いえばよかった日記

書評と創作のブログです。

老耄と一身を超えた情 古井由吉 『この道』について


 生まれて来なければよかったと思ったことが、自分にもある。一度や二度ではなかったかもしれない。幼少の頃、喘息の発作で呼吸困難にあった夜々に、寝入った家族を起こすのが忍びなくてひたすら耐えていた寝床の上で、窓外の、明けようともしもない未明の空を一心に睨んで、自分なんて生まれなければよかったと、そう思ったことがある。あれらの夜が身体のどこかに刻みつけられて、叫びにならない叫びとして、今に引いてはいないだろうか。そうして同じような夜を過ごした過去の、未来の、誰かの叫びを招いていはしまいか。苦しみは時代も場所も選ばず人と共にあった。古井由吉はこの苦しみに文学がどう向き合えるか、誰もやったことがないやり方を示してみせた。

 


 二〇一九年の一月末日に発売された『この道』は、前年まで群像誌上に掲載された短篇を収めた作品集になる。近年の作者の特徴である、私小説とも随筆ともつかない融通無碍なスタイルで書かれた、まさに小説としか言いようのない最新の作品だ。どの話も一読して目につくのは、八十を過ぎた著者の老いや衰えに関する述懐であり、気圧の変化が不眠を呼んだり、天気の変動が生き死にとダイレクトにつながったりする生活が訥々と語られる。そんな暮らしの中に旧友や親族の訃報が伴奏のように流れ、あちこちから死が聞こえてくる。
 伝説の人物を除くと、最初に登場する死者は作家だ。三島由紀夫のことだろうかと個人的な邪推を逞しくした、作中で名前の明かされないある文士の追悼の場で、その先輩にあたる老大家が、祭壇に故人の名前を呼んで「いまだ生を知らず、いづくんぞ死を知らん」と切り出すのだが、故人はまだ中年に入ったばかりの自決による死だったため、参列者たちは息を呑んだ。今から四十五年あまり昔のことだそうである。
 論語からの引用らしい。語り手は孔子の言葉を読み返し、先の言葉が祖霊にどう仕えるかに悩んだ弟子との問答から出てきたものだと確認する。いまもって人間の君主に仕えることもままならないのに、どうして祖霊に仕えられるだろうか、と答えた孔子に弟子は、では先生、死についてはどうお考えになりますかと続けて「いまだ生を知らず、いづくんぞ死を知らん」と返される。語り手は曲解だろうと断ったうえで、この言葉を次のように読む。

 没して何十年かはまだ個々の死者たちでも、さらに百年二百年も経てばおそらく、ひとつに合わされる。(中略)集合した霊を祀るには、名や格によって縛るわけには行かず、死んでしかも在る、ひたむきに死んでひたむきに在るという不可思議さへ、畏怖という名の宥和がなければ、恐怖の念をまぬがれない。そして死んで在ることを知るには、生きて在ることをその出生の、まだ人格未分の境までたどりつくさなくてはならないというのが、いまだ生を知らずの意か。

 震災の犠牲者や戦没者といった過去の、現在の死者は、生前のその人を誰も知らなくなるまで時間の経ったとき、個としての顔を薄めて死者という概念の一画に連なる。つまり「祖霊」というひとつのまとまりに融ける。この想念は翻って生への理解をあやうくする。生きていることを理解するためには、出生前の「人格未分の境までたどりつくさなくてはならない」というのだから、これは大変なことだ。胎児の頃の記憶も、それどころか受精卵だった頃の記憶すらも、しっかりと確かめなければならない。赤児の目で見た光景を覚えていると豪語した三島由紀夫ですら、それほどの記憶力は持ち合わせていないだろう。実際、語り手自身もそれは不可能だとこぼす。


 そもそも人の生はどこまで遡れるだろうか。「生きていることは、生まれて来た、やがて死ぬという、前後へのひろがりを現在の内に抱えこんでいる」と考える語り手は、「このひろがりはともすれば生と死との境を、生まれる以前へ、死んだ以後へ、本人は知らずに、超えて出る」と結ぶ。出生を辿る行為がいつしか境を超え、生と死の混濁が始まる。読んでいるこちらにもそのあやうい混濁が伝播し、生まれる以前の記憶をいま思い出すことはできないけれど、それは単に忘れてしまっただけではないか、といった考えが頭を過ぎる。時を経た死者が「祖霊」に融けあうように、時を経た忘却は記憶の底で無数の死者たちのそれと融けあいはしないか。ユング集合的無意識ではないけれど、人の記憶は忘却の果てで生前や死後に至り、祖霊の中にある誰かの記憶とつながり得るのではないか。
 テクストに身をゆだねてこう発想することに魅力を感じる一方で、右の文章を書いていて薄っすらと背中の肌が粟立った。どこかそら恐ろしい。自分では思い出すことができない記憶の底には、自分のものではない誰か別の人の目にした光景が潜んでいるかもしれない。それは蒼白い顔をした死者が肌の内へねっとりと入ってくるような、生理的な抵抗感を伴う感触だ。しかし語り手はここで怯まない。死を言葉の側面から捉えて次の観念に至るのである。

 死を思うと言うけれど、それは末期のことであり、まだ生の内である。わたしは死んだとは、断念や棄権の比喩でなければ、あるいは三途の川へ向かう道々のつぶやきか、心が残って人の枕上に立つようなことでも思うのでなければ、理に合わぬ言葉である。わたしは死んだと知る、そのわたしが存在しない。仮に臨終の意識の、影のようなものがしばし尾を曳くとしても、記憶が失われれば、自己同一性とやらも消える。ところがまたむずかしいことに、死後の存在、霊魂の不滅というような伝来の観念を、どこかでおのずと踏まえないとしたら、人の言葉はそもそも、成り立つのだろうか。ただ明日と言うだけでも、一身を超えた存続の念がふくまれてはいないか。一身を超えていながら、我が身がそこに立ち会っているというような。

 問題は「一身を超えた存続の念」というところだ。後に「一身を超えた情」と言い換えられ、折にふれて繰り返されるこの観念は、テクストの心臓としてすべての作品に鼓動を響かせている。古井由吉を読めるかどうかは、「一身を超えた情」を感知し得るか否かにかかっているのではないだろうか。インターネット上でも文芸誌でも幾人かがこのテキストを取り上げていたが、誰も心臓の音を聞き取れていないようだった。文体や作風といった、シワを刻んだ目につく肌には注意が向かっても、その奥で温かく脈打っている血が感じられていないようなのだ。もっとも、こうやって大上段に構える自分もそれを聞き逃した読者の一人には違いない。


 右のパラグラフから先をどう続けようか、書いては消しての繰り返しをもう数日つづけている。白状すると、書評としてはすでに短くない文を書いてきたにも関わらず、自分にはまだ「一身を超えた情」がわからない。一朝一夕に理解できるものではないのかもしれない。このままダラダラと駄文を重ねていっても、結局は何もわからずに筆を折る羽目になるのかもしれない。大いにそうだろう。それで構わない。この書評は、後に取りあげる「生まれて来なければよかった」という語り手のかなしみに促されて着手したものだ。同じ思いを抱いたことのある自分は、作者がこのかなしみをどう書いたか理解したい。しかしここに間違いがあるのかもしれない。本を読んだからといって人生の真理を得られるわけでも、苦しみから解放されるわけでもない。それでも人は本と共に生きることができる。折にふれて読み返し、今わからないものが、十年後、二十年後、経験を積んだ後で少しはわかるようになるかもしれない。そうして柱に身長を刻むようにして、理解の度合いを以って、これだけ生きたのだと自分に印をつけて人生を励ますことができる。ただ読み通すことが読書なのではない。読書とはそういうものではないだろうか。

 

 

 もう少し続けよう。
 死について思いを馳せる語りは、やがて戦中へと向かう。終戦の年、作者がまだ八つだった頃、空襲の罹災によって東京の家から焼き出された。東京大空襲--死者・行方不明者は十万人を超えると言われている、民間人に降りかかった悲劇である。
 当時の幼かった語り手の動向を追ってみると、「再三の遠い近い空襲の末に、敗戦の年の五月の末に、私の家も失われた。逃げた先の父親の実家も七月の末に焼かれ、母親の里まで落ちのびることになった」とある。東京大空襲・資料センターを参照してみると、一九四五年当時、四月、五月の山の手大空襲では、その他の空襲を含めて約八千人が命を奪われていた。「五月の末」にあたるの大空襲は二つあり、一つは二十四日に東京北部の住宅地が狙われた空襲。具体的には荏原区、品川区、大森区、目黒区、渋谷区などが、五百二十機のB29から三千トン以上の焼夷弾を投下された。被害は罹災家屋約六十四万戸、罹災者約二十二万人で、死者は警視庁の調べでは七百六十二人、東京都の調べでは五百三十人であったという。もう一つは二十五日から二十六日にかけて行われた大空襲で、先ほど挙げた地域よりさらに北部、政府機関、金融・商業の中枢機関が集中する都心地域と、都心から杉並区にかけての西部住宅地が空襲された。四百六十四機のB29が三千トン以上の焼夷弾と四トンの爆弾を投下し、被害は、罹災家屋約十六万戸、罹災者約五十六万人で、死者は警視庁の調べでは三千二百四十二人、東京都の調べでは三千三百五十二人だったという。語り手の生家もこの数字に連なっているのである。 


 自分の家が二階の窓から濛々と黒煙を吐いて嘆きかなしむ様を眼前に突きつけられ、語り手は見てはいけないものを見てしまったような、何かの間違いの中にいるような感覚に襲われたという。その強い衝撃に記憶の一部が欠落しすらした。しかし、悲劇はそれだけに留まらなかった。本当のかなしみは後からやってくるものらしく、敗戦からほどなくした晩秋に、一人の復員兵が母親の郷里である美濃を訪れた。この復員兵は、東京に戻った語り手の知らぬとろこで、慕っていた叔父が終戦の間際に腸チフスで亡くなり、上海郊外の楊の下に埋葬されたと伝えて髪と爪とを届けに来たというのである。叔父は二十代の半ばを越えようとする年だった。メールも電話もなく、郵便事情も悪かった当時、東京の一家にこの報せが届いたのは十日も経った頃だったという。自身のかなしみを直接言及しはしないが、語り手は弟を失った母の姿を描くことを介してその心中を明かしている。
 ここから叔父の思い出が語られることになるのだが、断片的な光景があるばかりで具体的な場面が一片も浮かばないという。叔父は東京の大学に通っていて、毎日のように語り手の生家から通学していたから、過ごした時間は決して薄くないはずなのにである。ただ一つ明瞭に覚えているのは、家族が出かけていた昼さがりに、午睡から覚めた語り手に叔父が炬燵で添い寝してくれたことだけだった。その情景を反芻しながら、「死者はいつまでも若いと感じる時、そう感じる本人は、老いたには違いないが、内実どこに、どの年に、どの現在にいるのか」と問う。「どの現在にいるのか」という言い方は現在が複数あるという感覚、いずれの過去も現在であるという感覚がなければ生じない言葉だ。その感覚で以って「いつまでも若い死者を見る生者の心は、歳月に侵蝕されてもその奥底では、死者を最後に見たその現在に留まっているのではないか」と考えてから、叔父の最期を思い、戦火に遭った自身の記憶を反芻して、こう続ける。

 生まれて来なければよかった、とは人の悲嘆のきわみの叫びとされる。より痛切には恐怖のきわみの、死の際にまで追い詰められた者の呻き、いや、呻きというよりはつぶやきである。切羽詰まっているのに、妙に安穏な日常の声のように、頭の中にぽっかりと掛かる。その長閑さのあまり、狂奔のけはいをふくんで、恐怖をさらに振れ動かす。そのまま果てた人と、生きのびた者と、その間にひらいた淵は越えられない。しかし生き残った者の内にも、死に瀕した境にあった自身の、呻きかつぶやきかは後まで遺る。生きてあることの安堵がことさらに身に染みる頃に、おもむろに底から押し上げる。すでになかば死者の声のようになっている。
 穏やかな午後に添い寝されて炬燵に温もる子供の自足にも、老いて眺めれば、障子に傾きかかる日の影とともに、それからわずか何年か後に防空壕の底で、生まれて来なければよかったとつぶやいた、その翳が差しているようにも感じられる。人の運命のことも我が身の危機のことも、知らなかった。是非もないことなのに、つゆ知らずにいたということは、死者の沈黙へ通じる。

 初読の際に上記の文を読んで、暗い衝撃を受けた。「生まれて来なければよかった」というもの凄い悲嘆の叫びが、肚に直接響いてきた。言葉の生々しさに強くたじろぎさえした。小説を読んでいていこんな衝撃を受けたのは初めてで、このショックから未だ立ち直れずにいる。初読の際はここで読むのをいったん止めたほどだった。自足した平和にある幼少の過去すら、後の悲劇によって翳るなら、いったい人の救いはどこにあるのだろう、これでは救いがないじゃないかと治らなくなったのである。
 それでも読書を再開したのは、作者への期待と信頼がそれだけ篤かったからだと思う。実際、その期待は見事という他ないほど確かに叶えられることとなる。この後でテキストは自分には想像もしなかったような道を歩み始めたのである。

 

 

 改めて確認するが、今作の作者は齢にして八十をとうに超えている。着々と進行する老いの只中にある。老化によって前後不覚になることを老耄というが、作者の分身である語り手は老耄を次のように定義する。

  老耄というのは、時間にせよ空間にせよすべての差異が、隔たったものがたやすく融合する、そんな境に入ることではないのか。まわりの者はそれを不気味な分裂と見て驚き、怖れさえするが、本人にとっては平明な実相であり、ただ人に伝えるすべもない。

 どこか死後の感覚を思わせるこの「老耄」は、作中で繰り返し思索の対象となる。たとえば「その日のうちに」という一篇では、雨天の野外にお伽話の瘤取爺が踊り狂う姿を幻視する、という形で現れる。どこか滑稽なこの幻は、同時に陰々とした拍子を踏んでいて、「どうも、陰鬱な気分と陽気な想像とが、ふさぎとはしゃぎとが、分裂したまま共存しているようだ」。また「野の末」という一篇では、古人は天変地異に凶兆をみる力があったことにふれて、「今の世でも年老いて病めば、夜の間に天気の崩れた暗い朝の寝起きに、何事とも知れず、また一身の事ともなく、あやうい予兆を抱えたような心地になる」と述懐する。これも老耄の側面であろう。老耄への直接の言及ではないが、同じ「野の末」に次のような象徴的な場面がある。
 ある夜、酔いにふらつく足で昔日は川だったという道を歩いていると、河原石を積み重ねてできた石垣と出会う。目の高さまで、人の頭ほどもある石が無造作なようでしっかりと組み合わされている。この石垣が夜目には「無数の髑髏が枕を並べてどこまでもつらなる」ように映り、目を凝らしているとまったく同じものが、「石と石の継ぎ目がそれぞれ女陰のように見える。無数の女陰の列になる」。女陰は出生を、髑髏は死を象る。老耄というのはこのように、まったく異なるもの、時には相反するものをたやすく融合させてしまう。本作においてこの特徴は内容に留まらず、文体にも一貫している。最もそれが現れているのが「梅雨のおとずれ」における次のエピソードだ。
 戦後八年目の春先、十五歳になった語り手は当時死病とされていた腹膜炎を患い入院する。ある夜、寝つけずに意識が妙に尖り、ベッドの上で全身を耳にしていると、院内のほど遠からぬ場所から小さな男の子の火のついたような泣き声が聞こえてきた。泣き声はやがて嗚咽に代わり、夜明けまで続く。それが幾夜も繰り返された。日中、気になって訊ねてみると、母子三人心中の生き残った唯一人だと知らされた。病院に近い駅のホームから、三人で電車の前に身を投げたそうだ。母親は即死し、少年の姉は片脚を切断されながらも、病院に運ばれるまでは意識があった。案外に冷静な口調で、名前と住所を応えたが、ほどなく息絶えたそうである。男の子だけは最期の瞬間に母親からホームの側に突き飛ばされ、首を強く打ったものの命に別状はなかった。母親は肺を患っていたらしい。
 夜中に立つ子供の悲嘆に、その内心を思いやって、十五歳の語り手も泣き出しそうな感情に襲われる。「見知らぬところへ目を覚ましてさぞや怯えていることだろう」と気にかけていると、なんの因果か、少年の一家は語り手が戦中まで住んでいた家のほど近くに暮らしていたことがわかる。語り手には事件のあった駅までの道も容易に思い浮かべることができた。そうして、戦中のあの空襲の日、焼け出されたか無事だったかは知らぬが、自分と同じく少年もまたおそろしい目に遭ったのだろうと共感する。しかし母親を求めて泣き叫ぶ声に耳をやるうちに、八歳に満たないあの子はまだ生まれてもいなかった、と気づくのだった。姉の方も母親の中にいたかどうかという時期である。そう数えると、「生まれ来ることがそらおそろしいことに思われ、なにか得体の知れぬ長大な物の、底知れぬ沈黙を生身の口にふくまれたように喘いだ」。
 沈痛な面持ちの場面である。暗く救いがない。実際に少年のような子がたくさんいたであろうこと、もしかしたら自分の親族にもそういう経験をした人がいるかもしれないことを併せると。身近に迫って息苦しいほどである。
 ところが、この場面は続く段落で一気に浮上する。

 ほどなく朝早くから子供の、廊下を走りまわる足音が聞こえるようになった。嬉々とした声も立つ。こちらの部屋へ駆け込んでくることもある。目が合うとにっこり笑って、あちこちをいじくりまわす。まる坊主の、まんまるの顔の、首はすこし片側に傾いているが、小さな地蔵さんを思わせる子だった。首のほうは、聞き分けがつくようになればどうにでもなおせると医者は言っていた。少年のほうもその間に、ある夜、原因不明の高熱にうなされたのを境にして、日に日に快方へ向かっていた。手洗いに通う足の運びはまだたどたどしかったが、腰はまっすぐに立って、いつのまにかひょろりと伸びたような背丈からつくづく見わたせば、あたりは夜の寝床から耳でたどっていたのよりもはるかに狭かった、よほど長い廊下と思っていたようだった。

 死病に侵されていた少年が奇跡的に快復し、男の子には笑顔が戻るという感動的な場面だが、そのこと以上に、初読時に文中の「少年」を男の子と捉ったため、幼い男の子がニョキニョキと伸びて十五歳の少年になった、そんな様が目に浮かんだ。これには驚いた。
 老耄や死について思索する以上に、作者は戦災や災害に見舞われた古今東西の人々のかなしみに想いを馳せている。それは各作品で枚挙に暇がないほどである。いちいち引用することは控えるが、心中事件の男の子へ接する姿を見るだけでもそれは明らかだろう。作者は人のかなしみに共感してしまう、そうせずにはいられない精神の持ち主なのだ。それが老体に鞭を打つようなことになったとしても、辛さや痛みを思いやって、他者の経験を我がこととして苦しむ。ホラー映画の中で登場人物がひどく傷つく瞬間、たとえば目に針を突き立てられるとか指が歪に曲がってしまうとかいった瞬間に、たとえ我が身はまったくの無傷であっても咄嗟に「痛い!」と叫んでしまうことがある。映画が自分の身体に痛みを与えるわけはないと頭では理解していても、眼前の苦しみを我がことに感じてしまうのが人間の根本的な生理なのだ。人の心に対してこの生理を強く持っているのが作者なのである。


 結果的に誤読には違いない。引用文中の「少年」は語り手を指し、男の子と融合したわけではない。しかし、そういうことがあってもおかしくないと思わせるような姿勢を、作者は文体を通して取り続けてきた。上記引用のなかでも、本来なら「私は」とくるべきところを「少年は」と言い換えている。「たなごころ」という最初に収録された短篇では、後半に始まる、登山に勤しんでいた青年期の回想で、「私」と言うべきところを一貫して「青年」と記す。このため、この「青年」が前半までの視点人物と同一なのか、次第にあやしくなってくる。「私」の言い換えは他でも徹底しており、灰汁抜きでもしたように文中の「私」を極力とり去っている。これは明らかに自覚的な努力だ。この努力によって、自我が稀薄になった、それ自体で老耄しているようなテキストが生まれる。男の子が少年に融合してニョキニョキ伸びていく誤読はここから生じたのである。
 作者が「一身を超えた情」という言葉で表そうとしているのはもっと複雑なもののようだが、その意味の一端は、自分自身が苦しむように他者の苦しみに共感することなのではないだろうか。そうして考えると、人がいつまでも生老病苦から逃れられないのは言葉の在り方と無関係ではないのかもしれない。「私」という自我に基づいた言葉の度重なる使用が、人の我を大きくして、つられてかなしみや苦しみをも肥大化するのではないか。『この道』というテキストは、一人称の言い換えを繰り返すことで、人称という制度そのものが錯覚なのではないかと思わせる力を持っている。過去と現在が、他者と己れが、容易に融合する世界で自我は不確かなものであり、であればこそ、石垣の岩が髑髏にも女陰にもなるように悲嘆と安穏が、涙と笑いが一体となる。これが老耄することの意味であり、ここではそれまでと同じかなしみが相対化されてまったく違うものと化すのである。


 本作の最後に現れるのは笑いである。夢の中で自分を訪ねてきた女が、空襲で家を焼かれたあのとき、あなたは母親の手を振り払ってあらぬ方へ走り出したのですよ、火に向かって飛び込もうとしました、男の子だからしかたないようなものの、捕まえるのがあと少し遅かったら……と言い置いて去っていく。そこで目覚めた語り手は自分が笑っていることに気づき、物に狂えるかと呆れつつも、「未だ時ならず、時ならず」と唱えて笑いを収める。不吉な、おそろしい笑いだが、そう見えるのは老耄というものが「まわりの者はそれを不気味な分裂と見て驚き、怖れさえするが、本人にとっては平明な実相」であるからではないだろうか。たとえ「まわりの者」が「怖れ」たとしても、生まれて来なければよかったと叫んでいた少年が、年老いた末に「未だ時ならず、時ならず」と生き永らえることを唱える。ここには悲嘆の影がない。あったとしてもそれは戦中の空襲で家を焼き出されたときに迸った、あのかなしみの極みとしての悲嘆ではない。過去の、現在の死者と共鳴し、笑いと融けてもはや別のものになっている。ここに救いがある。
 生まれて来なければよかったと嘆いた誰もが、生きていればいずれ老いる。老いれば老耄する。そこに救いがある。どんな悲惨に遭っても生きて老いることを励ます稀有な一冊が、『この道』なのである。