 家族写真を撮ることは、毎年の祖父の使命になっているようで、ふだん寛容な祖父であっても、このときばかりは誰にもカメラにふれさせない。昔の人はカメラが命を奪うと信じていたというが、黎明期からカメラに接してきたであろう祖父にはデジカメの操作すらお手の物で、一家の中で一番のカメラマンだったから、シャッターを人に任せないのは賢明でもあった。命を奪うどころか逆に生きいきしている。
 三脚を脇に抱えて戻ってきた祖父は、急ごしらえの整列をフレームに収まるように調整して、シャッターのタイマーを設定し、和室の入り口に拵えた撮影所から、小走りに前列の端に加わった。フラッシュが三度焚かれ、その度に祖父はカメラと列とを行き来した。振り子のように滑らかな動きはとても九十の老人には見えない。急な撮影というつかの間の緊張から解放された面々が計らずも上気するのを他所に、あとはよろしく、と言い残して、健脚を見せながら祖父は自室に引きあげた。これから写真を現像するつもりなのである。
 ほどなくして、ようやくお待ちかねの桶が届いた。ダイニングテーブルに桶を二つ、人数分の寿司を置くと、皿と箸、醤油、お吸物、湯呑みといった細々したものを祖母と母が並べはじめ、叔母さんが祖父を呼びに廊下へ出る。女性だけが立ち働いていることに違和感を抱いたが、こうして座っている僕も同罪だ、と和室を出てテーブルに着きながら和人は思った。もっとも、働いている三人も身体が勝手に動いているといった調子で、自分がやって当然だという顔をしていて、誰も不平を感じていないようだった。風習に呑み込まれているのである。僕の隣に座った父も弟も無言のまま同じ渦に呑み込まれていた。
 食事の場でテレビを点けないのが祖父の家訓で、幼い頃は全員がそれを守ったものだったが、いつの頃からかそれがなし崩しになっていた。誰かがリモコンを点け、なんとなくニュースをやっていた局にチャンネルが合い、九人は画面を観るともなしにみながら桶をつついた。その間も和室のつづきのような歓談が起きていたが、和人は全身を舌にして寿司の味に集中しようとした。父か誰かがまた自分を窮地に陥れるかもしれないと身構えたからである。僕はいつもこうだ、と和人はサーモンに醤油をつけながら思った。人の輪からいつも弾き出されてしまう。みんなが楽しくお喋りしているときに一人だけ中に入っていけない。和人の意識にふと、こんなふうだからパニック障害になったのかもしれないという負い目のような考えが過ぎった。僕は自分のせいで病気になったのだろうか? 努力不足だから、価値がないから、闘いに負けたから病気になったのか。そうではない。闘いを強いる東京という獣に噛みつかれただけなのだ。価値がないというなら東京にこそ価値がない。あんな場所は焼け野原にしてしまえ! 誰も殺さず、誰も傷つけず、血の通わぬ獣だけを焼き尽くしてしまえばいい。
 和人は無言のまま寿司に集中していると、彼の意識から食事を取りあげる声が割り込んできた。テレビが相模原事件公判の模様に関連して、介護ヘルパーのきびしい経済状況を紹介し出したからである。
 番組を受けて叔父が言った。
——良くも悪くも勝者と敗者がはっきりと分かれる社会に生きているのだから、社会を変えられない以上、勝者を目指すしかないんじゃないかと思うんです。そう言っても、何も億万長者になろうなんて野心を抱いているわけではなくて、中流でいいから人並みに暮らせる身分がほしいだけなんです。アサヒにもそれを望んでいる。息子を大学にやれるだけの仕事が誰しも必要なんです。
——働けなくなったら? と叔母さんが訊いた。——私が仕事で接している人の中には、足の怪我の後遺症が残って建設業に戻れなくなった人とか、喉頭癌で声帯を切除して、営業職を辞めざるを得なかった人とかがいっぱいいるよ。そういう人たちはどうすればいいの?
——リエはどうすればいいと思うの?
——さあ、私はそうじゃないから、なんとも言えないけど……
——僕だって一緒だよ。結局、大多数の人は健康で働いていて、自分の力で生活してるんだから、そういう人たちにも自己責任でがんばってもらわないと。
——私の田舎では、と父が口を挟んだ。——働けなくなると周りみんながその人を助けるようになっていましたよ。二人の話を聞いていて思い出したんだけど、子供の頃に源さんという人がいてね、源蔵なのか源二郎なのか本名は知らないけど、とにかくみんなが源さん源さんって呼ぶ五十がらみのおじさんがいたんです。源さんはちょっと頭が弱くて、いい大人なのに働きもせずに地元の子どもと遊んでばかりいた。たぶん自閉症か何かだったと思うんだけど、身寄りのない源さんを誰も医者に見せようとはしなかった。ちょっと頭の弱い変わった人といった調子で受け容れられていたんですよ。当時は私も子どもでしたけど、公園や川辺で会えばふつうに一緒に遊んでいました。中には源さんに石を投げたり釣ったザリガニを生で食べさせたり、そういうことをしていじめるやつもいたけど、大半の子は仲良くしていたんです。今のご時世じゃあり得ないだろうけど、あの頃は色々と寛容だった。
——確かに今だと考えられないですねえ。アサヒがそういう人と遊んでいたら僕は止めていたと思いますよ。
 父はそうですねえと同意してこの話を切り上げてしまった。父の話は何かの核心を突いていたように思えたのだが、そっと覗いた横顔は簡単に世間話に流されてしまう所帯持ちの男のそれでしかなく、和人は落胆した。一方で、その横顔が仕事明けに文句ひとつ言わずに車を出して、病気の彼が電車に乗らなくて済むようにしてくれた半年ほど前の思い出も蘇り、失望と記憶との間でパンのようにちぎられる思いがした。
 人はパンのみにて生きるにあらずと言うが、この場合はパンではないものが僕を苦しめるんだ、と和人は考えた。パンのみにて生き、人の命をパンに換算する発想が相模原の犯人を産んだのなら、パンではないもののみにて生きようと願った結果がこの苦しみなのではないか。いや、キリスト教徒でもない日本人がこんな抹香臭いことを考えても仕方ない。大事なのは思想と記憶の間を出刃庖丁で分断させられたようなこの苦しみにきちんと向き合うことであるはずだ。
 障害者が交通事故で亡くなった裁判で、賠償金を算出する際に、生きていたらその人が生涯で稼いだであろう金額を概算したところ0円という結果が出たことがあるらしい。障害者には価値がないという論法を司法制度自体が有しているわけだ。つまり、犯人を裁く司法制度が犯人の思想に同調してしまっているのである。というより犯人の思想そのものが司法制度から産まれたものなのではないだろうか。人の命を金額に交換するという発想は資本主義のもので、資本主義社会に生きるとはこういう思想を受け容れることであり、どれだけ犯人を弾糾しようとも、弾糾したその言葉がやまびこになって反響し、社会的価値に己れを換算する思想として自分自身を貫いてくるのである。そういう言語の中に暮らしている僕たちがどれだけ苛烈に犯人を責めようと、責めればれば責めるほど、責めるのに使ったその言葉によって犯人に同調してしまうのだ。